第1話
第1話
──額が、焼けた。
神殿の祭壇に額を押し当てた瞬間、白い光が視界を塗り潰す。石の祭壇は冷たかったはずなのに、額だけが灼けるように熱い。骨の奥を針で刺されるような痛みが走り、歯を食いしばった。十六歳の『啓示の儀』。この世界に生まれた者なら誰もが通る、人生で最も輝かしい日——のはずだった。
光が引いていく。額に刻まれた文字を読み取ろうと、俺は目を開けた。
周囲が静まり返っている。
おかしい。さっきまで、同期の連中が次々とスキルを授かるたびに歓声が湧いていた。『炎槍』で会場がどよめき、『聖盾』に拍手が鳴り、幼馴染のユーリが『風刃』を刻まれたときには黄色い悲鳴まで上がった。
なのに今、誰も声を出さない。
空気が変わっていた。さっきまで祝祭の熱気で温かかった神殿の空気が、急に冷えたように感じる。百人近い同期の視線が、ひとつ残らず俺に集まっている。その重さが肌に刺さった。
神官が俺の額を覗き込み、一瞬だけ目を見開いた。すぐに表情を取り繕ったが、その目に浮かんだものは祝福じゃない。哀れみだ。
「——灰嶺カイト」
神官の声が、やけに広い神殿に響く。天井のステンドグラスを透過した色とりどりの光が、まるで場違いなほど美しく祭壇を照らしていた。
「汝に授けられし啓示は——『スキルなし』」
水を打ったような沈黙のあと、ざわめきが波のように広がった。囁き声。嘲笑。そして、距離を取るように一歩退く同期たち。靴底が石畳を擦る音が、何十人分も重なって聞こえた。まるで穢れから遠ざかるように。
スキルなし。
この世界において、それは社会的な死を意味する。
祭壇を降りる俺の足取りは、不思議なほど落ち着いていた。動揺していないわけじゃない。ただ、どこかで予感していたのかもしれない。養父母に拾われてから十年、この家に俺の居場所がなかったように——この世界にも、俺の席は用意されていなかったのだと。
「カイト!」
ユーリが駆け寄ってくる。額に刻まれた『風刃』の紋章が、午後の陽光を受けて淡く輝いていた。
「あの、その……大丈夫?」
大丈夫かと聞かれて、大丈夫だと答える以外に何がある。
「ああ。おめでとう、『風刃』」
「そんな、今はカイトのことが——」
「気にするな」
背後から、ユーリの取り巻きたちの声が聞こえた。
「ユーリ、もういいだろ。スキルなしと一緒にいるとこ見られたくないって」
「そうそう。せっかくの『風刃』が穢れるよ」
ユーリが振り返り、何か言い返そうとする。けど、俺はもう歩き出していた。庇われるほうが惨めだ。それくらいの判別はつく。
神殿を出ると、養父母が待っていた。養母のグレタが腕を組み、養父のバルトが渋い顔で俺を見下ろす。二人とも、俺の額に刻まれた——正確には、何も刻まれなかった額を一瞥して、すべてを悟った顔をした。
「やはりか」
バルトが吐き捨てるように言う。
「拾ったときから嫌な予感はしていた。素性の知れない捨て子だ、期待するだけ無駄だったな」
「あなた、ここでは——」
「構わん。事実だ」
グレタが周囲の目を気にして袖を引くが、バルトは意に介さない。養父にとって俺は、スキル持ちに育てば労働力になる投資対象でしかなかった。投資が外れた以上、感傷の余地はない。合理的な人間だ。嫌いではなかったが、好かれてもいなかった。
帰り道、三人の間に会話はなかった。石畳を踏む足音だけが、夕暮れの街路に乾いた音を立てる。すれ違う人々が俺の額をちらりと見て、すぐに目を逸らした。刻印のない額は、それだけで語る。この男には何もないのだと。
夕食も同じだ。食卓に並ぶのは硬いパンと薄いスープ。いつもと変わらない。変わったのは、養父母が俺を見る目だけだ。
「カイト」
食事を終える頃、バルトが切り出した。スプーンを置く音が、小さな食卓で妙に大きく響いた。
「明日から辺境の森へ行ってもらう。薬草採りだ」
「……辺境の森」
街の東に広がる深い森。低ランクの魔獣が出没し、スキル持ちの冒険者でさえ単独行動を避ける場所だ。スキルなしの十六歳が薬草を採りに行く場所ではない。
