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無能の聖女と守護竜の加護

第1話 第1話

第1話

第1話

誰にも見えない祝福ほど、軽んじられるものはない。

王城の最奥、薄暗い祈祷室でリーネは両手を組み、静かに祈りを捧げていた。冷たい石床に膝をつき、もう四刻になる。額に汗が滲む。全身の魔力を絞り出すようにして、王都を覆う結界の維持に意識を注ぎ込む。

蝋燭の炎が揺れるたびに、壁面の聖紋が淡い影を落とす。祈祷室には窓がない。外が昼なのか夜なのかも分からないまま、リーネはただ祈り続けていた。膝の感覚はとうに失われ、指先は氷のように冷たい。それでも魔力の糸を途切れさせるわけにはいかなかった。結界は生き物だ。一瞬でも気を抜けば、綻びは瞬く間に広がる。

結界が揺らげば、魔物が街に入る。疫病の抑制が途切れれば、下町から死者が出る。

その事実を、この国で理解している人間はいない。

祈祷室の扉が開いた。甲高い靴音が石畳を叩く。

「まだここにいたの、リーネ」

宮廷魔導士のヴァレリアだった。腕を組み、見下ろすような視線を寄越す。華やかな紫紺のローブを纏い、首元には魔導士の位を示す銀の徽章が光っている。祈祷室の質素さとは対照的な装いだった。蝋燭の灯りを受けて、その徽章がちらちらと不快な光を放つ。リーネが何年かけても得られなかった宮廷の信頼を、この女性は当然のように身につけている。

「結界の維持を——」

「結界?」ヴァレリアが鼻で笑った。「あなたの祝福で結界が保てるなら、辺境の村がなぜ毎月襲われるのかしら」

違う。辺境まで結界が届かないのではない。リーネの加護があるから、被害が辺境の小規模な襲撃で済んでいるのだ。もし結界がなければ、王都そのものが——。

だが、その言葉は喉の奥で止まった。何度説明しても、誰も聞かない。目に見えないものは、存在しないのと同じだった。

「国王陛下がお呼びよ。さっさと来なさい」

ヴァレリアは用件だけ告げると、振り返りもせずに去っていった。靴音が遠ざかり、やがて祈祷室に再び沈黙が戻る。リーネは深く息を吸い、四刻分の祈りで編み上げた結界の糸を丁寧に固定した。急に離れれば、せっかくの補強が崩れる。焦る気持ちを抑え、最後の一本まで確かめてから、ゆっくりと手を解いた。

立ち上がった瞬間、膝が笑った。四刻も同じ姿勢で石床に膝をついていたせいだ。壁に手をついて体を支え、血が巡り始めるまでの鈍い痺れに耐える。

リーネは立ち上がり、祈祷室を出た。長い回廊を歩く。すれ違う侍女たちがひそひそと囁く声が、嫌でも耳に届く。

「——無能の聖女」

「あの方、本当に聖女なのかしら。光一つ出せないのに」

拳を握りしめる。爪が掌に食い込んだ。痛みで、表情が崩れるのをこらえた。

——知っている。全部、聞こえている。

聖女とは本来、光をまとい、民の前で奇跡を示す存在だ。歴代の聖女たちはそうしてきた。傷を癒し、魔を祓い、その輝きで人々の心を照らした。リーネにはそれができない。加護は確かに在るのに、それは誰の目にも映らない。透明な盾のように、ただ静かに王都を包んでいるだけだった。

謁見の間に入ると、玉座の国王ファルガスが退屈そうにリーネを見た。傍らには宮廷魔導士長グレンデル、そして数人の側近が控えている。広間には香が焚かれ、高い天井から差し込む光の柱が玉座を荘厳に照らしていた。その光の中に、リーネの居場所はない。

「遅い」

「申し訳ございません、陛下。結界の——」

「結界の話はいい」国王が手を振った。「報告がある。東部辺境のベルダ村が魔物の群れに襲撃された。死者十二名」

リーネの胸が締まった。ベルダ村。先月、疫病の兆候を感知して、密かに浄化の祈りを送った場所だ。あの夜、祈祷室で夜通し祈り続け、遠く離れた村に加護の糸を伸ばした。魔力が尽きかけて意識が遠のきながらも、どうにか疫病の芽を潰したはずだった。だがそれは誰にも報告していない。報告したところで、証明する術がないからだ。

