第2話
第2話
井戸の縄が、また掌を削った。
水桶ふたつを肩に振り分けて、埃っぽい朝の小道を歩く。麻のささくれが食い込む感触。十往復で午前の水の割り当てが終わる。他の連中なら『身体強化』ひとつで三往復。効率は三分の一。なるほど、だから誰もやりたがらないわけだ。
桶の中で水面が揺れ、こめかみに冷たい飛沫が跳ねる。朝日はまだ低く、木々の影が道を横に裂いていた。肩の骨が軋む。膝の裏に乳酸が溜まっていくのが、はっきりと分かる。
「おはよ、エイジ」
畑の脇道で、リーナが手を振った。麦の刈り株の間を縫って駆けてくる。赤みがかった茶髪に、藁くずが一本絡んでいる。
「パンと干し肉。朝ごはん抜きだったでしょ」
「……見てたのか」
「昨日の夜、火を落とすの早かったから」
村長の家の窓から、俺の小屋の煙突が見える。この子は観察が鋭い。
「ありがとう。助かる」
受け取った布包みから、焼きたての香ばしさが立ちのぼる。小麦の焦げと岩塩の角。噛めば、舌の奥で唾液が一気に広がった。
「今日は何するの」
「石拾い、続き。東の畑」
「手伝……はダメなんだっけ」
「ガルドさんに怒られる」
村長は俺に余計な負担をかけないよう、孫娘の手伝いを禁じている。建前は教育。本音は「スキルなしと一緒にいる時間を減らしたい」。悪意はない。ただ、この世界の常識だ。
リーナは唇を尖らせて、麦畑の向こうへ走り去った。走り際、結んだ髪の先が一度だけ振り返るように跳ね、俺は知らぬふりでパンを口に押し込んだ。
東の畑では、先に若い男が三人、石を積み上げていた。俺と同年代。村の働き手だ。
「よお、今日も肉体労働か」
「『強化』使わねえの? 楽なのに」
「使えないんだよ。察してやれ」
笑い声。悪気はない。悪気はないが、骨身に染みる。
俺は無言で鍬を掴み、土を掘った。男たちが一振りで動かす石を、俺は三振りで動かす。掌の皮が、昨日剥けた場所からまた一枚めくれた。血が滲む。これも記録しておく。何に使うかは、まだ自分でも決めていない。
土の匂いが鼻の奥に貼りつく。鉄分と、腐りかけた根の匂い。鍬の柄に滲んだ血が木目に吸い込まれ、黒く変色していく。男たちの短い掛け声と、石同士がぶつかる鈍い音。そのリズムから、俺だけがわずかに遅れて加わる。遅れることに慣れていく自分を、どこか遠くから眺めている感覚があった。
昼までに畑の四分の一を片付けた。
リーナがシチューを運んでくる。今日は芋と青菜。スプーンを噛む。
「エイジ、ステータスって毎日見る?」
不意打ちの質問だった。
「……見るな。朝と夜」
「変わった?」
「変わらないよ。ゼロのまま」
「そっか」
彼女はそれ以上聞かなかった。ただ、俺の横顔を一瞬だけ見て、また視線を落とした。優しさと同情の境界に、この子はいる。
シチューは少し冷めかけていたが、青菜の苦みと芋の甘さが舌にほどけた。リーナが持ってきた木の器の縁が、小さく欠けている。誰かの古い器を、大事に使い回しているのが分かる。
午後、俺は小屋に戻る口実を作ってひとりになった。壁の隙間から午後の光が斜めに差し込んでくる。藁床の乾いた匂い。村の喧騒は遠い。
梁の陰では小さな蜘蛛が一匹、細い糸を垂らして行き来していた。俺はしばらくその動きを目で追い、心拍が落ち着くのを待った。急いで開いて見誤る訳にはいかない。
ステータス画面を開く。
全スキル値ゼロ。『付与失敗:該当なし』。そして画面の右下で、青紫のノイズが呼吸のように明滅している。
昨日より、広い。
見間違いではなかった。面積は確実に昨日の倍近くある。蠢く記号の数も増えている。
指先を近づけ、触れる直前で止めて、観察した。ノイズの一粒一粒が、別々のリズムで点滅している。全体としては不規則に見える。だが、ひとつひとつは律儀に周期を刻んでいる。
速い粒。遅い粒。二拍おきの粒。三拍で重なる粒。耳には聞こえないのに、胸の奥で弱く共鳴する感覚がある。まるで遠い水滴が岩に落ちる音を、皮膚で拾っているような。
——壊れたバグなら、周期なんて持たない。
息を詰めて、指先を押し込んだ。
瞬間、画面が裏返った。
ゼロの羅列が一枚の紙のようにめくれ、裏側にあの密度の高い構造が広がる。今度は一瞬ではなかった。二秒、三秒。指が触れている間だけ、構造は固定されている。
文字ではない。数字でもない。だが、何かの並び。縦に層、横に属性、奥行きに重み。そう読もうとする俺の視線を、構造側が許している気がした。
端のほうに、短い並びがあった。他よりも簡素で、要素が少ない。薄く光っている。
『——草の硬度:低』
読めた。
息が止まった。
もう一度読む。間違いない。草。硬度。低。
指を離す。画面は一瞬で元に戻った。全スキル値ゼロ。ノイズ。何事もなかったような顔。
俺は小屋の外へ出て、壁に背を預け、大きく息を吐いた。
吐いた息が、午後の乾いた空気に溶けていく。手のひらに残った震えを、反対の手で握りしめて止めた。動悸が耳の裏で鳴っている。怖いのか、興奮しているのか、自分でも判別がつかない。
あの四文字が、頭の中で灼けついて離れない。
『草の硬度:低』。意味は明らかだ。あれは「草」という存在の、「硬度」という属性を規定する数値だった。つまり、この世界の物事は、あの裏側の構造で定義されている。
まさか、と思う。
まさか、書き換えられるのか?
