第3話
第3話
背負い袋の縫い目が、夜明けの冷気と一緒に肩に食い込んだ。
総重量二十八キロ。松明二十本、麻縄三巻、水袋四つ、解毒剤、携行食——パーティ五人分の雑貨が、全部俺の背中に乗っている。鑑定が勝手に荷重の内訳を表示した。肋骨のひび、回復七割。この荷重で三時間歩けば、再破損確率三割超。
「カイ、遅れんなよ」
ガルドが先頭で振り返る。朝日の逆光で、表情は陰に潰れている。
「荷物運び、よろしく頼むわ」
荷物運び——囮、とは言わなかった。昨夜、酒場の板壁越しに聞いた言葉を、俺はまだ喉の奥に畳み込んだまま歩いている。気遣いのつもりか、建前か、今となってはどうでもいい。 目的地は王都南、第六迷宮。B級指定区域。本来ならDランクパーティが触れていい等級ではない。
「今回の報酬、山分けで一人金貨八枚な」
最後尾のセレンが鼻歌交じりに言う。Fランクの俺の取り分は、囮手当の日給換算で計算される別枠。銅貨三十枚。山分けの八十分の一だ。
「鑑定くんも頑張って稼げば、いつかは金貨持てるぞ」
誰かが笑った。その響きが、昨夜の「死んだら死んだで、報酬は四等分だ」と、同じ声だった。喉の奥で、唾が妙に苦い。舌の付け根に昨日の黒パンの屑が残っていて、それを飲み下す動作すら、今の俺にはひどく労力がいる仕事に感じられた。 俺は無言で背負い袋を担ぎ直した。石畳の一歩目で、紐が右肩の古傷に擦れて、鈍い熱を残した。二歩目、三歩目——歩幅を合わせるたびに、左の踵がすでに靴擦れを起こしはじめているのが、鑑定の末端感覚マップに赤い点として浮かんだ。
第六迷宮の入口は、街道から外れた崖の裂け目にあった。 鑑定を広げる。奥行き約千二百メートル、縦三層構造、地下水脈二系統。岩質は頁岩と玄武岩の交互層——崩落履歴あり。
「先行しろ、鑑定くん。三十メートル間隔だ」
松明を受け取って、最初の層に踏み込む。 空気の温度が一段下がった。岩壁を伝う水滴の匂い、泥の匂い、そして——奥のほうから、かすかな鉄錆の匂い。地表の風が届かなくなる境界を、皮膚がはっきりと覚える。首筋に湿った冷気が貼りつき、吐いた息が松明の炎に触れて、ほんの一瞬だけ橙色に染まった。足の裏が拾う情報も変わる。乾いた土から、苔と粘土の混じった、弾力のある不快な柔らかさ。靴底が沈むたびに、水気がじゅわりと滲んで、踵の擦過傷に冷たく絡みつく。
「……古い血だ」
独り言で呟いた。鑑定が検出した数値は、半月以内の遺体、複数。
「おい、鑑定くん。何か言ったか」
「なんでもない」
本当は、ここで最近誰かが全滅しているという情報を呑み込んだ。伝える意味がない。金貨八枚を前にしたガルドは、戻るという選択をしない。言えば、逆に「臆病者」のレッテルを一枚余計に貼られるだけだ。俺は口の内側を軽く噛んで、舌の上にのぼりかけた警告を、そのまま鉄錆の匂いと一緒に嚥下した。 第二層への縄梯子を降りた直後、鑑定が異常を捉えた。 ——前方四十メートル、反応五。大型。 息を止めて数値を読む。
アーマードボア。レベル十八。C級相当。五体。
C級相当が五体、群れ。B級区域の標準編成を超えている。
「ガルド。撤退の判断を」
「あ? 何だよ急に」
「反応五。アーマードボア。この装備と人数じゃ足りない」
ガルドが数秒黙った。鑑定が彼の呼吸と脈拍を拾う。迷いの数値——それでも、欲のほうが勝っていた。喉仏が一度上下して、舌打ちのような小さな音が歯の奥で潰れる。剣の柄を握り直す指の力だけが、妙に強い。指節が白く、皮が引き攣れている。
「行けるだろ。お前が足を引き寄せて、俺とセレンで正面突破する」
「五体同時は——」
「できるって言えよ、鑑定くん」
ガルドの目が、俺の背負い袋の紐を一瞬見た。荷物運びを見る目じゃなく、消耗品を見る目。道具の耐用年数をそろばんで弾いているような、乾いた視線だった。鑑定はそれを感情として検出しない。ただ、掌の皮が勝手に引きつって、爪が肉に食い込んだ。背中を伝う汗が、糸のように細く、尾骨のほうへ落ちていく。寒いのか熱いのか、自分でも判別がつかなかった。 俺は松明を握り直した。 先行する。 鑑定で群れの位置を追う。先頭の一体が、こちらの匂いに気づいた瞬間——地面が震えた。 突進。五体同時。
「来た! 散開!」
岩の柱の陰に飛び込む。背中の荷物が岩肌に擦れて、縫い目が裂ける乾いた音がした。ガルドとセレンが二体と斬り結び、残る三体が俺のほうへ反転する。 囮の仕事だ。 走る。松明を振って注意を引き、通路を奥へ、狭い分岐へ誘導する。鑑定が地形を更新していく。分岐の奥、天井高二メートル、岩質風化層、崩落閾値——。
崩落閾値?
