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宮廷追放の老薬師、辺境で万薬鑑定

第3話 第3話

第3話

第3話

指先が、花弁に触れた。

 触れた瞬間、風の音が遠のいた。

 エルデンは目を見張った。青白い花弁は、予想より柔らかかった。露を含んだ薄絹のような感触が、指の腹に伝わる。その冷たさの奥に、かすかな温度があった。まるで花の芯に小さな灯が一つ、ふるりと灯っているような温かさだった。

 ——何だ。

 視界の端に、淡い光が滲んだ。

 最初は陽の加減かと思った。雲が切れて、斜めからの光が花弁を透かしたのだろうと。けれど違った。光は、エルデンの目そのものの内側から、ゆっくりと文字の形を結び始めていた。

 羊皮紙でもない。光の中に描かれた文字でもない。ただ、瞼の裏と花のあいだ、その曖昧な空間にぼんやりと浮かび上がる、細い字。四十年慣れ親しんだ古語書体に近いが、どこか違う。見たことのない筆運びだった。

 《青鈴草(あおすずそう)》

 文字が、読めた。

 なぜ読めたのかは分からない。けれど意味はまっすぐに胸へ入ってきた。青鈴草。そう名前が付けられている花。その名を、エルデンは今、この瞬間に教えられた。

 老人の細い指は、花弁に触れたまま動かなかった。動かしたくなかった、と言った方が正しい。動かせば、この奇妙な文字が消えてしまう気がした。指先の皮膚の下で、脈が一つ、二つと静かに打つ。その一拍ごとに、文字の輪郭が濃くなっていくようだった。

 文字の下に、続きが現れた。

 《薬効:強き解熱、悪寒の鎮静、咳嗽の軽減》  《毒性:花と葉になし。ただし根茎は麻痺を招く》  《調合:花弁を乾かし、細かく刻みて、熱水にて半刻煎じる。蜂蜜を一匙加えれば、幼子にも飲める》

 一字ずつ、ゆっくりと、胸の奥へ染み込んでいく。

 エルデンは息を止めていた。ようやく吐いた息が、自分のものとは思えないほど震えていた。

 これは——知識だ。紛れもない、薬学の知識が、自分の頭の中へ流れ込んでいる。誰かに読み聞かされているのでもない。書かれた文字を目で追っているのとも違う。花に触れた指先から、何か見えない糸を伝って、必要な情報だけが正確に、過不足なく運ばれてくる。

 こんなことが。

 四十年、薬師として生きてきた。未知の草に出会うたび、味を確かめ、匂いを嗅ぎ、少量を水で煎じて、慎重に効き目を調べた。ひとつの草の薬効を確定するのに、何年もかかることもあった。間違えば人が死ぬ。だから薬師は、石を積むように、ゆっくりと、疑り深く知識を重ねてきたのだ。

 それを、この花は——指で触れた瞬間に、すべてを差し出してきた。

 エルデンは、そっと指を離した。

 文字は消えた。陽の光がまた普通に戻り、風の音が耳に戻ってきた。畑の雑草がざわりと鳴り、遠くで鶏の声がする。何事もなかったように、ラウネ村の昼前が続いていた。

 けれど、胸の中には確かに残っていた。「青鈴草」という名前と、その薬効のすべてが。

 エルデンは立ち上がろうとして、一度よろめいた。膝が笑っていた。歳のせいではない。何か、老いた体には収まりきらないものに触れてしまった、その震えだった。

 もう一度、指を伸ばした。

 今度は慎重に、葉のほうへ触れた。矢じりの形をした葉。その縁に指先が触れた瞬間、また視界に淡い文字が浮かんだ。

 《葉:軽度の鎮静作用。煎じて茶とす。味苦く、香りに清涼あり》

 間違いなかった。触れれば、分かる。草に触れるたびに、その薬効が、調合法が、扱い方が、静かに胸へ流れ込んでくる。

 エルデンは、ゆっくりと畑を見渡した。

 午前の光を受けて、雑草に埋もれた薬草たちが一斉にそこにある。ハッカ、ヨモギ、ゲンノショウコ、クマザサ——朝、ひとつひとつを標本帳に書き留めた草花。それらの葉が、今、別の意味を帯びて目に映っていた。

 試しに、足元のドクダミの葉に指先を寄せてみた。触れる——

 《薬効:抗菌、利尿、化膿の抑止。調合:生葉を揉みて傷に貼る。十薬(じゅうやく)の名を持つ》

 知っている薬効だった。宮廷の書庫で何度も読み、実際に処方もしてきた。けれど文字はそこに、念押しをするように丁寧に浮かび上がる。ドクダミ。既知の草。エルデンの知識と、完全に一致していた。

