Novelis
← 目次

全スキル値ゼロ——ただし、書き換え可能

第3話 第3話

第3話

第3話

霜の粒が、革靴の底でざりざりと潰れた。

 夜明け前の闇は、まだ青い。小屋の戸を押すと、蝶番が低く軋んだ。冷えた空気が頬をなぞる。息は白く、すぐに闇に溶ける。

 背負い袋の紐が肩に食い込む。水袋の重みが腰骨を押し、ナイフの鞘が太腿に当たるたびに、鈍い冷たさが生地を通してくる。軽装のつもりだった。なのにスキルなしの身体には、これだけでも十分重い。

 麦畑の畦道を、星だけを頼りに進む。どの家の窓にも灯りはない。村全体がまだ眠っている。俺の出発を知っているのは、村長とリーナだけだ。

「エイジ」

 畑の縁で、小さな影が立っていた。リーナだった。

 毛布を一枚羽織って、素足に近い格好で立っている。赤い髪が風に流れ、毛先が霜の上で一度だけ跳ねた。彼女は何も言わず、両手で握った布袋を差し出した。

「……なんだ、これ」

「干し薬草。怪我したら、噛んで飲んで」

「いつ用意した」

「夜中」

 十四、五の少女が、寝ずに俺のために煎じたわけだ。気の利いた返しをしたかったが、舌が重かった。ただ礼を言って、袋を懐へ仕舞う。薬草の乾いた匂いが、布越しに胸へ移った。

「帰ってきて」

 リーナの言葉は短い。命令でも祈りでもなく、事実の確認に近い響きだった。彼女がそう言えば、そうなる。そう信じている顔だった。

 俺は頷き、畦道を離れた。一度も振り返らなかった。振り返れば、たぶん歩けなくなる。

 森の入口に着く頃、東の空に薄赤い線が引かれ始めていた。木々の幹が、闇から輪郭を取り戻していく。苔の匂い。濡れた土の匂い。足を踏み入れた瞬間、村の物音が遠ざかり、代わりに葉擦れと、鳥とも虫ともつかない鳴き声が耳を覆った。

 薬草は沢沿いに群生していると、村長から聞いていた。

 下生えを掻き分けながら、湿った地面を辿る。苔が膝まで伸びた場所で、目当ての葉を見つけた。丸みを帯びた三つ葉、裏が薄紫。『月苔草』——傷薬の原料だ。

 ナイフの腹で根元から刈り、麻袋に押し込む。朝露が指に移って冷たい。匂いは青くさく、少し苦い。一株、二株、五株、十株。手が勝手に覚えていく。要領が分かってくると、案外早い。薪割りも水汲みも、たぶん本当はこれくらいの精度でできる。ただ誰も、俺に試させないだけだ。

 ひとりきりで、ようやく息がつけた。

 ステータス画面を薄く展開する。端のノイズが、朝露の露玉と同じくらいの輝度で明滅していた。

 ——草の硬度:低。

 昨日触れた四文字の感触が、まだ指の腹に残っている。試すなら、人気のないここしかない。だが、焦るな。まずは予定通り、薬草を規定量揃える。そう自分に言い聞かせ、指をノイズから引き剥がした。

 沢の上流へ。さらに数十株を刈り進めた、その時だった。

 水音が、止んだ。

 正確には、水音は流れている。だが、その上に被さっていたはずの虫の声と鳥の声が、一瞬で消えた。

 森が、息を止めた。

 俺も、息を止めた。背筋の産毛が逆立つ。身体が勝手に反応している。頭で考えるより先に、脚が半歩下がっていた。

 樹々の隙間、十メートルほど先。

 低い、長い影。

 四つ足。狼ほどの体高。だが、頭骨の輪郭が歪に膨らんでいる。額から二本の骨角が突き出し、口元からは犬歯が下顎を越えて伸びていた。灰黒の毛皮の下で、筋肉が細かく痙攣している。ただの狼ではない。

 『角狼』——中級魔獣。村の話で何度か聞いた名前が、勝手に脳裏に貼り付いた。単独でC級冒険者三人を喰ったと言われている個体。

 目が合った瞬間、それは跳んだ。

 考える時間はなかった。俺も地を蹴った。

 背中越しに、枝が砕ける音。追ってきている。下生えを跳び越え、倒木を潜り、沢の流れから離れる方向へ走った。流れに沿って走れば追いつかれる。地形を乱す方へ、上へ、斜面の急な方へ。スキルなしの俺に、平地の追いかけっこで勝ち目はない。

 最初の五十歩で肺が痛んだ。百歩で脚が鉛になった。二百歩で、そろそろ限界だった。スキルで筋力を底上げしている冒険者なら、この距離を平気で走り切る。俺の身体は、ただの日本人会社員の残骸だった。

