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無能の聖女と守護竜の加護

第2話 第2話

第2話

第2話

翌朝、リーネが目を覚ますと、寝台の縁に侍女が立っていた。

「お支度を。陛下のお申し付けです」

声に温度がない。昨日まではまだ形ばかりの敬語があった。それが今朝はもう、剥がれ落ちている。

リーネは黙って身を起こした。窓の外はすでに明るい。北の空へ向けていた意識を、ゆっくりと手元に引き戻す。昨夜、遠くで脈打っていたあの鼓動は、朝の光の下ではすっかり遠ざかっていた。夢だったのかもしれない——そう思いかけて、首を振る。夢ではない。八年間、結界の糸を編み続けてきた指先が、確かにそれを覚えていた。

「本日、第二聖女様の御披露目にございます」

侍女は手早く髪を梳きながら、事務的に告げた。

「南の城門外、瘴気の谷で魔物討伐の奇跡をお示しになります。陛下、王妃様、諸侯ご列席。聖女様にも末席にてご参観いただくようにと」

末席。その言葉が、鬢を留める櫛の音と一緒に耳に残った。リーネは鏡の中の自分を見た。目の下に薄い隈がある。祈祷室の蝋燭に照らされ続けた顔は、血の気がなく紙のように白い。これが、民が望んだ「本物の聖女」と並ばされる姿だった。

「……承知しました」

衣装は、普段の白い祭祀服だった。刺繍も装飾もない、聖女の正装。たった一着しか許されていないその布を、八年着続けている。袖口はほつれ、裾は何度も繕った跡がある。侍女は第二聖女のほうへ回るのだろう、リーネの帯を締め終えると、礼もせずに部屋を出ていった。扉の向こうから、別の侍女たちの忍び笑いが漏れた。押し殺した笑い声のあいだに、「みすぼらしい」「もう陛下もお召しにならない」という断片が混ざっていた。リーネは動かなかった。動けば、胸の底で堪えているものがこぼれる気がした。

窓枠に手をつく。指先の冷たさに、石壁の朝露が染みた。遠く、南の谷の方角で、何かが起き始めているのが魔力の層から感じ取れた。大気の奥に、濃い瘴気の塊が集められている気配。人為的に運ばれた魔物の群れ——その本能的な怯えと渇きが、空気の震えに混じって伝わってくる。今日、この国の空気が変わる。リーネにはそれだけが分かっていた。

南の城門を抜けると、瘴気の谷は黒い霧に沈んでいた。

岩場のふちに玉座が据えられている。国王ファルガスが座り、その隣に王妃、背後に諸侯が並ぶ。宮廷魔導士長グレンデルが玉座の脇に侍立し、鷹のように谷を見下ろしていた。観衆は数千人。王都の民が総出で、岩肌の自然の段に腰を下ろしていた。

リーネは末席に案内された。最後列、貴族席からも外れた、使用人たちに混じる位置だった。周囲の視線が、ちらちらと刺さる。「あれが」「まだいたの」——声は押し殺されているが、耳には届く。リーネは目を伏せ、膝の上で指を組んだ。組んだ指の節は、八年分の祈りで固く骨ばっている。その節を、もう片方の親指で一つずつ押さえた。呼吸を整えるための、幼い頃からの癖だった。

ラッパが鳴った。

谷の向かいの岩棚に、一人の少女が現れた。

白ではなく、金の祭祀服。胸元に大粒の紅玉を抱き、肩から金糸の帯を流している。髪は陽光を集めたように輝き、肌は大理石のように滑らかだった。少女は谷を挟んだ群衆に向かって、大きく両手を広げた。ひと息で空気が変わる。人々の顎が、一斉に持ち上がった。

「——第二聖女、セレナ・リュミエール!」

グレンデルが朗々と名を呼ぶ。群衆がどよめいた。紅玉を胸に当てたセレナが、高らかに祈りの言葉を唱え始める。よく通る声だった。抑揚があり、観衆の息を引き寄せる。リーネの祈りとはまったく違う。リーネの祈りは誰にも聞かせない独白だが、セレナの祈りは舞台の台詞だった。一語ごとに拍があり、見せるための間があった。

合図とともに、谷底の檻が開いた。

飼いならされた魔物ではない。辺境から運んできた、本物の群れだ。ワイト、グールの眷属、翼を持つ瘴気の獣——三十を超える影が、黒い霧の中で牙を鳴らした。観衆の一部が悲鳴を上げ、兵士が槍を構える。