そこで、鑑定の表示が不自然に引き攣れた。頭蓋の奥で、聞いたことのない「層」がざわつく。解析が、普段より深い情報を拾おうとして、弾かれる。鋭い頭痛が走った。視界の端に、文字とも数字ともつかないノイズが一瞬だけ焼きついて、すぐに掻き消える。こめかみの血管が、鼓動とは別のリズムで脈打ちはじめた。 だが考える余裕はない。三体が後ろに迫っている。蹄の音、岩壁にぶつかる鎧板の金属音、鼻息の湿気が、もう項の産毛まで届いている。
「ガルド、こっちに一体誘導できる——」
振り向いた。 そこには、誰もいなかった。 元の分岐、ガルドたちが戦っていた場所には、二体のボアが転がっている。仕留めてから——退路側へ走り去る背中が、松明の光の奥に揺れていた。 捨てて逃げた。 一拍、思考が止まった。鑑定の情報欄だけがやけに冷静に流れつづけている。退走者、二名。速度、疾走。迷い、なし。——その「なし」が、やけに大きく頭蓋の内側で反響した。
「カイ、あとは囮頼んだ——!」
ガルドの声が、壁に反響して届く。反響を、鑑定が正確に拾う。彼の脈拍、呼吸、歩幅——罪悪感の数値、低い。ただの合理判断。合理的に、俺を消費しただけ。 笑おうとしたら、息が漏れただけだった。口角が痙攣して、そのまま下がる。目頭の奥が熱い。けれど涙にはならない。粉塵と汗と脂で固まった瞼が、水分を通す余裕さえ残していなかった。 三体のボアが背後から迫る。逃げ道は一本。奥の風化層。 選択肢はない。走る。 分岐に飛び込んだ瞬間、天井の亀裂が鑑定の視界に鮮明に浮かんだ。——衝撃を与えれば崩落。追撃を断ち切る、ただ一つの手段。 松明を壁の亀裂に、全力で叩きつけた。 拳大の落石、次いで岩塊、そして轟音。 視界が土煙で白く潰れた。背中を何かが殴った。肋骨が、今度ははっきり折れる音を立てる。右足に岩の角が食い込み、膝から下の感覚が消えた。 倒れる寸前、鑑定が自分のHPを表示する。残り十八パーセント。
息が、できない。 肺の底に粉塵が詰まっている。咳をするたびに、肋骨の折れた断面が内側を刺す。金属の味が口の中に広がって、舌先で確かめるまでもなく、それが自分の血だと分かった。右足は引きずれない。左手と右手、腹筋だけで、少しずつ前に這う。掌の下で、小石が皮膚を裂き、湿った粉塵が傷口に張りつく。それでも進まなければ、この暗闇に溶かされる。そう理屈ではなく、体の芯が理解していた。 真っ暗だ。松明は埋まった。 鑑定だけが、黒一色の視界に情報の輪郭を描く。三メートル先、空洞。五メートル先——壁。いや、これは壁じゃない。加工された石。 祭壇。 這う。爪が割れて、石に血の筋が引かれていく。指先の感覚が、痛みとしびれの境界で揺れる。何度か、自分が今どちらの腕を動かしているのか分からなくなった。そのたびに鑑定が末端の座標を補正して、次の一センチの方角を示してくれる。この能力の、初めて「助けられた」と感じた瞬間だった。 指先が、岩とは違う感触を拾った。冷たく滑らかな石。表面に刻まれた溝——文字。鑑定が走る。
——解析不能。
初めて出た表示だった。鑑定が「不能」と言った。 顔を上げる。闇の奥から、微かな光が漏れていた。石壁の裂け目。青とも金ともつかない、呼吸のように明滅する光。鉄錆の匂いの底に、嗅いだことがあるのに思い出せない、もう一つ別の匂いがある。甘いような、乾いた花弁のような、そしてどこか懐かしい——記憶の底にこびりついた、名づけられないなにかの匂い。 その光に向かって、俺は爪を石に立てて、一センチずつ這った。 最後に頭を擡げた瞬間、鑑定の表示が、溶けるように消えた。 意識が、薄い膜の向こう側へ、ゆっくり落ちた。