第1話
第1話
死んだはずなのに、意識がある。
真っ白な空間に立っていた。足元には感触がないのに、確かに立っている。体重を支える地面の硬さも、靴底を通じた冷たさもない。なのに倒れない。浮いているのとも違う。「立っている」という事実だけが、感覚を伴わずに成立している。周囲を見回すと、同じように困惑した顔の人間が十数人、円を描くように並んでいた。年齢も性別もバラバラ。共通しているのは全員が日本人っぽいということと、全員が「ここはどこだ」という顔をしていることだけだ。
記憶を辿る。会社帰り。横断歩道。トラックのクラクション——そこから先がない。
つまり、そういうことか。
「——勇者の皆様、ようこそ異世界ヴェルディアへ」
声と同時に、空間の中央に光が集まった。光が人の形を取り、銀髪の女性が現れる。白い衣をまとい、背中には薄く光る翼。どこからどう見ても女神だった。
「私はこの世界の管理を司る女神アステリア。皆様には、この世界を脅かす魔の脅威に立ち向かっていただきたく、お呼びいたしました」
ざわめきが広がる。「異世界転生じゃん」「マジか」「スキルとかあんの?」——驚くほど順応が早い連中だった。まあ、この手のフィクションに慣れた世代ということだろう。俺も人のことは言えないが。
「これより、お一人ずつ固有スキルを授けます。どうぞ前へ」
女神が手をかざすたびに、転生者の前に半透明のウィンドウが出現する。いわゆるステータス画面だ。
「おお、『聖剣召喚』だって!」
「私は『氷結魔法・極』……S級スキルじゃない!?」
「『千里眼』きた! 索敵系最強じゃん!」
次々と歓声が上がる。誰もが目を輝かせ、自分のスキルを見せ合っている。隣の男が「俺Aランクだぜ」と拳を突き上げ、向かいの女性が「やった、回復系だ」と手を合わせて喜んでいる。その光景を、俺は列の後ろからぼんやりと眺めていた。嫌な予感はなかった。まだこの時点では。
俺の番が来た。
女神の手が光り、目の前にステータス画面が浮かぶ。
——全項目、ゼロ。
攻撃力0。防御力0。魔力0。敏捷0。スキル欄には四文字だけ。
『付与失敗:該当なし』
「…………」
女神アステリアが目を見開いた。困惑、というより動揺に近い表情。完璧な美貌に走った亀裂のような、隠しきれない狼狽。神ですらこの結果は想定外らしい。
「あの……これは、その……」
「大丈夫です。読めます」
読めている。読めているからこそ、言葉が出ない。
全スキル値ゼロ。付与失敗。該当なし。要するに俺には、何も与えられなかったということだ。
周囲の視線が突き刺さる。さっきまで浮かれていた転生者たちが、気まずそうに目を逸らす。数人はあからさまに安堵の表情を浮かべていた。自分じゃなくてよかった、と。その感情を責める気にはなれない。俺が逆の立場でも、同じ顔をしただろう。ただ、胃の底が鉛を飲んだように重くなる感覚だけが、否応なく現実を裏付けていた。
「申し訳ありません……原因は分かりかねますが、再付与を試みます」
女神が再び手をかざす。光が集まり——そして、何も起きなかった。三度目も同じ。ステータス画面のゼロの羅列は、微動だにしない。
「……これ以上は、私の権限では」
「分かりました」
それだけ言って、俺は列に戻った。騒いでも仕方がない。現実は現実だ。
転生者たちは順次、各地の王国や都市へ送られていく。固有スキル持ちは王都へ、有望株は騎士団へ。俺の転送先は——辺境の農村ブレンだった。当然だろう。スキルなしの人間を受け入れてくれる場所など、辺境くらいしかない。
ブレン村での生活は、予想通りだった。
転送された瞬間、土と草の匂いが鼻腔を満たした。白い空間の無臭に慣れた体が、初めて「この世界」を実感した瞬間だった。風が頬を撫でる。乾いた、少し埃っぽい風。見渡す限りの麦畑と、その向こうに連なる低い山々。空は高く、雲は前世より白い。美しい場所だった。俺を歓迎する者は誰もいなかったが。
「悪いがね、薪割りは任せられねえよ。スキルなしが斧を振ったら、自分の足を割っちまう」