試すには場所がいる。村の中では誰かに見られる。リーナの目、ガルドの目、村人の目。スキルなしのエイジが、何もない空中に指を走らせている——そんな光景を一度でも見られれば、俺はこの村にいられなくなる。
夕方、村の広場を通りかかった。
「森の薬草、今年は誰が採るんだ」
「若いもんに任せるしかねえだろ」
「でも先月、ゴブリンが一匹出たって話だぞ」
「それは運が悪かっただけだ」
薬草採取。辺境村の必要仕事で、スキル持ちの若手が順番で担当する、危険度中程度の任務。
俺は広場の柱に体重を預けて、その話を最後まで聞いた。今年の担当がまだ決まっていない。誰もやりたがらない。理由は簡単だ。薬草の生える奥地は、魔獣の縄張りに近い。
好都合だった。
柱から離れ、村長の家へ向かう。ガルドは囲炉裏の前で煙管を吸っていた。煙が梁に絡んで消える。
「村長。薬草採取、俺が行く」
ガルドが煙管を落とした。
「……正気か、エイジ」
「戦闘は避ける。逃げる。採って帰る。それだけだ」
「お前、スキルが」
「スキルなしでも草は採れる。違うか?」
ガルドは長く俺を見た。皺の奥の眼が、俺の本音を探っていた。たぶん、見抜かれている。俺がただの草採取のためにこれを志願したわけではないと。囲炉裏の火が、老人の頬の陰影を一瞬だけ深く彫り直した。
「……お前の命だ。止めはせん」
それで話は終わりだった。
小屋に戻る途中、リーナが駆けてきた。ガルドから聞いたのだろう。目が赤い。
「なんで行くの」
「仕事だから」
「嘘。あなた、仕事を取りにいく人じゃない」
声が震えていた。麦の刈り株を越えてきたせいか、裾に藁くずが絡んでいる。朝と同じ場所で、朝と違う顔をしている。
「じゃあ、試したいことがある。それだけだよ」
「試したいこと?」
俺はリーナの頭に、短く手を置いた。指先にまだ『草の硬度:低』の熱が残っている気がして、すぐに引っ込めた。
「帰ってきたら話す」
約束じゃない。ただの予告だ。それでもリーナは頷いた。頷くしかない顔で。
小屋に戻り、俺は古い背負い袋に最低限の荷物を詰めた。水袋。火打石。乾し肉。薬草を入れる麻の袋。ナイフは一本だけ。護身用と言うには頼りなく、料理用と言うには長い。刃を親指の腹に当てて、切れ味を確かめる。薄く冷たい線が走った。悪くない。
最後にステータス画面を開いた。
ゼロ。ゼロ。ゼロ。
そして、昼間より明らかに広がったノイズ領域。呼吸する青紫。
指先でそっとノイズの縁をなぞる。触れずに、距離だけを確かめる。裏側の構造は、まだそこにある。『草の硬度:低』。あの四文字が、俺に約束した。
書き換えられるかもしれない。
窓の外で、月が痩せ始めていた。
明日の夜明け前に、俺は村を出る。
スキルなしの男が、何も持たずに森へ入る。村人たちはきっと、俺が帰ってこないと噂するだろう。
——戻ってくる。別人になって。
灯を消した。藁床に横になると、闇の中で、ノイズの青紫だけが瞼の裏に残って燃えていた。瞬きをしても消えない。閉じた瞼の内側で、その光は律儀に周期を刻み続けている。俺は呼吸を合わせるように、ゆっくりと息を吸い、吐いた。