「辺境の守りが手薄だという声が上がっている。聖女として、どう弁明する」

弁明。リーネが加護を注いでいなければ、死者は十二名どころではなかった。東部一帯が壊滅していてもおかしくない。だが——。

「……私の力が至らず、申し訳ございません」

いつもこうだ。本当のことを言っても信じてもらえない。だから謝る。謝って、祈祷室に戻って、また結界を維持する。その繰り返し。

「至らぬ、か」

グレンデルが口を開いた。銀髪を撫でつけた長身の男。宮廷魔導士の頂点に立つ実力者であり、リーネを最も露骨に蔑む人物でもあった。

「陛下。聖女の加護とは本来、目に見える奇跡をもたらすもの。光で魔物を退け、祈りで傷を癒す。歴代の聖女はそうでした」

「リーネの加護には、それがない」国王が頷いた。

「ええ。つまり——聖女としての資質に疑問がある、ということです」

グレンデルの声は穏やかだった。だからこそ残酷だった。怒鳴られるほうがまだ楽だ。感情をぶつけられれば、こちらも感情で耐えられる。しかし、事実を淡々と並べられると、反論の余地すら与えられない。

リーネは黙って聞いていた。反論しても無駄だと、もう何年も前に学んでいる。唇を噛み、視線を床の石目に落とす。玉座の間の床は美しく磨かれていて、自分の青白い顔がぼんやりと映っていた。

国王がため息をついた。

「リーネ。お前に直接聞く。聖女の座を返上する気はないか」

空気が変わった。側近たちが息を呑む。聖女の罷免——いや、自主返上という体裁を取らせようとしている。

「陛下、それは——」

「黙れとは言わん。だが考えておけ」

国王は視線を外した。それが答えだった。もう決まっている。リーネの意思など、最初から求められていない。

謁見の間を出ると、回廊の窓から夕陽が差し込んでいた。橙色の光が石壁を染める。リーネは窓枠に手をつき、王都の街並みを見下ろした。

屋根の連なり、煙突から立ち上る夕餉の煙、広場で遊ぶ子供たちの歓声。この景色を守ってきた。十五で聖女に選ばれてから、八年間ずっと。

誰に感謝されるわけでもなく、誰に認められるわけでもなく。ただ祈祷室の冷たい床に膝をつき、目に見えない糸を紡ぎ続けてきた。疫病が王都に入らないのも、魔物の大群が城壁に達しないのも、偶然だと思われている。平和が当たり前だと、誰もが信じている。

——でも、もう限界かもしれない。

その時、背後で足音がした。振り向くと、見知らぬ侍女が一人、小走りに駆けてきた。

「リーネ様! 大変です、お聞きになりましたか!」

息を切らせた侍女の顔は紅潮していた。だが、その表情は恐怖ではない。興奮だった。

「東の神殿で——新しい聖女が覚醒したと!」

リーネの足が止まった。

「第二聖女。セレナ様とおっしゃるそうです。光の奇跡を——素手で魔物を浄化なさったと!」

侍女は自分が何を伝えているのか分かっていない。あるいは、分かった上で言っている。

第二聖女。歴史上、同時に二人の聖女が存在した記録はない。つまりこれは——。

「すごいですわよね! ようやく本物の聖女が現れたって、神殿中が大騒ぎで——」

——ああ、そういうことか。

リーネは静かに息を吐いた。本物の聖女。その言葉が意味するところは明白だった。

本物がいるということは、自分は偽物だということだ。八年間の祈りも、眠れぬ夜も、魔力を絞り尽くして倒れた朝も、すべてが無意味だったと——この国はそう結論づけるのだろう。

侍女が去った後、回廊に一人残されたリーネは、再び窓の外を見た。夕陽が沈みかけている。王都の結界が、かすかに揺らいだ。集中が途切れたせいだ。

すぐに意識を戻し、結界を安定させる。誰にも気づかれない、いつもの仕事。

——第二聖女。

光の奇跡。目に見える力。民が求め、王が望んだ、「本物の聖女」。

窓の外で、最後の陽光が沈んだ。王都に夜が落ちる。

リーネは知っていた。自分の居場所が、もうどこにもなくなりつつあることを。だが同時に、結界の向こう——北の空の遥か彼方で、何かが脈打っているのを感じていた。

ずっと前から感じていた、微かな鼓動。それが何なのかは分からない。

ただ、今夜はいつもより少しだけ、その鼓動が近く聞こえた。

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