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万象鑑定の追放者

第1話 第1話

第1話

第1話

石壁が砕ける音と同時に、レイドは叫んだ。

「全員伏せろ! 天井、擬態だ!」

 反応したのは聖職者のミーナだけだった。彼女が障壁を展開した直後、天井から巨大な顎が落ちてくる。擬態型トラップ——岩天井に偽装した捕食構造体。パーティの頭上を丸ごと呑み込むほどの大きさだ。湿った肉の匂いが一瞬で通路を満たし、顎の内側にびっしりと並んだ歯列が松明の光を鈍く反射した。

 ミーナの障壁が顎を受け止め、甲高い軋みが迷宮に反響する。光の膜が歪み、ミーナの足元の石畳にひび割れが走った。彼女の額に脂汗が滲む。障壁の維持に全霊力を注いでいるのが、レイドの鑑定には見えていた。あと八秒——それが障壁の限界だ。

「なっ——」

 剣聖カイルが振り返った時には、レイドはもう次の手を打っていた。

「右の牙の根元、そこが神経節だ。断てば顎が開く」

 カイルの聖剣が一閃する。指示通りの箇所を斬り裂くと、擬態トラップは痙攣して天井に縮退した。石の破片が降り注ぎ、埃が舞う。

 五人が咳き込む中、レイドだけが前方を見ていた。鑑定の視界にはまだ反応がある。淡い青の輪郭線が、暗闘の奥に巨大な生体反応を描き出している。

「止まるな。この先に階層ボスがいる。種別は——」

 眼を凝らす。情報が流れ込んでくる。鑑定の視界が重層的に展開し、魔力密度、骨格構造、筋繊維の走行方向までが透過画像のように浮かび上がった。

「甲殻魔獣・グランドシェル。防御等級A。ただし腹部の第三関節に未�ite化部位がある。魔法耐性は高いが、物理ならそこを——」

「うるせえ、わかってる」

 カイルが遮った。聖剣を肩に担ぎ、先頭を歩き出す。

 レイドは口を閉じた。五年間、ずっとこうだ。鑑定が読み取った最適解を伝えても、返ってくるのは苛立ちか無視だ。最初の頃は傷ついた。今はもう、ただ記録するだけだ。

 階層ボスとの戦闘は十二分で終わった。カイルの剣技は確かに超一流で、レイドが指摘した弱点部位を正確に突いた。魔術師のゼノが炎撃で牽制し、槍兵のダリオが側面から関節を狙い、ミーナが回復を回す。連携は完璧に見える。

 見える——ただし、その連携の起点がどこにあるかを、誰も認識していない。

 弱点を看破したのはレイドだ。擬態トラップを見抜いたのもレイドだ。この階層に入る前、通路の罠を三つ解除したのもレイドだ。毒針、落とし穴、魔力感知式の警報陣。どれも一つ見逃せばパーティに死傷者が出ていた。

 だが、戦闘が終わればレイドの仕事は透明になる。

「ナイスだカイル! 一撃で装甲割ったな!」

 ダリオが拳を突き上げる。ゼノが素材の回収を始め、ミーナが傷の手当てに回る。レイドは隅で鑑定の後処理をしていた。素材の等級判定、呪詛汚染の有無、持ち帰り可能な重量の算出。誰にも頼まれていないが、これをやらなければ後で全員が困る。汚染された素材を持ち帰れば換金所で没収される。等級を誤れば買い叩かれる。レイドの鑑定がなければ、このパーティの実収入は二割は落ちるはずだった。だが、その事実を知っているのはレイド本人だけだ。

「レイド、荷物持ち頼む」

 カイルが振り向きもせずに言った。レイドは黙って素材袋を担いだ。革袋の紐が肩に食い込む。甲殻魔獣の素材は重い。殻の断片だけで成人男性の体重ほどもある。それを一人で担ぐのが当然のようにレイドの役割になっている。

 王都に帰還したのは日暮れ前だった。西の空が橙に染まり、城壁の影が石畳に長く伸びている。門番がカイルの姿を認めて敬礼した。Aランクパーティ「白銀の牙」のリーダーは、王都でもそれなりの顔だ。レイドには一瞥もなかった。

 ギルドの換金所で素材を売却し、報酬が確定する。今回の迷宮攻略は金貨四十二枚。Aランクパーティとしては標準的な稼ぎだ。レイドの等級判定が正確だったおかげで、査定官は素材を一つも格下げしなかった。もちろん、そのことに言及する者はいない。

「配分いくぞ」

 カイルが酒場の奥のテーブルで金貨を並べた。木のテーブルに金属が触れる硬い音が、喧噪の中で妙に明瞭に響く。

「俺が十二。ダリオ十。ゼノ十。ミーナ八」

 合計四十。残りは二枚。

「レイド、お前は二枚な。あと端数の銅貨」

 卓上に銅貨が数枚、乾いた音を立てて置かれた。

 全体の五分以下。戦闘職と支援職で差が出るのは普通だが、鑑定士の相場は一割五分から二割だ。それはレイドも、おそらくカイルも知っている。知った上で、この配分が五年間変わっていない。

