第2話
第2話
馬小屋を出たのは夜明け前だった。
藁屑を払い落とし、背嚢の紐を肩に掛け直す。懐のノートはまだ体温で温かい。革表紙の角が胸骨に当たり、歩くたびに乾いた音を立てた。
王都の石畳は夜露で白く湿っていた。西門から査定ギルドまで、歩いて二十分。路地を抜けるとパン屋の煙突から白い煙が立ち上り、焼きたてのライ麦の匂いが鼻腔を掠める。以前は朝の出立前に必ず立ち寄った店だった。今朝は素通りした。
(朝一番の査定、か)
昨夜、酒場でカイルが呟いた言葉を反芻する。「次の査定で、ちょっと話がある」——鑑定するまでもなかった。五年間、兆しは少しずつ積み重なっていた。今朝はその総括だ。
査定ギルドの重い樫扉を押す。朝の空気とは別の、羊皮紙とインクの匂いが肺に入り込んだ。受付嬢が目礼する。その頭の下げ方は、五年前と同じ角度だった。
「査定室Bです。白銀の牙、既にお入りになっています」
——既に、か。
レイドは狭い螺旋階段を降りた。石段の中央は数百年分の靴底で擦り減り、足の裏に微かな窪みが伝わる。最初にこの階段を降りた日、自分は期待に胸を鳴らしていた。今朝、足取りに跳ねはない。ただ、鎖の長さを測るような、一段ごとの確認があった。
扉の前で一度だけ息を整え、押した。
「入れ」
査定官の声。部屋は想像していたより狭かった。天井が低く、採光窓は壁の上端に一つだけ。埃が斜光を横切って落ちていく。壁の石は湿り気を帯び、指で触れればそのまま冷たさが骨に沁み込みそうだった。蝋燭は灯っていないのに、油の残り香だけが部屋の隅に澱んでいる。床には薄く水気が這い、レイドの革靴が一歩踏むたびに、乾いた音と湿った音が半分ずつ返ってきた。
カイル、ダリオ、ゼノ、ミーナ。四人が樫の机を挟んで並んでいた。誰もレイドを見ない。ミーナだけが床の木目を見ていた。彼女の右手の甲に、爪の跡が四つ、白く浮いている。左手は膝の上で固く握り込まれ、指の関節が蒼白になっていた。カイルは椅子に深く寄りかかり、口の端を微かに持ち上げている。ダリオは両腕を組み、眉間の皺だけが深い。ゼノは机の縁を指先で無意味に叩いていた。四人分の体温が、空気の中で互いに背を向け合っている。
査定官は中年の女だった。髪を後ろで束ね、眼鏡の奥の視線は乾いている。机の上に書類を二枚並べ、レイドの着席を待たずに切り出した。
「白銀の牙より申請が出ている。鑑定士レイド・アシュフォードの除名。全員の同意署名が揃っている」
短い。装飾がない。——それだけ、日常的な処理だということだ。
レイドは書類に視線を落とした。
署名は四つ並んでいた。
カイル・ヴァレンタイン。ダリオ・コート。ゼノ・ヴィス。ミーナ・セルセラ。
筆跡は四様だった。カイルの字は大きく、末尾を払うように跳ねている。ダリオは角張って几帳面。ゼノは崩し字で、ミーナのそれだけが丸みを帯び、末尾が僅かに震えていた。
インクの乾き具合が微妙に違う。カイルとダリオのものは黒々と濃く、昨日の昼前後。ゼノは昨日の夕刻、酒席の前だろう。ミーナの署名だけが筆圧が弱く、文字の下腹に微かな光沢が残っていた。——昨日の朝、まだ迷宮に出発する前。
(迷宮に入る前に、全員揃っていたのか)
擬態トラップを見抜いた、あの朝より前に。
昨日の朝、ミーナの署名が乾く前に、自分は階層ボスの弱点を看破していた。その報酬が端数の銅貨で、その夜のうちに馬小屋で古代文字を読み終えた。——時系列が奇妙に整っている、とレイドは思った。全ては、昨日のうちに決着していたのだ。自分が担いだ素材袋の重さも、肩に食い込んだ紐も、すべて帳簿の外側にあった。署名が揃ってからの一日、自分は既に「居ない者」として迷宮に潜っていた。
「異論はあるか」
査定官が事務的に尋ねる。
「——ない」
レイドは答えた。声はいつもより平坦だった。平坦というより、平面だった。感情が滑り落ちる角度もない、磨き上げられた石板のような声。自分でも驚くほど、喉の奥は乾いていなかった。
カイルが一瞬、拍子抜けしたように口を半開きにした。次の瞬間、鼻で軽く笑う。想定していた反応と違ったのだろう。縋るか、食い下がるか、怒鳴るか——そのどれでもないのが、意外だったらしい。
