第3話
第3話
街道の先で、煙は太さを変えていた。
リオンが尾根を一つ越えた頃には、細く立ち上っていた一筋の黒煙が、もはや幾本にも分かれて空に滲んでいた。北風が斜面を駆け下りてくるたび、焦げた木材の匂いに混じって、別の臭いが鼻腔へ流れ込んだ。獣脂と、鉄錆と、それから熱で煮えた何か——名状しがたい、生臭く甘い臭気だった。リオンは思わず外套の襟を口元まで引き上げた。布越しでも臭いは消えず、舌の付け根に苦味が滲んだ。
宿場が見えたのは、街道が緩やかに右へ曲がりかけた地点だった。
板葺きの小屋が三棟、馬繋ぎの杭、そして街道を跨ぐように渡された木の門——そのすべてが無秩序に折れ、倒れていた。母屋の屋根は中央から崩れ落ち、半ば焦げた梁の隙間から細い炎がまだ舌を出している。地面には荷車が一台、車輪を上に向けて転がり、積まれていたはずの俵がそこかしこに散らばって、踏みつけられた麦が雪と土に練り込まれていた。
人の姿はなかった。正確に言えば、人の形をしていたものが、地面に幾つか残っていた。
リオンは膝の力が抜けそうになるのを堪え、視線を逸らした。それでも一度見てしまった像は、瞼の裏で黒く焦げた輪郭として残った。腰の短剣の柄を握り直す。柄に施された彫刻の凹凸が、かじかんだ指にざらりと触れた。
息を整え、回り込むようにして倒れた門の影に身を寄せる。喉の奥がひりつき、自分の唾を呑む音だけが頭蓋の中で大きく響いた。背嚢の革紐が、きつく肩に食い込んでいた。
そのとき、崩れた屋根の向こうで、低い唸りが上がった。
獣の声だった。
崩れた梁の隙間から、影が一つ、また一つと這い出してきた。
四足。だが犬ではない。肩までの高さがリオンの胸に届くほどの、灰青色の体毛をした獣。額から二本、後ろへ向かって反った角が伸びている。口から覗く牙は黄ばんで、先が鉤のように曲がっていた。北方の魔獣——師匠の手記に走り書きで記されていた『角狼』の特徴と一致した。文字でしか知らなかった生き物が、目の前で雪を踏み、湯気のような呼気を吐いている。
数は四。いや、奥でもう一つ気配が動いた。五。
最初の一頭がリオンに気づいた。鼻面を持ち上げ、喉の奥でぐるりと唸る。それを合図に、残りの獣が一斉に向き直った。十の眼が、同時にリオンを射抜いた。
逃げよ、と頭が命じた。だが脚は応じなかった。膝が震え、地面に縫い付けられたように動かない。
「火点しの——」
唇が震え、術式の最初の一句を辿った。指先に意識を集める。呼吸を整える。何度も繰り返してきた手順だった。だが、いつものように、最後のひと押しで魔力は霧散した。手の中に光は灯らず、ただ吐いた白い息だけが宙に散った。
(やっぱり、駄目か)
奇妙なほど冷えた思考が、頭の片隅をよぎった。師匠が亡くなった朝から、自分はどこかで覚悟していたのかもしれない。落ちこぼれの弟子が、一人で生き延びられるはずがないと。
先頭の角狼が、ぐっと身を低くした。後ろ脚が雪を抉り、跳躍の構えに入る。リオンは短剣を抜こうとした。だが鞘から半ばまで引き出したところで、獣の影はもう目の前にあった。
——間に合わない。
瞼を閉じかけたその瞬間、視界の端で、白いものが横に走った。
風ではなかった。
獣の咆哮が、途中で断ち切られた。重い物が地に落ちる、湿った音。生温かい液体が頬に飛び、リオンは思わず顔を背けた。
目を開けた先に、男が立っていた。
背は高くなく、肩幅だけが妙に広い。色褪せた灰外套を雪に擦らせ、右手に長剣を下げている。剣身からは黒い血が滴り、雪の上に小さな赤い円を描いていた。男の足元には、先ほどの角狼が首を半ば落とされた姿で横たわっている。
「突っ立ってるな、小僧」
低く、ざらついた声だった。男は振り返りもしない。
「動けるなら後ろへ下がれ。動けねえなら地面に伏せろ。どっちでもいい。俺の剣筋に入るな」
残った四頭が、新たな敵を見据えて唸りを上げた。男は左手で外套の前を払い、剣を肩に担ぐようにして構え直す。リオンは膝が崩れるのを感じながら、それでも数歩、後ろへ退いた。
最初の角狼が跳んだ。男の剣が下から斜め上へ走り、獣の顎から脳天までを一直線に裂いた。返す刀で次の一頭の前脚を払い、踏み込みの勢いを利用してそのまま喉笛を断つ。動きに無駄がない。それどころか、舞のような滑らかさがあった。だが舞であれば華があるはずの剣筋には、ただ獣を効率よく処理するための、冷えた合理だけがあった。
三頭目が横手から飛びかかった。男は身を捻り、剣の柄頭を獣の側頭部へ叩き込む。骨の砕ける鈍い音。倒れた獣の腹に、追い打ちで剣を突き立てた。最後の一頭は背を向けて逃げかけたが、男の踏み出しは雪を蹴る音すらわずかで、振り下ろされた一閃が獣の背骨を割った。
ものの数十を数える間だった。
雪の上に五つの黒い染みが広がっていた。男はゆっくりと剣を払い、付着した血を雪に振り落とすと、腰布で刃を拭い、鞘へ戻した。一連の動作には、儀式じみた手慣れがあった。
