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万象解析の鑑定士

第3話 第3話

第3話

第3話

馬車の車輪が街道の石に跳ね、リオンの背骨を一度ごと叩いた。

 王都を発って三日目。屋根なしの荷台に座り続ける尻は感覚が鈍り、木板の節目に当たる部分だけが鋭く痛む。腰の下に敷いた外套の裾には、昨日の雨で吸った泥がまだ乾ききっていない。風が強くなるたび、乾いた土の匂いが顔に吹きつけられた。

 行商人の一家は二日目の宿場で降り、神官は今朝別の便に乗り換えた。荷台に残っているのは、リオンの他に巡礼の老人と、片腕を添え木で吊った若い冒険者の二人だけだ。

「兄さん、手綱の方に詰めるかい。風がましになる」

 老人が声をかけてきた。リオンは浅く頷き、荷台の前方へ膝をずらした。老人の手には銀の鎖が握られている。小さな聖印がぶら下がっていた。

「レンドールまでかね」

「はい」

「儂もだ。孫のとこへ向かっておる。……孫の息子が、瘴気にやられたと連絡があっての」

 銀の鎖が老人の掌の中で軋む。返す言葉は思いつかなかった。リオンは視線を地面に落とし、車輪の作る轍を見ていた。

 視界の端でノイズが一つ瞬いた。昨夜からずっとこうだ。何かを感知しているのか、スキルが暴走しているのか、判別できない。ヴァルトの偽装と、祭壇という単語の座標。あの二つの断片を見て以来、リオンの鑑定は壊れたのか覚醒したのか、自分でも分からなくなっていた。

「——止まるぞ」

 御者の声が飛んだ。馬車が急に速度を落とす。前方の街道に、人影が三つ。いや、人ではない。

「ゴブリンだ。群れの偵察か」

 若い冒険者が立ち上がり、腰の剣を抜いた。左腕は吊られているが、右腕だけは動く。

 街道の先、五十メートルほど離れた茂みの向こうで、緑の肌を持つ小柄な影が三体、こちらを窺っていた。棍棒を握り、牙を剥く。

 御者が御者台から短弓を取り出し、馬を落ち着かせる。若い冒険者が前に出た。

「一体は俺がやる。御者さんは残り二体を頼む。老人と兄さんは荷台から出るな」

「……手伝います」

 リオンは思わず口を開いた。若い冒険者が振り返る。

「武器は」

「ありません。ですが、鑑定スキルが——」

 言いかけて、止めた。

 鑑定が使えるのか。それすら、自分で確信が持てない。王都を出てから、一度も発動を試していなかった。怖かったのだと、今さら気づく。あの夜の情報の奔流が、またこめかみの奥を焼くかもしれない。

「鑑定かい。なら後ろで見てろ。弱点が見えたら教えてくれりゃいい」

 若い冒険者はそれ以上問わず、剣を構えた。

 ゴブリンが駆け出す。棍棒を振りかぶり、甲高い鳴き声が街道に響く。

 リオンは息を整え、先頭のゴブリンに視線を合わせた。鑑定を起動する。

 ——反応しない。

 視界に何も浮かばない。文字列が展開されない。データが流れ込まない。ただ、ゴブリンの姿が肉眼で見えるだけだ。

 もう一度試す。

 ——反応しない。

 焦りが胸の底を掻いた。王都を出るまでは、意図せずとも暴発していたスキルが、狙って起動させようとすると動かない。視界の端のノイズすら、今は静まり返っている。

「左から来る一体、膝に古傷があるぞ!」

 若い冒険者が叫ぶ。御者の短弓が矢を放ち、先頭のゴブリンの胸を貫いた。二体目は若い冒険者の剣が袈裟に斬り下ろす。右腕一本でも、動きに迷いがない。三体目は逃げようとして、御者の二射目で足を射抜かれた。とどめは若い冒険者の刺突。

 三体のゴブリンが街道に転がった。ほんの数十秒の戦闘だった。

 リオンは荷台の縁を握ったまま動けなかった。

「兄さん、顔色悪いぞ。初めてじゃないだろうに」

 若い冒険者が剣を拭いながら戻ってくる。

「……すみません。役に立てませんでした」

「構わんさ。ゴブリンの三体くらい、弱点見なくても捌ける」

 言葉に悪意はない。だが、リオンの胸には鈍い重さが残った。三年間、勇者パーティで積み上げた「鑑定士」という肩書きが、たった今、馬車の荷台で剥がれ落ちた気がした。

「——兄さん」

 巡礼の老人が、銀の鎖を握ったまま顔を上げた。

「レンドールはな、瘴気で家畜が次々倒れとる。冒険者の仕事は山ほどある。ランクも、肩書きも、辺境じゃ後からついてくるもんじゃ」

「……はい」

「儂の孫の息子も、昨日は口から黒い息を吐いておった、と手紙にあってな。間に合えばよいが」

 老人は空を見上げた。銀の鎖が掌の中で鈍く光る。

 御者が手綱を振り、馬車が再び動き出した。車輪の軋みと、ゴブリンの死体から漂う緑の体液の鉄錆臭が、風に運ばれて消えていく。

 リオンはポケットからギルドカードを取り出した。浮き彫りのE。端の欠け。三年間の鑑定士としての到達点が、この一枚に凝縮されている。親指で表面をなぞりながら、もう一度鑑定を試みた。

