第2話
第2話
裏路地の石畳に朝日が斜めに差し込む。リオンは荷物袋を肩に掛け直し、冷えきった足を動かした。膝の関節が軋む。倒れた時に打ちつけたらしい。外套の裾に泥が跳ね、布の縫い目から藁屑が覗いている。どこかのゴミ箱の陰に捨てられたのだと、今さら理解する。
口の中にはまだ鉄の味が残っていた。唾液と混ざっても消えない金属の苦味が、喉の奥にへばりついている。あの瞬間、鑑定スキルが暴走した痕跡だった。視界の端には、今もまだ細かい光の粒がちらついている。完全には収まっていない。
——『神託レベル:偽装検出』
その赤い文字列だけが、はっきりと脳裏に焼き付いていた。他の情報は奔流に流され、もう思い出せない。だがあの二文字だけは違う。偽装。勇者のレベルが、偽装されている。
リオンは路地の壁に手をつき、ゆっくり息を吐いた。壁の石は湿っていて、掌に苔の粒が張りつく。遠くで朝市の鐘が鳴った。王都は、いつもの朝を迎えようとしている。
「——何も、変わらない」
口に出してみて、自分の声の掠れに気づいた。一晩、声を出していなかった。
三年間を捧げたパーティから追われて、王都の空は相変わらず青く、パン屋のかまどは相変わらず煙を吐いている。自分一人がこの路地の隅で痺れた膝を動かしている。それだけの事実。
頬を軽く叩いた。皮膚が痛い。痛むということは、まだ生きている。今は、それで十分だ。
冒険者ギルドの受付は、朝一番から混んでいた。
木造の高い天井から吊るされた魔石灯が、磨き込まれたカウンターを白く照らしている。依頼を選ぶ冒険者の低い話し声、羊皮紙を擦る音、魔石の売買で言い争う商人の声。どれもリオンには馴染みの光景だった。三年間、ほぼ毎朝ここを通っていた。
だが今朝、誰もリオンを見ない。壁際の見知った顔が、目を合わせずにすれ違う。噂は夜のうちに回ったらしい。勇者パーティから追放された鑑定士。それ以上の肩書きは、リオンから剥がれ落ちていた。
カウンターの前に立つ。受付の女は事務的な視線を上げ、すぐ下げた。
「除名手続きですね」
「はい」
「こちらがパーティ登録から外れた新しいカードです。ランク表記はE、スキル欄は鑑定のまま据え置き。個人登録への移行手数料は銀貨一枚です」
「払います」
硬貨を差し出す。女は受け取り、カードを木製のトレーに載せて滑らせた。
「ちなみに」
女は書類を揃えながら、わずかに声を落とした。
「パーティ名簿からの削除は昨夜のうちに勇者様ご本人が申請されています。素早い処理でした」
「——そうですか」
「勇者様は次の遠征を前倒しされるとかで。今日の午後には王城で作戦会議の予定だそうです」
「そうですか」
同じ言葉しか出なかった。女の目に一瞬、同情ともつかない光がよぎって、すぐに消えた。
「どうぞ、お気をつけて」
カードを内ポケットにしまう。端が少し欠けていた。再発行の急ごしらえらしい。親指で表面をなぞる。浮き彫りのE。三年前、新人の時と同じ文字。変わっていない。変わったと思っていたのは、自分だけだった。
ギルドを出る時、入り口の掲示板の前を通った。勇者パーティの次回遠征の告知が、真新しい紙で張り出されていた。構成員欄の最上段、ヴァルトの名前。その下に聖女エリーゼ、魔剣士ガレス。
四人目の欄は、空白で塗り潰されていた。
リオンは数秒それを見て、目を逸らした。
宿に戻ると、女将が珍しく朝食を出してくれた。冷めかけた黒パンと、薄いスープ。三年間使い続けた二階の部屋は、もう借りられない。家賃はパーティからの仕送りで支払われていたのだと、女将が申し訳なさそうに言った。
「荷物は、まとめてあるよ。上着の紋章跡、見てられなくてさ。糸くずだけ取っておいた」
「……すみません」
「謝るのはあんたじゃないよ」
女将が背を向け、厨房に戻っていった。肩が震えていた。泣いているのかもしれなかったが、リオンには確かめる資格がない気がした。
