第2話
第2話
痺れが肩を越えた。
右腕全体が、他人のものになっている。指を握ろうとして、目で確認しないと握れているかすら分からなかった。試しに爪を掌に立てる。痛みはない。皮膚の感覚どころか、爪が食い込んでいるという抵抗すら、どこか遠い場所の出来事のように薄い。
冷たい汗だけが背中を伝った。
息を整え、もう一度ステータスに意識を向ける。
『永劫侵蝕:致死・解除不可』
文字は浮かび続けていた。さっきより、輪郭が濃い気がする。赤みを帯びた光が、瞬きの裏側にまで焼きついて離れない。
「解除不可、って……」
声に出してみて、喉が細かく震えていることに気づいた。唾を飲み込もうとしたが、口の中はからからに乾いていて、代わりに舌の裏がぴりぴりと痺れた。
落ち着け。まず状況を把握する。右手の感覚は消えた。左手はまだ動く。足は重いが歩ける。視界——木々の輪郭が、微かに揺れていた。風のせいじゃない。目そのものが、ピントを合わせきれていない。
毒か。呪いか。
どちらにせよ、やることは決まっている。
左手で腰の布袋を引き寄せた。養母のグレタに仕込まれた薬草袋だ。口減らしに放り出すくせに、この袋だけは渡してきた養母の気まぐれを、今は責めずに使い倒す。
解毒草、鎮静草、浄化の根。布袋の底を確認しながら、順番に並べる。葉の青臭い匂いが指先に移った。この匂いは、昔何度も養母の台所で嗅いだ。刻み方を間違えるたびに手の甲を叩かれた、あの匂いだ。今になって、あの痛みがどれほど優しかったかが分かる。手の甲を叩かれても、感覚はきちんとそこにあった。
まず解毒草。葉を千切って口に含み、噛み潰す。苦味が舌を痺れさせ——いや、舌はもう痺れている。味そのものが遠い。それでも噛み続け、青い液を飲み下した。喉を下りていくはずの液体の冷たさも、胸の手前で霧散してしまう。
待つ。
何も変わらない。
「……効かない、か」
次は鎮静草。乾燥させたものを水袋の水でふやかし、右腕に塗りつける。感覚のない皮膚に液が広がる感触を、左手で確かめた。指先でなぞった皮膚は、湿っているのに冷たくもぬくくもない。まるで濡らした布の向こうに、他人の腕が置かれているだけのようだった。
待つ。
痺れが手首を越え、肩の奥へと逆流する。早くなっている。
「おい、嘘だろ」
三種類目。浄化の根を砕き、傷口に——と思ったが、呪いには傷口がない。仕方なく噛み砕き、喉の奥で溶かした。
効かない。
四種類目。五種類目。
袋の中身を片端から試した。指先が震えて、乾いた葉を取り落とす。左手で拾い直し、また口に入れる。土の味がした。葉脈の筋が舌の上を擦る。噛むたびに、唾液が金気臭くなっていく。噛み切れなかった繊維が歯の隙間に挟まり、それを舌先でほどこうとするが、舌もまた半分死んでいて、ただ空振りに頬の内側を撫でるだけだった。
どれひとつ、体に応えない。
『永劫侵蝕:致死・解除不可』
文字が、嘲笑うように同じ位置に留まっていた。
「——ふざけるな」
声が漏れた。自分でも驚くほど低い声だった。腹の底、普段は鍵をかけていたはずの場所から、錆びついた金属のような音が這い出してきた。
膝から力が抜けた。湿った落ち葉の上に座り込む。掌の下で腐葉土が崩れ、指の間から土が零れた。左手にだけ、その冷たさが伝わる。右手の下でも同じ土が崩れているはずなのに、そちらには何もない。片側だけ世界から切り離されていく感覚が、少しずつ胸の中に積もっていく。
スキルなし。
それだけで十分だったはずだ。それだけで、俺の人生は十分に終わっていたはずだ。
なのに、世界はまだ足りないと言うのか。額に刻印を打ち、街から追い出し、森に放り込み——そのうえで、死の呪いまで被せるのか。
奥歯を噛みしめた。噛みしめる感覚はあった。顎の骨が軋む音が、頭の中で反響する。
空を見上げる。木々の隙間に差し込む光が、さっきよりも斜めになっていた。夕方が近い。このまま動かなければ、夜の森で死ぬ。動いたとしても、呪いで死ぬ。
——どちらでも、死ぬのか。