 ダリオが肩をすくめる。

「妥当だろ。今日もお前、ほとんど何もしてなかったし」

「擬態トラップの件は——」

「ああ、あれか」カイルが酒を煽った。喉が鳴る。陶器のジョッキをテーブルに叩きつけるように置き、泡が縁から溢れた。「運が良かっただけだ。たまたまお前が上を見てた。鑑定なんて関係ない」

 レイドは反論しなかった。五年前は説明しようとした。データを見せ、鑑定記録を提示し、自分の貢献を数値で示そうとした。無駄だった。目に見えない貢献は、存在しないのと同じだ。

 ミーナが一瞬だけレイドに視線を向けた。何か言いかけて、やめた。その逡巡の理由も、レイドの鑑定は読み取っていた。——同情はある。だが、リーダーに逆らうほどではない。五年間、ずっとそうだ。彼女を責める気にはなれない。

「——了解した」

 金貨二枚と銅貨を懐にしまう。カイルはもうレイドを見ていなかった。

「次の査定で、ちょっと話がある」

 カイルが独り言のように呟いた。その声色に含まれた意味を、レイドの鑑定は正確に読み取っていた。心拍の微細な変動、視線の逸らし方、声帯の緊張度。どれも「切り出しにくい話」の生体反応だ。

 だが、それについても何も言わなかった。

 宿の馬小屋は藁の匂いが染みついている。干し草の甘さと獣の体臭が混じった、もう鼻が慣れきった匂い。

 白銀の牙の宿泊は一流の冒険者宿だが、レイドに割り当てられたのは初年度からずっとここだ。最初は「部屋が足りない」という理由だった。二年目からは理由すらなくなった。

 藁の上に外套を敷き、背嚢を枕にする。隣の区画で馬が鼻を鳴らした。もう慣れた。冬場は馬の体温がむしろありがたい。板壁の隙間から夜風が入り込み、ランプの炎を揺らす。遠くから酒場の喧噪が微かに聞こえた。カイルたちが祝杯を上げている声だろう。

 懐から一冊のノートを取り出した。

 革表紙は擦り切れ、頁の端は黄ばんでいる。五年間、迷宮で見つけた古代文字を片端から書き写し、対応表を作り、文法を推測してきた。パーティの任務中に碑文を記録し、宿に戻ってから解読を進める。誰にも話していない、レイドだけの作業だ。

 頁をめくる。紙が乾いた音を立て、インクの匂いが微かに立ち上る。余白という余白に文字が詰まっている。書き直しの跡、取り消し線、欄外の注記。五年分の試行錯誤がこの一冊に凝縮されていた。

 古代文字の解読は九割五分まで進んでいた。最後の断片——動詞の活用体系の一部だけが、まだ埋まらない。だが先日の迷宮で見つけた碑文の拓本があれば、おそらく——

 ランプの灯りの下で、レイドの指が文字を辿る。

 対応表と照合する。文脈から推測する。活用語尾のパターンを仮定し、既知の碑文に適用して矛盾がないか検証する。

 一つ、また一つと空欄が埋まっていく。仮説を立て、検証し、修正する。その繰り返しを何百回と積み重ねてきた。今夜、最後のピースが嵌まろうとしている。指先が震えた。興奮ではない。五年間の重みが、指先に集約されているのだ。

 歯車が噛み合う感覚があった。

 最後の活用形が埋まる。五年分の解読体系が完成する。

「——読める」

 声が漏れた。

 古代文字の全体系が、いま初めて一つに繋がった。これがあれば、あの迷宮の碑文が——禁忌迷宮「始源の書庫」の封印碑文が、全文解読できる。誰も読めなかった古代の知識が、この手の中にある。

 馬が首を動かし、レイドを見た。黒い瞳がランプの光を映している。この馬小屋で五年間、レイドの独り言を聞き続けてきた唯一の相手だ。

 レイドはノートを閉じ、天井の梁を見上げた。馬小屋の隙間から星が見える。

 カイルの言葉が蘇る。「次の査定で、ちょっと話がある」

 除名だろう。鑑定でなくてもわかる。

 五年前なら恐怖を感じたはずだ。パーティを失えば、迷宮調査の資格も失う。古代文字の研究も終わる。だからどんな扱いにも耐えてきた。報酬の不平等も、馬小屋の寝床も、透明人間のような扱いも。すべては、あの碑文を読むために必要な代償だと自分に言い聞かせてきた。

 だが——もう解読は完成した。

 レイドは薄く息を吐いた。白い呼気が闇に溶けていく。星明かりの下で、その表情は五年間で初めて、穏やかだった。

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