セレナが両手を打ち合わせた。

紅玉が割れんばかりに光った。金の粒子が少女の周囲に渦を巻き、谷全体を舐めるように広がっていく。リーネは息を呑んだ。確かに、力そのものはある。だが荒い。魔力の使い方が乱暴で、七割は空に逃げていた。根を張らない火のような術だ。風向きが変われば術者自身を焼く。この三倍の力を、あの娘は一瞬で燃やしている。

——持たない。

リーネの指が、無意識に空を掴んだ。掴んだまま、けれど誰もそんなことを考えていない。群衆は金の光の奔流に見惚れ、恍惚の声を漏らしていた。

「聖光・裁断の刃!」

セレナが叫ぶ。光の柱が谷底に落ちた。瘴気の霧が裂け、魔物の群れが白く焼かれていく。爆音、閃光、血の代わりに舞い上がる灰。ワイトの頭が飛び、翼の獣が燃え落ち、グールが絶叫の途中で崩れた。

一分にも満たなかった。

谷底には、灰と、黒ずんだ岩肌だけが残された。

沈黙のあと、群衆が爆発した。

歓声が岩壁に跳ね返り、空を震わせた。誰かが帽子を投げ、誰かが祈りを叫び、誰かが泣いていた。「聖女様」「セレナ様」「本物だ」——言葉が波のように押し寄せる。玉座の国王が立ち上がり、自らセレナの方へ手を差し伸べた。王妃が微笑み、諸侯が一斉に頭を垂れた。

リーネは、動けなかった。

灰の匂いが風に乗って流れてきた。焦げた肉、焼けた鉱物、そして、セレナの魔力が通り過ぎた残滓の甘い匂い。甘さの奥には、鉄が焼けた時のような焦げた血の気配が潜んでいた。術者の身を削った証だ。だが、観衆はその匂いを聖性と取り違えていた。舞台装置として完璧だった。王が、民が、神殿が求めていたのは、まさにこれだ。八年間、誰にも見えない糸を編み続けた自分と、一分で谷を焼き払った少女。どちらが聖女に見えるかは、問うまでもなかった。

爪が掌に食い込んでいた。痛みで、ようやく息ができた。

——持たないと、分かっているのに。

あの荒い魔力の使い方では、セレナの身体は早晩壊れる。紅玉の媒介に頼った派手な術は、術者本人を蝕む。王都の結界のように、大地そのものに糸を張って均衡させる加護とは、根本から違う。あの娘は半年持つかどうか——その見立てが、八年の経験から揺るぎなく告げていた。グレンデルが気づいていないはずがない。気づいていて、それでも今日この舞台を組んだのだ。

リーネの視線が玉座に上がった。国王ファルガスは、満足げに頷いていた。その顔には、もはや迷いがなかった。昨日「考えておけ」と言われた言葉の答えが、今日この谷で提示された。

群衆が口々に叫んでいた。

「本物の聖女様を!」

「偽物はもう要らない!」

——偽物。

リーネは目を閉じた。叫んでいる民の中に、三年前に疫病から救った商人の顔があった。去年の魔物襲撃で家族を失わずに済んだ仕立て屋の娘がいた。名前も知っている。密かに加護を流した相手だからだ。商人のガルガは右の肩に、夜毎にリーネが流した浄化の印をまだ残しているはずだった。仕立て屋の娘メリィは、その細い指に、魔物の爪から守ったときの加護の名残が熱を持っているはずだった。けれど彼らは、リーネの顔を見て「偽物」と叫んでいた。

構わない。名乗らなかったのは自分だ。

ただ、胸の奥で、八年祈り続けた糸の一本が、ぷつりと切れる音がした。切れた糸の端が、内側を細く裂いていくのを感じた。血が出るわけでもないのに、確かに何かが流れ落ちていた。

歓声の中、国王がグレンデルを呼び寄せた。

距離は遠い。だが、リーネの魔力は空気の微細な震えまで拾う。八年間、王都のあらゆる綻びを聞き分けてきた耳だ。二人の会話は、はっきりと届いた。

「グレンデル。もう、決めた」

「御意」

「今日中に草案を作れ。罪状は——適当でよい。あれの八年分の祈祷記録を洗えば、何か出るだろう」

「一つ、ご注進を」グレンデルの声が低くなった。「罷免ではなく、処断をお勧めいたします。生かしておけば、民草の同情を買う恐れがございます」

国王が短く笑った。否定ではなかった。

「——任せる」

それだけ言うと、国王はセレナのほうへ向き直った。金の少女に手を取られ、群衆に向かって微笑みを投げかける。歓声がひときわ高くなった。

リーネの席からは、玉座の背中しか見えなかった。その背中の遠くに、北の空が広がっていた。黒い雲の切れ間、昨夜感じた鼓動が、今朝よりも近い位置で、確かに脈打っていた。

指先に、かすかな熱が戻った。

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