「薬草は高く売れる。お前がこの家にいる以上、食い扶持くらいは稼いでもらわないとな」
口減らし。
言葉を飾ってはいるが、要はそういうことだ。辺境の森に放り込んで、生きて帰れば薬草を、帰れなければ厄介払いを。どちらに転んでもバルトにとっては損がない。
「……わかった」
抵抗する気にもならなかった。ここに留まったところで何がある。スキルなしの烙印を額に刻まれた人間に、この街で生きる道はない。冒険者にはなれず、職人ギルドも門前払い。日雇いの荷運びですら、スキル持ちが優先される。
なら、森のほうがまだましだ。
少なくとも森は、俺の額を見て嗤わない。
「期間は?」
「籠いっぱいになるまで帰ってくるな」
グレタが小さく目を伏せた。罪悪感があるのかもしれない。でも止めはしない。この家ではバルトの決定が絶対だ。十年間ずっとそうだった。
その夜、荷物をまとめた。といっても大したものはない。替えの服、火打ち石、水袋、ナイフ。養母がこっそり干し肉を包んでくれたのが、唯一の温情だった。包みを手渡すとき、グレタの指先が微かに震えていた。何か言いたそうに唇が動いたが、結局声にはならなかった。俺も何も言わなかった。礼を言えば、それが別れの言葉になってしまう気がして。
寝台に横になる。天井の染みを数えながら、今日一日を反芻する。
スキルなし。
事実として受け入れるしかない。泣いても喚いても、額の刻印は変わらない。なら考えるべきは、この先どう生き延びるかだ。
薬草の知識はある。養母の手伝いで、識別と簡単な調合は覚えた。森の基本的な生存術も、街外れで遊んでいた頃にそれなりに身につけた。魔獣と遭遇したら逃げる。戦えないのだから、それしかない。
——大丈夫だ。
自分に言い聞かせて、目を閉じた。
翌朝。
街の東門を出て、辺境の森へ向かう。朝靄の中、振り返ると街の城壁が霞んでいた。見送りは誰もいない。ユーリが昨夜、家の前まで来ていた気配はあった。けど、扉を叩く音は聞こえなかった。
それでいい。
森の入り口に立つ。木々の隙間から差し込む光が地面にまだらな模様を描いている。鳥の声。湿った土の匂い。深く息を吸い込む。空気は冷たく、肺の奥まで染み渡った。
一歩、踏み出す。
枯れ葉を踏む音だけが響く。しばらく歩くと街道から外れ、獣道すら怪しくなってくる。それでも足を止めない。ここで立ち止まったら、たぶん二度と動けなくなる。
木々が密度を増し、頭上を覆う枝葉が厚くなるにつれて、森は薄暗さを帯びていった。地面は苔と落ち葉に覆われ、足を踏み出すたびに湿った感触が靴底から伝わる。時折、茂みの奥で何かが動く気配がした。小動物か、あるいは——考えないようにする。今の俺に、それを確かめる手段はない。
どれくらい歩いただろう。
太陽が中天に差しかかった頃、ふと足元に違和感を覚えた。
——黒い靄。
地面から立ち昇る、煙とも霧ともつかないものが、足首に絡みついている。払おうとしたが、手が触れる前に靄は肌に沁み込むように消えた。
冷たかった。骨の芯に氷の針を差し込まれたような冷たさが、一瞬だけ全身を貫いた。
次の瞬間、右手の指先から感覚が消えた。
「……は?」
指を動かそうとする。動く。だが、触れている感覚がない。まるで他人の手を見ているようだ。木の幹に手を押し当ててみる。樹皮の凹凸が目には見えるのに、掌には何も伝わらない。
痺れが、手首に向かって這い上がってくる。
何だ、これは。
心臓が跳ねた。呼吸が浅くなる。落ち着け。まず状況を確認しろ。足を止め、集中する。ステータスを確認しようと意識を内側に向けた瞬間——視界の端に、見たことのない文字列が浮かんだ。
『永劫侵蝕:致死・解除不可』
思考が止まる。
致死。
解除不可。
文字列は無感情に浮かんでいる。まるで、天気を告げるように。お前は死ぬと。覆せないと。たったそれだけのことを、淡々と。
スキルすら持たない俺に——世界は、死の呪いまで押しつけるのか。
痺れが肘を超え、肩に届こうとしていた。