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万象解析の鑑定士

第1話 第1話

第1話

第1話

地下四十二層——黒竜の咆哮が迷宮全体を震わせた瞬間、リオンの視界にノイズが走った。

 空気が変わる。湿った石壁が共鳴し、足元の地面が細かく痙攣する。黒竜の吐く息が硫黄と焦げた鉄の臭いを運び、松明の炎が横殴りに揺れた。闇の奥で巨体が身じろぎするたび、鱗同士がこすれる金属音が鼓膜を叩く。

 鑑定スキルが起動する。対象の情報が網膜に焼きつくように浮かび上がる。だが同時に、処理しきれない膨大なデータの残滓が視界の端でちらつく。文字列が明滅し、意味を成さない数値の断片が光の粒子のように散る。いつものことだ。リオンはそれを無視し、必要な情報だけを声に出した。

「左翼基部、鱗の合わせ目に魔力の薄い箇所がある。首を振った直後に〇・三秒だけ露出する。そこが弱点だ」

 自分でも驚くほど平坦な声だった。心臓は暴れている。黒竜の瞳孔がこちらを捉えるたびに、本能が逃げろと叫んでいる。だがリオンは声を震わせなかった。三年間、そうやって生き延びてきた。

 勇者ヴァルトは振り返りもしなかった。聖剣を構え、前衛の魔剣士ガレスに顎で合図を送る。

「ガレス、囮を頼む。俺が首筋を叩く」

「了解。——エリーゼ、防壁を」

 聖女エリーゼの詠唱が空間を満たし、光の障壁がガレスを包む。三人の連携は見事だった。黒竜が首を振り上げ、ブレスの予備動作に入る。喉奥で魔力が圧縮される音が低く唸り、迷宮の空気が一瞬だけ真空になったかのように耳が詰まる。ヴァルトが地を蹴り、リオンが指摘した一瞬の隙を突いて聖剣を叩き込んだ。

 鮮血が噴き出す。黒竜が崩れ落ち、迷宮が沈黙した。

 リオンはその光景を後方から見ていた。手には何の武器もない。鑑定士の仕事はもう終わっている。ここに至るまでの二十七のトラップを解除し、十三体の中層モンスターの弱点を洗い出し、黒竜の行動パターンを分析した。それがリオンの三年間だった。

 視界の端で、またノイズがちらつく。黒竜の死体から溢れる情報の奔流が、処理能力を超えて暴れている。素材等級、魔核の残存魔力量、鱗一枚ごとの硬度偏差——求めてもいないデータが際限なく流れ込み、こめかみの奥がじくりと痛む。リオンは目を閉じてそれを遮断した。

 ——壊れかけのスキルだ。いつか完全に使い物にならなくなるかもしれない。

 その自嘲は三年間、ずっと喉の奥に張りついている。

 王都に凱旋した夜、大広間は歓声と酒の匂いに満ちていた。

 蝋燭が何百と灯された天井の下、楽団の旋律と食器の触れ合う音が渾然一体となって広間を満たしている。焼き上がった猪肉の脂の匂い、果実酒の甘い香り、貴婦人たちの香水——それらが混ざり合い、むせるような熱気を作り出していた。

 壇上に立つのは勇者ヴァルト。金髪を揺らし、群衆を見下ろす姿は絵画のように映える。隣に聖女エリーゼ、その後ろに魔剣士ガレス。三人の英雄が並ぶ姿に、貴族も平民も惜しみない拍手を送っていた。

「——地下四十二層の黒竜は、この聖剣の一撃で沈んだ。我々勇者パーティに、倒せぬ魔物はない!」

 ヴァルトの声が広間に響く。リオンは壁際で薄い麦酒を舐めていた。壇上に上がれとは誰にも言われていない。三年間、一度も言われたことがない。

 黒竜の弱点を見抜いたのは誰か。二十七のトラップを解除したのは誰か。ヴァルトの口からその名が出ることは、今夜もなかった。

「すごいわ、勇者様!」

「聖女エリーゼ様の加護あってこそですな」

「魔剣士ガレスの剣捌き、見事の一言」

 貴族たちの賛辞が飛び交う中、リオンの存在に気づく者はいない。鑑定士。ランクE。パーティの名簿には載っているが、戦場で剣を振るわない人間に興味を持つ者は少ない。

 リオンはそれでよかった。目立つ必要はない。自分の仕事が正しく機能すれば、パーティは勝つ。それだけで十分だと思っていた。——思い込もうとしていた。麦酒の薄い苦味が舌に残る。その苦さが、自分の感情の正体に似ている気がして、リオンは杯を置いた。