査定官はペンを取り、除名証の下部に羽ペンを走らせた。擦れる音。インクが紙に染みていく。それだけの動作で、レイドの五年が解かれた。
頭の中で、記録が流れた。
——第三層の毒霧。風向きを読み、退避経路を指示した夜。ミーナだけが「ありがとう」と言った。カイルは「風なら俺にもわかる」と言った。
——北方迷宮の呪詛核。ミーナの杖の汚染度を測定し、廃棄を進言した朝。杖は半年前の恩賞品だった。彼女は怒り、三日後に新しい杖を買い直し、いま本人はその事実を忘れている。
——枯渇の塔、最上階。カイルの魔力残量が閾値を割る三分前、撤退を進言した黄昏。カイルは「まだいける」と言い、だが足は階段に向いた。撤退したとは誰も記録しなかった。
——ダリオの槍の柄が微細な亀裂で折れる寸前だった週。レイドが武具屋に回して修復させた。請求書は自分の報酬から引かれた。報告はしなかった。
——ゼノが禁忌魔導書に触れかけた瞬間、隣で鑑定発動の合図を送った朝。彼は今もそれを「偶然目が合った」と記憶している。
走馬灯ではなかった。ただの冷えた帳簿だった。数字は正確で、日付は整い、救われた命と素材と金額が整然と並んでいる。署名した本人たちは、その頁を一枚も覚えていない。覚える必要がなかったのだ、彼らには。記録する人間と、記録される人間は、そもそも違う生き物なのかもしれない。その帳簿を読めるのは、世界でレイド一人だった。そして、もう読む必要はない。
「除名は本日付で効力を持つ」
査定官が除名証を差し出した。
レイドは受け取った。
羊皮紙は厚く、指先にひんやりと重い。数グラムの物体。——鎖とは、こういう重さだったのか、と思った。インクの滲みが指に移りそうな気がして、親指で端を軽く押さえた。羊皮紙の繊維が、指紋の窪みに一つずつ引っかかる感触があった。肩から、何かが抜けていく感触があった。物理的な重量なら、この除名証のほうが重い。だが、体が軽い。胸の内側で、五年分の帳簿が一枚ずつ剥がれて風に散っていく。
怒りは、来なかった。
憎悪も、悲しみも、意外なほど立ち上がってこない。あるのはただ——解放だった。透明なまま担いできた素材袋の紐が、肩から外れていく感触。深く息を吸うと、肋骨がいつもより広がった。五年ぶりに、胸の底まで空気が届く。
「以上だ。退室してよい」
レイドは一礼し、踵を返した。
「——レイド」
ミーナの声だった。小さく、擦れていた。謝罪の前置きのような、息の吸い込みが伴う呼びかけだった。
レイドは振り返らなかった。振り返れば、彼女が謝罪を口にする。それを受け取った途端、外れたばかりの鎖がまた軋む音を立てる気がした。
「世話になった」
それだけ言い、扉を押した。
蝶番が軋み、査定室の空気が背中で閉じた。羊皮紙とインクの匂いが、扉と共に後ろへ押しやられた。代わりに吹き抜けの方から、朝の冷気が一筋、足首を撫でて通り過ぎた。扉越しに、カイルの舌打ちが微かに聞こえた。
階段を上がる足取りは、降りてきた時より軽かった。段差を一つずつ踏むたび、胸の内で数字が消えていく。配分率二割の不平等。馬小屋の五年。端数の銅貨。透明人間のような一千八百日。——全部、帳簿の外へ落ちていった。
ギルドの一階、吹き抜けから朝日が差し込んでいた。木机が金色に染まる中、受付嬢が再び目礼する。その角度が五年間変わらなかったことに、いま気づいた。自分の価値は、パーティの所属ではなく、ここにあった——鑑定の眼の中に、そしてそれを信じてくれる誰かの目礼の中に。
外へ出る。
石畳の上に朝霧はもう薄かった。レイドは懐から解読ノートを取り出し、表紙を一撫でした。革の感触が、馬小屋で閉じた時と同じ温度を保っている。頁を開きたい衝動を抑え、胸の内側へ戻した。
——読める。
五年前の自分なら、ここで膝を折っていたかもしれない。今は違う。
懐のノートが、次の行き先を決めていた。王都ギルドの資料室。あの禁忌迷宮「始源の書庫」の封印碑文の拓本が、書架の最下段に埃を被ったまま眠っている。
レイドは歩き出した。石畳を蹴る靴音が、朝の通りに短く乾いた音を返した。