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無能の聖女と守護竜の加護

第3話 第3話

第3話

第3話

祈祷室の扉が開く音が、石の回廊に短く響いた。

リーネは灯りを落としたまま、元の位置に膝をついた。蝋燭の芯はまだ温かい。四刻前に消した蝋の、焦げた芯の匂いが喉に触れる。組んだ指の節に、冷たい石床の温度がじんわりと戻ってきた。南の谷で吸い込んだ灰の粒が、まだ袖口に残っているのが指先の感触で分かった。

意識を、王都を覆う結界の糸に戻す。

一本ずつ、指で辿るようにして。

——一つ、鳴っていない。

リーネの呼吸が止まった。北西の端、辺境ガリアス村の上空に張った糸が、振動していない。八年間、毎朝この順で糸を確かめてきた。北、北西、西、南西、南——。北西の弦だけが、今朝に限って沈黙していた。

指先が勝手に動いた。沈黙の糸を掴んで辿る。辿った先で、糸は切られていた。

切れ口は、滑らかだった。

魔物が食い破った綻びではない。内側から、刃物で裁った切り口だった。

——誰が。

考える前に、結論は指先が先に掴んでいた。王都の結界に内側から触れられる魔力を持つ人間は、この国に三人しかいない。リーネ自身、そして、宮廷魔導士長グレンデル。三人目は——昨日、谷を焼いた。

リーネは糸の断面をそっと掴み、応急の編み直しを始めた。指が動き続けるうちに、息だけが浅くなる。誰がやったのかは、もうどうでもいい。ガリアス村には、名前を知っている家族が三組いる。去年、流行り病の芽を摘んだ小さな村だった。水車小屋の隣に住むミレナという娘がいた。パン焼き窯の煙で頬を赤くした、まだ十二の少女だった。あの子の咳を鎮めた夜、母親が震える手で差し出した麦湯の温度を、リーネの指はまだ覚えていた。

回廊の奥で、重い靴音が響いた。一つではない。複数の、歩調のそろった足音。

リーネは糸を編む手を止めなかった。

扉が勢いよく開け放たれた。

甲冑の金属音と松明の火の粉が、薄暗い祈祷室になだれ込む。衛兵が五人。先頭に、銀髪を撫でつけた長身の男——宮廷魔導士長グレンデル。その一歩後ろに、ヴァレリアが紫紺のローブの裾を翻して立っていた。

「リーネ・クラネル。祈祷を中断せよ」

グレンデルの声は、昨日と同じ穏やかさだった。

「今、ちょうど——辺境の糸を補修しています」

「補修、か」

グレンデルが一枚の羊皮紙を差し出した。封蝋は割られている。宮廷魔導士団の印、その下に国王の副署。

「ガリアス村、今朝未明に魔物の群れに襲撃された。死者四十一名、負傷九十三名。村は壊滅した」

リーネは手を止めなかった。止められなかった。手を止めれば、北西の糸はもう一度ほどける。胸の奥で、数字が意味に追いつくまで一拍あった。四十一。九十三。その数の中に、ミレナの名前があるのかどうか、今の自分には知る術がなかった。

「結界の綻びは、昨日の夕刻に発生している」グレンデルが続けた。「正確には、酉の刻。——この時間、貴殿はどこで何をしていた」

「祈祷室です」

「証人は」

「……おりません」

「そうだろうな」

グレンデルは頷いた。頷きながら、次の羊皮紙を取り出す。リーネの八年分の祈祷記録だった。

「酉の刻、貴殿は祈祷室にいた。だが祈りの痕跡がない。蝋燭の消費量、香の残量、聖紋の残光——すべてから、貴殿はこの時間、結界に手を入れていない」

「入れていました。魔力の糸を——」

「目に見えぬ糸、ですか」ヴァレリアが口を挟んだ。「昨日までのお話と、ずいぶん都合のよいことで」

リーネは顔を上げた。ヴァレリアの紫紺の瞳が、勝ち誇るように細められていた。唇の端にほんのわずか、押し殺しきれない笑みが滲んでいた。その笑みを見て、リーネの喉の奥が、ひやりと冷えた。

「陛下にはすでに報告済みだ」グレンデルが淡々と告げた。「第二聖女の覚醒に動揺し、辺境の結界を故意に弛緩させた疑い。民の生命を人質に、自らの地位を守ろうとした——これが調書の骨子となる」

「違います」

短く、リーネは言った。

「違う、とは」

「糸を切ったのは、私ではありません」

「では、誰が」

リーネは、グレンデルの目を見た。

グレンデルは、表情一つ変えなかった。穏やかな、磨き上げた銀のような瞳が、リーネを見返していた。

——ああ。

リーネの喉の奥で、何かが乾いた。

反論すれば、その指を糾弾することになる。けれど、証拠はない。祈祷室の蝋燭は、リーネが自分で消した。香の残量は、自分で調節した。結界の糸の切り口を見ろと言っても、その糸は誰にも見えない。