 心臓が喉元まで上がってくる。息が裂けるように痛い。革靴が小石を踏み、何度も足首がねじれかけた。袖が枝に引っ掛かり、生地が裂ける。頬に一筋、浅い傷が走って、汗と血が混ざった塩辛さが唇に届いた。

 背後との距離が、詰まってくる。

 肩越しに一瞬振り返る。角狼は、下生えなど存在しないかのように走っていた。身体の輪郭が灰の残像を引いている。狼というより、黒い液体が地を這っているような動き。

 ——勝てるわけがない。

 それでも脚は止まらない。止まったら終わりだ。岩を両手で掴み、爪を剥がしそうになりながら、膝と肘で這い上がる。麻袋が背中で暴れる。捨てれば軽くなる。捨てなかった。リーナが渡した干し薬草が、まだ懐にある。

 斜面を登る。

 登った先が、致命的だった。

 視界が開けた先に、空があった。

 足元で、地面が終わっていた。

 崖だった。幅五メートルほどの岩棚。その向こうは、底の見えない谷。朝霧がまだ溜まっていて、深さすら測れない。風が下から吹き上げてくる。冷たく、湿っていて、微かに鉄の匂いがした。

 振り返る。

 角狼が、斜面の縁からこちらへ歩み出てきた。走らない。走る必要がないことを、獣の目が理解していた。

 下顎から涎が一筋落ちる。低い唸りが腹に響く。距離、六メートル。一跳びで届く。

 ——詰んだ。

 右も左も岩肌。後ろは谷。前には中級魔獣。逃げ場が、数学的に存在しない。

 膝が震えた。笑いたくなった。これが走馬灯か、と他人事のように思った。前世のトラックのクラクション、女神の白い空間、全スキル値ゼロ、揺らぐノイズ、リーナの「帰ってきて」——全部が順番に蘇って、順番に遠ざかっていく。

 ナイフを抜いた。鞘から抜く仕草は、前世の映画で何度も見た通りだった。握り方も構え方も、たぶん間違っている。それでも、抜いた。無抵抗で死ぬのは、どうしても、嫌だった。

 角狼が、鼻に皺を寄せた。嘲笑っているように見えた。見当外れかもしれない。あるいは当たっているかもしれない。どちらでもよかった。

 角狼が腰を落とした。跳躍姿勢。

 無意識に、俺は左手を持ち上げた。

 ステータス画面が、こんな時に、勝手に展開する。死ぬ直前の、意味のない反射運動。ゼロ、ゼロ、ゼロ、そして——右下で、明滅しているノイズ。

 いつもより、遥かに、面積が広い。

 呼吸するたびに、広がっていく。

 角狼の後ろ脚が弾けた。

 指が、ノイズに突き刺さった。

 掴んだ、というより、縋った。藁を掴む溺者の動作に近かった。

 その瞬間、画面が、鳴いた。

 音ではない。視界の全部が、一斉に軋んだ。ゼロの羅列にひび割れが走り、青紫のノイズが爆発的に広がる。画面の縁が内側へめくれ、裏側の密度の高い構造が、一枚、二枚、三枚と連続してめくれ出した。

 飛びかかってきた角狼の牙が、視界の右半分を覆う。

 だが、その牙の向こうに、別の景色が重なって見えていた。

 文字ではない。数字でもない。層、属性、重み。三次元の格子のようなもの。奥行きがあり、階層があり、ひとつの節点が数十の枝で他の節点と結ばれている。森全体が、いや、この世界そのものが、この格子で編まれているのだと、直感した。

 角狼の身体に、透過した情報が重なっている。『生体:四肢獣/硬度:中/再生:低/攻撃:突進・噛みつき/弱点:頸部・腹部』——読める。読めてしまっている。

 恐怖の向こう側で、頭の芯が、異様に冷えていく。

 指先が、勝手に動いた。

 角狼の情報層へ——『硬度:中』の一点へ、爪の先を伸ばす。

 画面が、本格的に、崩壊を始めた。

 青紫の波紋が、中心から外へ広がっていく。

 ゼロの羅列は、もう原形を留めていない。ステータスの枠組みそのものが、内側から押し割られ、裏側の構造がむき出しになっていく。視界の半分を牙に覆われたまま、俺の指は、情報層の手前で、止まっていた。

 角狼の動きが、ひどく遅く感じる。

 気のせいではなかった。時間の流れが、俺だけ、ずれている。画面の崩壊が、世界そのものの処理を巻き込んでいる——そんな感覚。指先一本分の距離が、ひどく遠い。

 胸の奥で、警鐘が鳴っていた。

 ここに指を沈めれば、何かが決定的に壊れる。角狼か、俺か、あるいは——この世界の、もっと根本的な何かが。

 それでも、だ。

 懐で、リーナが渡した薬草袋が、わずかに揺れる。帰ってこい、と言った声が、耳の奥で鳴った。

 ノイズが、俺の視界の全部を、塗りつぶしていく。

 息を、吸った。

 指先を、さらに深く、押し込んだ。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!