リオンは、自分が呼吸を忘れていたことに気づいた。吐き出した息が、白い塊になって宙に散る。膝が今度こそ抜け、その場に座り込んだ。短剣はまだ、半ばまで抜けたままだった。
「立てるか」
男が振り返った。改めて見れば、思っていたより若い。三十路の前か後かといったところで、無精髭の生えた頬には古い刀傷が一本走っている。眉は太く、目は鋭いが、その奥に苛立ちのような熱はなかった。ただ、面倒なものを見つけてしまったという顔だった。
「……はい」
「立てねえな、その様子じゃ」
男は短く舌打ちすると、リオンの腕を掴んで引き起こした。腕力は見た目通り強い。リオンの身体は子供のようにあっさりと持ち上げられた。立ち上がってすぐ、左の脛にずきりと痛みが走った。見れば、外套の裾が裂け、ふくらはぎに浅い切り傷が走っている。角狼の爪が掠めたのか、あるいは倒れた木材で擦ったのか、自分でも覚えていなかった。
「脛か。動脈じゃねえな。歩けるが、放っとけば膿む」
男は短く言うと、口笛を二度、低く鳴らした。崩れた小屋の向こうから、雪を踏む足音が二つ、近づいてきた。
「カイ、終わった?」
明るい、よく通る女の声だった。リオンが顔を上げると、灰色の旅装束を着た若い女が、栗毛の馬を一頭引いて姿を現した。背はカイと呼ばれた剣士より頭半分ほど低い。亜麻色の髪を後ろで一つに結び、首から下げた銀の鎖が外套の襟元で揺れていた。鎖の先端には、小さな白い石が嵌め込まれている。
「五頭。雛の群れだな。ここの連中は、間に合わなかった」
カイが顎で宿場の残骸を示した。女の顔から、笑みが一瞬だけ消えた。彼女は足早に倒れた人影に近づき、屈み込んで手を翳した。掌の下に、淡い緑の光が灯る。だがすぐに、その光は萎んで消えた。
「……駄目ね。冷えきってる」
女は立ち上がり、こちらへ歩いてきた。リオンの脛に視線を落とし、一度カイを見上げる。
「この子は」
「街道で囲まれてた。見ての通りだ」
「弟子か何かかしら。背嚢に羊皮紙の角が見える。墨壺も。書き手の旅装ね」
女の目は、リオンの背嚢にちらりと走っただけだった。それだけで道具立てを言い当てた観察眼に、リオンは思わず喉を鳴らした。
「エルナだ。治癒師。お前さん、名は」
「リオン……ハルシュ村の北、塔の——」
「塔の弟子か。じゃあ街道で囲まれるのも道理ね」
エルナは苦笑して、リオンを近くの倒木の上に座らせた。外套の裾をまくり上げ、ふくらはぎの傷をあらためる。指先が触れた瞬間、ひやりとした感覚がした。痛みではない。何か、肌の下を滑っていく薄い水のような気配だった。
「角の毒は浅いわ。先に洗うわね。じっとしていて」
エルナは腰の革袋から小瓶を取り出し、傷口に透明な液体を垂らした。鼻に抜けるような薬草の匂い。塔でも作ったことのある洗浄液——だが純度がまるで違う。これほど澄んだものは、見たことがなかった。
液を拭った後、エルナは両掌をリオンの脛の上に翳した。先ほどの淡い緑の光が、今度は途切れず、安定して灯る。痛みが、内側から少しずつ溶けていくのが分かった。リオンは初めて、まともな治癒術というものを、自分の身体の上で目にしていた。
「歳は」
「十……八です」
「思ったより上ね。栄養が足りてない。塔暮らしは長いの」
「八年です。十二の歳から」
「ふうん」
エルナは手を動かし続けながら、リオンの顔をひととき見つめた。何かを測るような目だった。リオンは視線を落とした。
カイは少し離れたところで、雪に剣の汚れを擦りつけている。背中越しに、ぼそりと声を寄越した。
「ノルデンへ行くのか」
「……どうして」
「塔の弟子が一人で街道に出てる。師匠が動けねえか、死んだか、どっちかだろう。で、北を向いてた。北の都を目指す以外に、この時期この道を歩く理由はねえ」
雑な言い方だった。だが、外れてはいなかった。リオンは小さく、はい、と答えた。
カイは振り向かなかった。剣の汚れを拭い終わると、短く息を吐いた。
「ま、運がいい。俺たちも北だ」
エルナの掌の光が、ふと、瞬いた。
緑の輝きが一度だけ強く脈打ち、それから細かな粒を散らすように揺らいだ。リオンの脛の上で、彼女の指が止まる。
「……」
「どうした」
カイが振り返った。エルナは答えず、両手を脛から外し、今度はリオンの腹の高さで止め直す。掌の下の光が、また脈打った。リオンは息を詰めた。エルナの眉が、わずかに寄っている。先ほどまでの軽やかな表情は消え、その奥に、はっきりとした緊張が浮かんでいた。
「エルナ」
「待って」
短く制して、エルナはリオンの胸の前まで掌を移した。光が脈動の周期を変える。長く、深く、まるで何かに呼応するように。エルナの瞳が一瞬大きく開かれ、それからゆっくりと細められた。
「……この子の、体内に」
呟きは、誰にともなく落ちた。
「何か、ある」
雪を含んだ風が、宿場の残骸を一度撫でて過ぎた。焦げた梁の上で、ようやく細い炎が音もなく途絶えた。