八年間、誰にも見えなかった。それが今日、牙を剥いてリーネに返ってきた。

「衛兵」

グレンデルが顎をしゃくった。

「聖女リーネ・クラネルを、結界妨害の容疑で拘束する」

鎖の冷たさが、手首の内側に食い込んだ。鉄の匂いが、鼻腔の奥を刺した。

リーネは抵抗しなかった。衛兵が腕を掴んだ瞬間、編みかけていた北西の糸が手から離れた。糸の端が、空中でゆらりと揺れ、応急処置の編み目が一段ほどけていくのが分かった。あと半日もすれば、ガリアス村の北にもう一つ穴が開く。

「連れて行け」

グレンデルが背を向けた。銀の髪が、松明の光を受けて一瞬だけ白く燃え、すぐに暗がりに沈んだ。

衛兵に挟まれ、リーネは祈祷室を出た。石造りの回廊を、鎖の音が先導した。すれ違う侍女が悲鳴を上げて壁に寄る。厨房から覗いた料理人が、持っていた鍋を取り落とした。その音が回廊を震わせる。リーネの白い祭祀服の袖口には、まだ昨日の灰がついていた。

中庭を横切る。

朝の市場帰りの使用人たちが、リーネの姿を見つけて声を上げた。

「結界妨害だって」

「辺境のあれは、この女のせいか」

「私の妹が、ガリアスに——」

石が飛んできた。拳ほどの、中庭の縁石の欠けらだった。衛兵が盾を構える前に、石はリーネの肩に当たって地面に落ちた。鈍い痛みが走る。続けて二つ、三つ。衛兵が槍を構えて群衆を下がらせた。

リーネは、自分に石を投げた女の顔を見た。

——知っている。

三年前の疫病で、娘を救った家の母親だった。あの時、リーネは三日三晩祈祷室にこもり、娘の細い命の糸を結び直した。倒れ込んだ朝、自分の腕に刻まれていた爪痕で、どれだけ必死に祈ったかを数えた。指の関節は鈍色に腫れ、爪の下には自分の皮膚の破片がこびりついていた。それでも、助かった、と聞いた瞬間、膝から崩れ落ちて笑ったのを覚えている。

女は、泣きながら石を握りしめていた。唇が、助けて、の形に震えて、怒りの言葉に裂けていくのが見えた。

リーネは目を伏せた。名乗らなかったのは、自分だ。

構わない、と、もう一度胸の中で呟いた。呟いた瞬間、胸の奥でまた一本、糸が切れる音がした。

地下牢へ続く階段は、ひどく急だった。

松明の灯りだけが頼りで、踏み外せば首を折る角度に刻まれていた。衛兵がリーネの腕を押す。湿った石壁が肩をかすめた。壁からは、一筋の水が垂れている。舐めれば、苔と鉄の味がするだろう。降りるほど、空気が重くなっていく。魔力が薄い。魔導士封じの結界が、石壁に刻まれているのが指先で分かった。

最奥の独房に、投げ入れられた。

鍵の落ちる音が、三重に響いた。

リーネは、藁の敷かれた石床に膝をついた。藁の棘が、祭祀服の薄い布越しに太ももを刺した。衛兵の松明が遠ざかる。暗闇が落ちる。遠く、階段の上で、誰かが哄笑した——笑ったのは、ヴァレリアの声に似ていた。

独房の天井は低かった。

手を伸ばせば、指先に湿った石が触れた。八年組み続けた指の節が、その石の冷たさを素直に受け入れた。結界の糸には、もう届かない。魔導士封じの壁が、リーネと王都の空気を遮断していた。

——届かないのか。

試しに、指先に魔力を集めた。

薄く、本当に薄く、糸が一本だけ抜けた。

壁の封じは、完全ではなかった。リーネの加護は、目に見えない。だから、塞ぎきれない。

一本の糸を、北西へ流した。

届かせる相手は、いない。けれど、流さずにはいられなかった。ガリアス村の穴を、せめて半日だけ遅らせたかった。指先から魔力が抜けていく。独房の石床に、額が触れた。石の冷たさが、眉間の熱を吸い取っていく。涙は出なかった。八年前から、祈るときに泣かない癖がついていた。

——まだ、できる。

暗闇の中で、八年分の指の節が、ゆっくりと組まれた。

その時、遠く。

北の空の、雲の奥。

昨日よりも、もっと近い位置で。

何かが、脈打った。

リーネは顔を上げた。

石の天井は暗く、何も見えない。だが、確かに聞こえた。自分の胸の鼓動と、まったく同じ拍で。

——応えるように、北が震えた。

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