 つまり——この力は、嘘をつかないということか。

 ハッカに触れた。葉の縁から立ちのぼる涼やかな香りが鼻腔に届き、それと同時に正確な薬効が並んだ。ヨモギに触れた。指先に細かい産毛がちくりと当たり、苦みのある青臭さが皮膚に移る。書庫の記述と一字も違わなかった。ゲンノショウコの小さな葉にも触れてみた。どれも、胸の奥で照合する知識と寸分ずれず、むしろ書物よりも濃やかに、草そのものの呼吸まで伝えてくるようだった。

 エルデンは膝から崩れるように、畑の畝の上に腰を落とした。土の湿り気が、薄い膝布を通してじんわりと伝わってくる。

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 心臓が、ゆっくりと鼓動を打っていた。

 慌てていない鼓動だった。四十年、宮廷で生きてきた薬師の心臓は、この程度のことでは慌てない。ただ、確かめるように、一拍一拍を深く打っていた。

 もう一度、青鈴草に目をやった。

 青白い花が、風に応えるように、ふるりと揺れている。この花を、エルデンは王都の書庫で見たことがない。二十七巻の図鑑、どの頁にも記載はなかった。宮廷の薬師たちなら、万が一この花を持ち帰っても「雑草の一種」と分類して、捨てただろう。精製炉にかけて色の出ない草は、扱う価値がないとされていたからだ。

 けれど——解熱、悪寒、咳嗽。

 エルデンの頭の中で、過去の患者たちの顔が次々と浮かんだ。王都で流行った冬の熱病。第二王子が七つの夏に罹った高熱。名も知らぬ薬草師の娘が、路地裏の家で息を引き取った秋の朝。解熱薬は、常に宮廷でも不足していた。主原料となる南方の樹皮は輸入が難しく、王家ですら使える量は限られていた。

 その希少な解熱薬と同じ働きをする花が——ここに、雑草と区別もつかぬまま咲いている。

 エルデンは、膝の上の標本帳を開いた。今朝、ハッカだのヨモギだのと書き込んだその隣に、新しい一行を加えた。筆先がほんのわずかに震え、墨が一点、紙面に滲んだ。

 《青鈴草。辺境ラウネ村、小屋裏手畑東隅。花弁乾燥・細刻、熱水半刻煎じにて解熱薬となる。毒性、花葉になし。根茎、麻痺の危惧あり》

 書いたあとで、筆を止めた。

 自分は今、何を記録したのだろう。書庫にも図鑑にもない草の、正確な薬効と調合法。もし宮廷の書庫にこの一行が加われば、それだけで薬師見習いの論文が十本書ける内容だ。それを、辺境の小屋の畑隅で、昼前の陽に照らされながら、自分は素手で触れて知り得てしまった。

 ヴェルナーの言葉が、ふと耳に蘇った。

 ——時代遅れです。

 エルデンは、思わず口の端をゆるめた。笑い声ではない。皺の寄った頬が、ほんのわずかに動いただけの、控えめな笑いだった。

 時代遅れの手練り調合。魔導式の精製炉が主流の時代。確かに、あの若い医長の言う通りかもしれなかった。王都ではもう、素手で草に触れる薬師など、珍品扱いなのだろう。

 けれど——素手で触れなければ、この花の薬効は永遠に分からなかった。

 魔導式の精製炉では、触れた瞬間に流れ込む情報は、読み取れない。

 エルデンは、青鈴草の前にまた膝をついた。

 老いた指先を、そっと花弁に当てる。今度は驚きなく、静かに、ただ花に挨拶するように。

「——よろしく、頼む」

 思わずこぼれた声は、自分でも意外なほど穏やかだった。四十年、調合台の前で何千の薬を練ってきた口から、これほど軽い言葉が出るとは思わなかった。花は答えなかった。ただ、風にふるりと揺れ、花弁の乳白色が陽を透かして、わずかに明るさを増した気がした。

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 畑から小屋へ戻ろうと立ち上がったとき、丘の下から声が聞こえた。

 泣き声ではない。けれど、泣き声のすぐ隣にある、何かを必死に飲み下している男の声だった。エルデンは足を止め、灌木越しに下の道を見下ろした。

 大柄な男が、肩に斧を担いで歩いていた。木こりだろう。厚い革の前掛けを着け、麻のシャツは汗で色が変わっている。その隣を、女房らしい女が小走りについていた。手に、湿らせた布を持っている。

「……もう、三日だ」

 男の声が、風に乗って丘の上まで届いた。

「三日も熱が下がらねえ。昨夜からは、うちの名前も呼べねえんだ」

 女が何か返した。声は小さく、言葉までは聞き取れない。けれど男は、首を何度も横に振っていた。大きな背中が、一歩ごとに小さく震えている。担いだ斧の刃先が、陽を鈍く照り返し、その重さに引きずられるように肩が落ちていた。

 エルデンは、標本帳を胸に抱えたまま、動けなかった。

 指先に、まだ青鈴草の冷たさが残っていた。

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