 カードの情報が、ぼんやりと浮かぶ。名前、ランク、登録日——基礎的な情報だけ。ノイズはない。赤い文字列もない。

 普通の鑑定だ。壊れても、覚醒してもいない。ただ、いつもの鑑定スキル。

「……なんだ、これは」

 呟いた声が、自分でも不安になるほど細かった。

 レンドールの城門が視界に入ったのは、五日目の午後遅くだった。

 高い石造りの城壁は王都のそれより低く、しかし角ごとに角笛持ちの歩哨が立っている。城門前には荷を積んだ行商人の列。門番が一人ずつ顔を確認し、簡単な問答で通していた。

 リオンも順に通された。ギルドカードを見せ、新規到着の冒険者として登録される。門番の男は一瞥し「ランクEか。ギルドは大通りを真っ直ぐだ」と告げ、次の列に目を移した。

 城門を抜けると、街の空気が押し寄せてきた。

 香辛料を焼いた屋台の煙、馬糞と藁の匂い、鍛冶屋の炉から漏れる熱気。大通りは人で埋まり、商人の呼び込みが三方から飛んでくる。辺境と聞いていた印象とは違い、レンドールは活気に満ちていた。

「新鮮な山鶏だよ!」 「鉱山産の魔石、王都の半額だ!」 「薬草の束、銅貨三枚!」

 リオンは雑踏の中を進みながら、視線を左右に配った。活気の裏側が、確かに見える。

 大通りから横道に入ると、店のいくつかは板を打ちつけて閉められていた。閉鎖の理由は書かれていない。だが、扉の前に簡素な塩の線が引かれていた。瘴気避けの民間呪法だと、三年前にどこかの村で見た。

 広場の隅、井戸の縁で子供たちが遊んでいる。その一人が、しきりに咳をしていた。母親らしき女が子供の背を撫で、口元に薄い布を当てさせていた。

「——こっちだ、兄さん」

 馬車で同行した若い冒険者が、リオンの肩を叩いた。いつの間にか隣を歩いていた。

「飯食えるとこ案内してやる。冒険者御用達の店だ。情報も集まる」

「助かります」

「名乗ってなかったな。俺はカイ。元Cランクだが、左腕がこれで今はDに落ちてる」

「リオンです。鑑定士」

「鑑定士か。いいな、後衛は需要がある」

 カイは軽く笑い、酒場の扉を押した。

 酒場の中は昼から混んでいた。冒険者らしき男女が長机に座り、エールを飲みながら情報を交換している。一番奥のテーブルでは、革鎧の男が地図を広げ、仲間に指示を出していた。

「おやじ、エール二つと黒パン」

 カイがカウンターに声をかける。リオンは銀貨を取り出したが、カイが手で制した。

「ここは俺が持つ。ゴブリン戦で役に立てなかったって気に病んでたろ。だったら一杯くらい奢らせろ」

「……すみません」

「辺境じゃ貸し借りは細かくしとくもんだ。後で返してくれりゃいい」

 エールが運ばれてきた。リオンは一口舐め、口の中を潤した。薄い麦の味が、あの凱旋式の夜の麦酒を思い出させる。だが今の麦酒には苦味がない。ただ、疲れた体に染みる温度だけがあった。

 隣のテーブルから声が漏れ聞こえてくる。

「——また北の牧場で牛が倒れた。三日で十二頭だ」 「封印遺跡の方から風が吹くと、決まって被害が出るな」 「王国は手を出さんのか」 「あそこは立入禁止だ。ギルドマスターも首を突っ込むなと言ってる」

 封印遺跡。リオンはその単語を頭の中で繰り返した。

 カイが小声で言った。

「瘴気の発生源の話だ。誰も正確な場所は知らんが、街の北にある遺跡が怪しいって噂は、ここ一月で広まってる」

「遺跡には、誰も入らないんですか」

「王国直轄の立入禁止区域だからな。ギルドも手を出せん。だが瘴気の被害が広がれば、そのうち王都から調査隊が来るだろう。問題は、それまで街が持つかどうかだ」

 リオンはエールの縁を指でなぞった。

 視界の端で、ノイズが瞬いた。今度ははっきりと、北の方角から。ちらつくのは光の粒だけで、文字列は浮かばない。だが、何かに反応している。

 壊れているわけではない。狙って発動しない。勝手に反応する。——自分のスキルの挙動が、少しずつ見えてきた。

「まずは安い宿を探します。明日ギルドで、最低ランクの依頼を受けようかと」

「薬草採取なら低級ダンジョンで出る。銅貨にはなる。ちょうど人手不足だ」

「低級ダンジョン」

「街の西にある。初心者向けだが、最近ノイズが出るって話もある」

 ノイズ。カイの言葉に、リオンの指が止まった。

「ノイズ、ですか」

「ああ。ベテランの連中が、洞窟の中で視界が揺れるとか、妙な文字が見えるとか言い出してる。瘴気の影響だって意見が多いが、はっきりしたことは分からん」

 リオンはエールの残りを飲み干した。喉の奥が熱くなる。

 安い宿は酒場のすぐ裏にあった。女主人が銅貨六枚で三日分の寝床を貸してくれた。部屋は狭く、窓は北向き。街の向こうの丘陵が、夕日で赤く染まっている。

 リオンは荷物袋を床に置き、ギルドカードを机に伏せた。

 明日、低級ダンジョンへ行く。薬草採取。銅貨数枚の依頼。勇者パーティの三年間からは、ずいぶん遠い。

 それでいい、とリオンは思った。

 窓の外、北の方角で、また視界の端が瞬いた。赤い文字列は浮かばない。ただ、光の粒が一つだけ、静かに滲んだ。

 リオンは窓を閉め、寝台に腰を下ろした。床板が軋み、外套の裾から乾いた泥が一粒、爪先の横に落ちた。

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