左手で地面を押し、立ち上がった。
右の膝が鈍く笑う。笑ったように折れ曲がる、という意味だ。力が入らない。それでも、二歩、三歩と前に出た。薬草の籠を背負い直す。背中に当たる籠の縁が硬い。そのわずかな痛みだけが、生きている実感だった。
少なくとも、この場で蹲って死んでやるのは、養父の思惑通りすぎる。
歩いた。
日が沈むまでの間、どれだけ歩いたのか分からない。右半身の感覚が腰まで消え、左足だけを意識して引きずるようにして進んだ。視界の歪みが酷くなり、樹の影が二重、三重に揺らいで見える。耳鳴りが始まっていた。高い音が、頭蓋の内側で絶えず鳴っている。時折、鳥の羽音のような低い音も混じったが、振り返っても木の葉一枚動いてはいなかった。
岩場の窪みを見つけて、そこに倒れ込んだ。
岩壁が背中を受け止める。ごつごつした表面が、左の肩甲骨だけに感じられた。火を起こそうと火打ち石を握ったが、指が動かない。諦める。今夜は暗闇で過ごす。闇そのものは怖くなかった。怖いのは、この闇の中で、自分の輪郭がどこまで残っているのか分からなくなることだった。
水袋を傾け、口に含んだ。水の冷たさが、喉だけを通り過ぎた。
——痛みが来たのは、その直後だった。
最初は胸の奥に、針一本分の熱。
次の瞬間、その針が何千本にもなって、内臓の裏側から皮膚を突き破ろうとした。
「——ッ」
声にならない声が、喉の奥で潰れた。
全身が跳ねた。岩に後頭部を打ちつける。目の前が白く飛んで、戻ってきたときには口の中が鉄の味で満ちていた。舌を噛んだらしい。だが痛みは、舌どころではなかった。
骨が焼けている。
神経の一本一本を、細い刃物で縦に裂かれている。そんな痛みだった。左手で自分の胸を掻きむしった。爪が肌を引っ掻く感覚だけが、かろうじて自分の体の輪郭を教えてくれる。掻いても掻いても、痛みの源はもっと奥、指の届かない骨の内側にあった。肋骨の裏側で、誰かが小さな刃を研いでいる。
『永劫侵蝕:致死・解除不可』
視界の中で、その文字だけが変わらない。
「なあ……」
呼吸の合間に、誰にともなく呟いた。
「スキルなしで、呪いで……ふたつも、要るのかよ……」
返事はない。森の夜は静かだった。虫の声すら遠く、ただ自分の歯の鳴る音と、心臓がこめかみを殴る音だけが、耳のすぐ後ろで響いていた。
養父の顔が浮かぶ。養母の伏せた目も。ユーリの『風刃』の紋章も。祭壇の冷たい石も、神官の哀れみの目も。額の、何もない肌の感触も。
全部、要らない。
全部、要らないのに、この痛みだけが、ここにある。
指先で地面を掻いた。土と落ち葉が爪の間に詰まる。その感触だけが、まだ自分がここにいると証明してくれた。土は湿っていて、微かに腐った木の匂いがして、左の指先にだけ、その冷たさがしみ込んでくる。
俺は——
俺は、こんなところで死ぬのか。
呼吸が浅くなる。胸が、鞴のように上下する。痛みは引かない。引くどころか、脈打つたびに深く食い込んでくる。心臓の拍動そのものが、呪いを全身に運んでいた。拍動の一つひとつが、自分の身体の内側で小さな爆発を起こしているようだった。
視界が明滅する。
その明滅の中で、浮かび続けていた文字——『永劫侵蝕:致死・解除不可』——の表面に、奇妙な粒子が走った。
黒い、砂のようなもの。
文字の輪郭が震える。粒子が増殖し、ステータス画面全体を覆い始める。視界そのものに、乾いた雑音が混ざった。耳鳴りの音程が、歪に上下する。まるで壊れかけた鐘の音のように、高い音と低い音が絡まりながら、脳の奥を引っ掻いていく。
「な……ん、だ……」
左手を伸ばそうとした。伸ばしたつもりだった。手は動かなかった。指先はすでに、自分の意志の届く場所から外れていた。
痛みが、頂点に向かって登っていく。骨の奥で何かが裂ける音がした気がした。ステータス画面の文字が崩れ、再構成され、また崩れる。ノイズが視界全体に広がり、夜の森の輪郭を塗り潰していく。
意識が、遠ざかる。
遠ざかる直前、画面の深いどこかで、別の文字列が瞬いた気がした。