「おい、リオン」

 ガレスが近づいてきた。珍しい。普段は口も利かない男だ。

「ヴァルトが呼んでる。裏庭に来い」

 声に温度がない。リオンはガレスの目を見た。視線が合わない。意図的に外されている。嫌な予感が胸の底で小さく鳴った。リオンは麦酒を置き、広間を出た。

 裏庭は月明かりだけが照らしていた。噴水の水音が遠くに聞こえる。夜風が首筋を撫で、広間の喧噪が嘘のように遠い。石畳は夜露に濡れ、月の光を鈍く反射していた。ヴァルトが腕を組んで待っていた。その背後にエリーゼが立ち、視線を伏せている。ガレスは壁に背を預けた。

 三対一。リオンはその構図を見て、すべてを悟った。

「単刀直入に言う」

 ヴァルトの碧眼がリオンを射抜く。

「次の遠征に、お前の席はない」

 静寂。噴水の音だけが裏庭に落ちる。

「鑑定なんざ道具屋の水晶玉で足りる。Eランクのスキルに割くポストはもうない。今日でパーティから抜けろ」

 リオンはヴァルトの顔を見た。三年間見てきた顔だ。自信に満ち、他者を見下すことに慣れた目。その目が今、わずかに——揺れた気がした。

「……理由は、それだけですか」

「それだけだ。お前は三年間よくやった。だが、これ以上は荷物だ」

 荷物。その言葉がリオンの胸を刺す。三年間の仕事が、そのたった二文字に圧縮された。

 エリーゼが唇を開きかけ、閉じた。その睫毛が震えていた。何か言いたいのだろう。だが言わない。言えない。それがこのパーティの力学だった。ヴァルトの決定は覆らない。三年間、一度も覆ったことがない。ガレスは壁を見ていた。誰も異を唱えない。リオンはそれを確認し、息を吐いた。

「わかりました」

 短く答え、踵を返す。それ以上言うことはなかった。弁明も、懇願も、リオンの性分ではない。背中にヴァルトの視線を感じた。何か言いかけた気配があった。だがリオンは振り返らなかった。

 ——その瞬間、視界が弾けた。

 いつものノイズではなかった。視界の全域を埋め尽くす情報の瀑布。文字列が光の速度で流れ、脳の奥を灼く。鑑定スキルが勝手に起動している。対象は——ヴァルトだった。

 名前、種族、レベル、保有スキル。パーティリーダーとして公開されている情報が次々と展開される。だがその下に、見たことのない階層があった。

 赤い文字列が浮かぶ。

『神託レベル:——偽装検出——』

 偽装。

 リオンの思考が凍りつく。勇者の、レベルが、偽装されている。その意味を理解する前に、情報の奔流が処理限界を突破した。頭蓋の内側が焼けるような痛みが走り、視界が白く染まる。

「——っ」

 膝が折れた。地面が近づく。冷たい石畳の感触が掌を打つ。口の中に鉄の味が広がった。意識が遠のく中、最後に聞こえたのはヴァルトの声だった。

「おい、何だ今の——」

 そこで、すべてが途切れた。

 目を開けると、裏路地だった。

 石畳の冷たさが頬に伝わる。体中が痛い。荷物袋が隣に転がっている。空は白み始めていた。夜が明ける。

 リオンは身を起こし、自分の状況を確認した。王都の裏路地。ゴミの臭い。湿った壁に染みついた黴の匂いが鼻を突く。遠くから朝市の喧噪が聞こえる。パーティの紋章はすでに剥がされていた。外套の胸元、かつて紋章が縫い付けられていた場所に、糸を引きちぎった痕だけが残っている。

 追放された。捨てられた。三年間の対価が、路地裏の石畳だった。

 だが、リオンの頭にはそれよりも鮮明に残っているものがあった。

 あの赤い文字列。

『神託レベル:偽装検出』

 見間違いではない。壊れかけのスキルが最後に見せた情報は、勇者ヴァルトのステータスの異常だった。偽装。誰が、何のために。そしてなぜ自分の鑑定がそれを検知できたのか。

 リオンは荷物袋を拾い上げ、立ち上がった。体が重い。だが頭は妙に冴えていた。

 壊れかけのスキル。本当にそうだろうか。

 三年間のノイズ。処理しきれなかった情報の残滓。あれはスキルの故障ではなく、自分の器が追いついていなかっただけではないのか。

 答えはまだ出ない。出せるだけの情報がない。

 だが一つだけ確かなことがある。勇者パーティにはもう戻れない。戻る気もない。ならば行くしかない。どこかへ。答えを探しに。

 リオンは裏路地を歩き出した。朝の光が路地の先に差し込んでいる。

 ——視界の端で、ノイズがまた一つ瞬いた。

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