黒パンを半分齧る。焦げた耳の部分が歯茎に刺さる。咀嚼しながら、ポケットの中の金貨を数えた。銀貨四枚と、銅貨が少し。三年分の「鑑定士としての貯蓄」が、これだけだった。パーティの会計はヴァルトが握り、リオンの取り分は申請制だった。申請しても通らないことが多かった。
喉の奥で乾いた笑いが鳴った。気づかなかったわけではない。気づいても、言えなかった。それが三年間のリオンだった。
正午前、リオンは南大門へ向かう乗合馬車の発着所にいた。
石畳の広場に馬の嘶きが響き、旅商人の荷馬車が列を作っている。地方行きの馬車は数種類。北へ向かう便、東の海港へ向かう便、そして南西——辺境のレンドールへ向かう便。
リオンはレンドール行きの切符売り場に並んだ。五日はかかる。王都からもっとも離れた街。理由はそれだけで十分だった。
「どこ行きだい」
切符売りの男が無愛想に言った。髭の奥で煙管が燻っている。
「レンドールまで」
「銀貨二枚。屋根なし席だが、構わんか」
「構いません」
「辺境はな、最近瘴気の噂が絶えん。家畜が倒れ始めてるって話だ。冒険者なら仕事には困らんだろうがね」
男の視線が、リオンの外套の紋章跡で止まった。何も言わずに切符を差し出す。こちらの事情を察したのか、あるいは興味がなかっただけか。
「ありがとうございます」
銀貨を二枚渡す。手元に残ったのは銀貨二枚と銅貨数枚。残りの所持金で五日間を食いつなぐなら、干し肉と黒パンで耐えるしかない。構わない。三年間、どんなダンジョンでも同じ食事だった。
切符を握りしめ、広場の隅のベンチに腰を下ろす。出発まで四半刻ある。
視界の端で、ノイズが瞬いた。
反射的に目を細める。ノイズは馬車の方向で走っていた。荷物を積んでいる男の背後——黒い外套を深くかぶった誰か。鑑定を向けたつもりはない。だがスキルが勝手に反応している。あの夜から、何かが確かに変わっていた。
外套の人物は顔を上げなかった。だが歩き方に見覚えがある。背の高さ、肩の角度、右足をわずかに引きずる癖。リオンの胸が一度だけ跳ねた。
聖女エリーゼ。
確信はない。外套の人物はすぐに雑踏に紛れて見えなくなった。偶然かもしれない。王都は広く、同じ広場を通る理由など無数にある。だが、あの歩き方は。
「——何しに来た」
口の中だけで呟く。追いかける意味はなかった。別れの言葉を取りに来たのだとしても、受け取るつもりはない。恨み言を言いに来たのだとしても、返す言葉はない。リオンはベンチの背に体を預けた。
視界のノイズは、まだ収まらない。ちらちらと光の粒が散り、赤い文字列が一瞬だけ浮かぶ。今度は短く、断片的に。
『神託——』
『——偽装』
『——祭壇』
祭壇。
その言葉はリオンの中になかった。ヴァルトのステータスを見たあの夜、流れ込んだ情報のどこかに紛れていたのか。それともスキルが今、独自に引き出しているのか。判別できない。
頭を振った。ノイズが引く。ベンチの木の硬さが尻に戻ってくる。
リオンは切符を胸ポケットに押し込み、立ち上がった。乗車の合図の鐘が鳴っている。馬車の車輪が軋み始めている。追うべき手がかりは、まだ糸くず程度しかない。だが辺境で静かに暮らすという選択肢は、あの赤い文字列を見た瞬間に消えていた。
——見えてはいけないものを、見た。
だから、歩くしかない。
馬車の荷台に腰を下ろすと、木板の固さが骨に直接響いた。周囲には行商人の一家、旅の神官、巡礼の老人。誰もリオンに関心を払わない。それでよかった。外套を深く引き、ギルドカードの欠けた端を指でなぞる。
「出すぞ」
御者の声が短く飛んだ。手綱が振られ、馬蹄の音が石畳を蹴る。馬車がゆっくりと動き出した。
王都の城壁が視界の後方に退いていく。朝市の鐘、鍛冶屋の槌音、パン屋の煙。三年間を過ごした街の音が、少しずつ遠ざかる。
車輪が大通りから街道へ抜ける瞬間、視界の端でまたノイズが走った。今度は後方——王都の中心部、王城の方角から。
赤い文字列が一行、鮮明に浮かぶ。
『——座標取得』
リオンは振り返らなかった。ただ、拳の中で切符が汗で湿っていくのを感じた。