村長のガルドは悪い人間ではない。ただ、この世界の常識に従っているだけだ。スキルがすべてを規定する世界で、スキル値ゼロは障害と同義だった。ガルドの皺だらけの顔には、申し訳なさとも困惑ともつかない表情が浮かんでいた。「女神様から預かった人間を邪険にはできねえ。だが、させてやれる仕事が限られるんだ」——その言葉に悪意はなく、だからこそ反論のしようがなかった。
水汲み、草むしり、家畜小屋の掃除。俺に回ってくるのは、スキルが一切要らない仕事ばかりだ。村人たちは俺を嫌っているわけではない。ただ、どう扱えばいいか分からないのだ。腫れ物に触るような視線。あるいは、存在しないものを見るような目。井戸端で女たちが声をひそめるのが聞こえる。「あの人、本当にスキルがないんだって」「可哀想にねえ」——同情の声すら、壁のように感じた。
「はい、お昼ご飯」
唯一の例外が、村長の孫娘リーナだった。十四、五歳くらいの少女が、毎日欠かさず昼飯を届けに来る。赤みがかった茶髪を風になびかせて、布に包んだ椀を両手で大事そうに抱えて。
「今日はシチューだよ。おばあちゃんが多めに作ったから」
「ありがとう」
受け取った椀から白い湯気が立ちのぼる。根菜と、おそらく鶏に似た鳥の肉が入ったシチュー。素朴な味だが、冷えた体に染みた。
「ねえ、午後は何するの?」
「裏の畑の石拾い」
「手伝おっか?」
「いや、いい。これくらいは一人でやれる」
リーナは俺のステータスを知っている。それでも態度が変わらない。こういう人間は、どの世界にもいるものだ。
——だが、一つだけ。気になることがあった。
ステータス画面を開くたびに、視界の端でちらつくものがある。画面の右下、ステータス欄の外側。文字化けしたようなノイズが、常に蠢いている。
点滅する不規則な記号の羅列。色も形も一定しない。ある瞬間は青白く、次の瞬間には赤黒く、そしてまた透明に近い色へと移り変わる。他の転生者のステータス画面にはこんなものはなかった。女神の空間で周囲を確認した限り、俺だけだ。
壊れているのだろう。全スキル値ゼロの欠陥品なのだから、画面にバグがあっても不思議はない。そう結論づけて、俺はいつも画面を閉じていた。
ある夕方、家畜小屋の掃除を終えて、ふと開いたステータス画面を眺めていた時だった。西日が差し込む小屋の中、藁の匂いと家畜の体温が混じった空気の中で、画面の青白い光がやけに鮮明に浮かび上がっていた。
疲れた指先が、うっかりノイズの領域に触れた。
瞬間——画面が弾けた。
ゼロの羅列が砕け散り、まったく別の構造が一瞬だけ露出する。文字でも数字でもない、見たことのない記号の配列。規則性があるようで、ない。コードのようで、コードではない。だが確かに、何かの「意味」を持った構造だった。膨大な情報が圧縮されたような密度。それが一瞬だけ、指先の向こうに展開された。
心臓が跳ねる。呼吸を忘れていたことに気づき、浅く息を吸い込んだ。
次の瞬間、画面は元に戻っていた。全スキル値ゼロ。文字化けのノイズ。何事もなかったかのように。
「……見間違い、か」
そう呟いて、画面を閉じる。
見間違いだ。疲れていたのだ。ゼロしかないステータスを見すぎて、幻覚でも見たのだろう。
そう自分に言い聞かせた。
だが指先には、あの一瞬の感触が残っていた。ノイズに触れた瞬間の、画面が「応答した」感覚。壊れた画面のバグではなく、何かが反応した手応え。あの密度。あの構造。ゼロの羅列とは明らかに異質な、何かが「在る」という確かな手応えが、指の腹にこびりついて離れなかった。
翌朝、目が覚めてすぐにステータス画面を開いた。薄暗い部屋の中、窓から差し込む朝の光よりも先に、画面の淡い光が天井に映った。
ノイズは変わらず、画面の端でちらついている。昨日より少しだけ——気のせいかもしれないが——面積が広がっているように見えた。
全スキル値ゼロ。付与失敗。該当なし。
それは変わらない。だが、このバグだけが、俺のステータス画面で唯一「ゼロではないもの」だった。
壊れた画面の、壊れた領域。触れれば反応する、正体不明のノイズ。
俺はゆっくりと指を伸ばし——寸前で止めた。
まだ、早い。もう少しだけ観察してからだ。
だが心のどこかで、確信に似た予感が芽生えていた。
俺の冒険は、まだ終わっていない。