第3話
第3話
王都ギルドの資料室は、地下二階の北奥にある。
レイドは階段を降りた。羊皮紙と蜜蝋、微かにかび臭い古紙の匂いが段を下るごとに濃くなる。五年間で何十回も潜った道だ。鑑定士の閲覧権限は除名でも消えない——査定官の事務的な手続きで、その一点だけが残っていた。
「鑑定士レイド・アシュフォード。閲覧申請、禁忌迷宮関連資料」
受付の書記官は老齢の男で、レイドの除名を既に知っている様子だった。だが表情は動かさない。書類に印を押し、木札を差し出す。
「第七書架。持ち出し不可」
「了解した」
木札を握り、通路を奥へ進む。天井は低く、ランプの間隔が広い。光の届かない区画では、書架の背が影に溶けていた。靴音が石床に湿った反響を返す。
第七書架——禁忌迷宮関連。最下段に、紐で束ねられた拓本の一巻。厚い羊皮紙を蝋引きした、湿気に強い保存仕様だ。
レイドは膝をつき、巻を抜き取った。紐を解く指先が、わずかに速い。
五年前、この拓本を初めて手にした時は、一文字も読めなかった。
閲覧机に広げる。ランプの芯を調整し、光を近づけた。拓本の墨が紙に淡い影を落とす。「始源の書庫」封印碑文——全六行。これまでに読めたのは三行まで。残り三行が、昨夜の馬小屋で鍵を得た部分だ。
レイドは懐からノートを取り出した。革表紙の温もりがまだ残っている。対応表の頁を開き、拓本の横に並べた。
「——第一行」
声を抑えて読み上げる。
「『我が扉に至る者よ』」
石造りの天井に声が短く跳ね、すぐに湿気に吸われて消える。既知の部分だ。五年間で何度も訳した。削ぎ落とされて、今では自分の言葉のように口に馴染んでいる。
「『汝、徒党を組みて来るなかれ』」
ここで、指が止まった。
五年間、この一行を「パーティで来るな」と訳してきた。だが活用体系が完成した今、動詞の語尾に別の意味が見えている。——「徒党の資格を以て来るなかれ」。所属や組織の証明書は、ここでは通用しないという意味だ。裏を返せば——。
ペンを取る。ノートの余白に翻訳を書き付けた。インクの乾きを待たず、次の行へ進む。紙に落ちた墨が、呼吸に合わせて滲む縁を広げていく。指先は冷たいのに、掌の中央だけが火を持ったように熱かった。
「『汝、文字を読む者のみ、門を叩け』」
第三行。ここは以前「学識ある者のみ入れ」と訳していた。だが「文字を読む」の目的語が、直前の「徒党の資格」と対になっている。組織の資格ではなく、個人の解読能力。それが入場条件。
レイドは息を止めた。
五年前、この三行目が解けず、何度も馬小屋の藁の上でノートを伏せた夜があった。その夜のすべてが、今この一瞬に向けて積み上がっていたと知る。
「『門は応える。読み解く眼に、碑は応える』」
応答式。封印は問答で開く。パーティ証明ではなく、碑文を読める個人にのみ開く門。
喉の奥で、五年分の埃が裏返る感覚があった。息を吸い直す。胸郭がひどく軽い。
「——単独で、入れる」
呟きが、狭い資料室に吸い込まれた。
隣の閲覧机で書記を整理していた若い職員が、怪訝な顔で振り返った。レイドは軽く頭を下げ、ノートに視線を戻す。指先が震えているのが自分でもわかった。興奮ではない。五年間の負荷が抜けていく反動だ。肩甲骨の奥で、ずっと張っていた筋が一本、静かに解けるのを感じた。
残り二行を読む。第五行は入場後の警告——「視ることに耐えよ」。そして最後の第六行。
「『書庫は、あなたを待っていた』」
書庫は、あなたを待っていた。——古代文字の主語は通常、不特定の集団を指す。だがこの一節だけ単数形。ただ一人の読者に向けた文言だった。
レイドは拓本の端を指で押さえ、眼を閉じた。
五年間、馬小屋で文字と向き合ってきた意味が、この一行で裏打ちされる。パーティの鑑定士としての五年ではなかった。碑文に応える一人の読者として、自分は訓練されていた。馬小屋の冷えた夜。ランプの芯を切り詰めた節約。親指の腹で擦り切れた対応表の角。それらが、ここで意味を取り戻す。
眼を開ける。ランプの芯が揺れ、拓本の墨が一瞬濃く見えた。
「——行こう」
ノートを閉じ、拓本を元通り紐で縛る。閲覧机を整え、木札を返却窓口に戻す。書記官が顔を上げ、いつもと同じ角度で目礼した。
「しばらく戻らない」
レイドは短く告げた。書記官は瞬きを一つし、書類に注記を書き込んだ。引き止めも詮索もない。ただ記録する。——この場所の礼儀だ。
地下を出ると、正午の光が眩しかった。
レイドは市場通りを北へ折れた。冒険者装備の通りには馴染みの店が三軒ある。武具の修繕、保存食、携行灯。五年間、白銀の牙の買い出しを一人で回していた店だ。
「おや、珍しい。一人かい」
武具屋の親父が鞣革の匂いの中から顔を出した。
「しばらく遠征に出る。軽量の短剣と、予備の革鎧。あと解読用の灯油」
「遠征、ね。白銀の牙は——」
「関係ない。個人の仕事だ」
親父は片眉を上げたが、詮索はしなかった。奥から一振りの短剣を出す。刃渡りは短いが、鑑定で視ると鋼の層が緻密に折り重なっている。
「銀貨三十。ただし鑑定士価格で二十五」
「助かる」
レイドは金貨二枚と銅貨数枚——昨日の配分そのまま——を、卓上に置いた。端数の銅貨が乾いた音を立てた。親父が微かに眉を寄せたが、何も言わなかった。銅貨の列を親父が指で揃え、布で磨いた刃をそっと鞘へ収める。鋼の匂いが一瞬、革の匂いを押しのけた。
保存食屋で乾燥パンと干し肉を買い、携行灯の店で予備の芯と油を買った。どれも最低限。禁忌迷宮の攻略期間は鑑定の眼でも正確には視えない。だが碑文が「単数」に語りかけている以上、補給の心配は少ないはずだ。十日分の糧食で足りる。
宿には戻らなかった。馬小屋に残した私物は、解読ノート以外ほぼない。五年間、そこに根を張らないように暮らしてきた——無意識のうちに。今になって、その習慣の意味がわかる。
西門を抜けたのは午後二時だった。
門番が形式的に身分証の提示を求めた。レイドは鑑定士の銅札を見せた。除名されても、鑑定士個人の資格は残る。銅札の裏側には、五年分の使い込みで浅い傷が入っていた。
「目的地」
「北方、禁忌区域」
門番の表情が一瞬硬くなった。
「……単独か」
「ああ」
門番は何か言いかけ、やめた。身分証に通行印を押し、返却する。
「ご無事で」
その一言だけだった。
レイドは歩き出した。城壁の影が背中から離れていく。影の縁が足元から遠ざかるのを、踵で確かめるように歩いた。振り返らなかった。振り返っても、もう見るべきものはない。カイルの聖剣も、ダリオの槍も、ミーナの杖も——すべて、碑文の外側のものだ。
街道が北へ延びている。初冬の風が乾いていた。枯れ草の匂いと、遠くの鉄鉱山の硫黄の気配が混じる。懐のノートは、歩くたびに胸骨を軽く叩いた。——行こう、行こう、と拍子を取るように。その拍子が、五年間の沈黙のあとに自分の身体が覚えていた最初のリズムだった。
レイドは唇の端で、五年ぶりに微かに笑った。
同じ頃、王都ギルドの受付台。
カイルが片手を机に突き、書類を受け取っていた。新しい迷宮任務。中級迷宮「灰剥の坑」——呪詛混じりの鉱石が湧く、難度C+の案件。報酬は金貨六十。
「鑑定士、手配しておいてくれ」
隣のダリオが軽く言う。カイルは鼻で笑った。
「鑑定士なんて安く雇える」
机越しの受付嬢が、微かに眉を動かした。だが口は開かなかった。
「銀貨十五も出せば、Dランクの若いのが喜んで付いてくる」カイルが書類に署名する。「レイドの倍働かせて、半分の金額だ。得しかねえ」
ダリオは肩をすくめ、ゼノは頷き、ミーナだけが視線を落とした。右手の甲の爪痕は、朝より深くなっていた。
「出発は明朝」
カイルが書類を叩き、背を向ける。酒場の方角へ歩き出した。
受付嬢は署名済みの申請書を見下ろし、ペンを走らせて備考欄に一行書き添えた。——鑑定士、未定。
地下資料室の方角から、扉が一つ静かに閉じる音が、微かに届いた気がした。