第3話
第3話
胸の奥で確信が形を取ってから、しばらくレンは動けなかった。
畑の端にしゃがみ込んだまま、掌に残る微かな痺れを、指を握ったり開いたりして確かめる。握れば土の粒がぽろぽろとこぼれ、開けば掌のしわに赤い粉が残った。何の変哲もない乾いた土だった。けれど瞼を閉じれば、青と黄と鉛色の層が、すぐにでも浮かび上がってくる。
——眠っているのだ。
昨夜タニアが言った「死んだらもう戻せない」という言葉が、違う角度で胸に落ちた。彼らは、この土が死んでいないことを、本能的に知っていた。だから鍬を止めなかった。あの規則正しい音は、土を呼び続ける音だったのだ。
朝の風が、畑の畝を渡ってきた。スベリヒユの枯れ葉がかさりと鳴る。遠くでタウゼ老人が畝の向こう側で土を起こし続けている。こちら側には背を向けたまま、振り返ろうとはしない。好奇心を見せることすら、この村では贅沢な動作らしかった。
陽が指ひとつ分高くなったころ、レンはもう一度土に触れた。
今度は両手を使った。掌を広げ、指の腹まで地面に押しつける。じんわりと伝わる温度は、表面の乾いた熱ではない。もっと深い、地中の呼吸のような温みだった。目を閉じると、昨日よりずっと鮮明に色彩が立ち上がってくる。青が、黄が、鉛色が、畑の下で幾重にも重なっている。
そして今朝は、さらに別のものが見えた。鉛色の層の縁に、小さな点のようなきらめきがいくつも散らばっている。冷たくはなく、むしろ温かな光を放っているのだけが伝わってきた。
指先を、そっと土に沈めた。
鉛色の層に意識を向けると、指の腹に微細な痛みが走った。
痛みというより、針で舐められるような感覚だった。酸の層が皮膚を通して知らせてくる。強すぎる酸性土。かつて宮廷農政院の資料室で読んだ、南方の硫酸塩土壌の文献を思い出した。麦も豆も根を伸ばせず、養分があっても吸えない。ここで育つのは酸に強い雑草ばかり——その観察は、昨日の視診と完全に一致した。
「酸性……」
呟いたレンの口のなかで、その言葉は乾いていた。
宮廷の会議ではこんなとき石灰を処方する。東方丘陵の痩せ地対策も、南部の輪作計画も、すべて石灰と堆肥の組み合わせで組み立てた。だがここに石灰はない。あったところで、これだけの面積を中和するには何年もかかる。村人たちに、それだけの時間も、金も残されてはいない。
掌を押しあてたまま、レンはぼんやりと考えた。
——もし、酸を、このまま。
考えがまとまる前に、掌に反応が起きた。
ちりっ、ではなかった。もっと深いところから、静かに、しかし確かに、何かが集まってくる感覚だった。胸の奥、みぞおちのあたりから温かいものが腕を伝い、肘を通り、手首を越えて、掌の中心に集まっていく。自分の体のなかにこんな流れがあることを、レンは三十年の人生で一度も知らなかった。
指先のあたりに、小さな光が宿った。
淡い緑色だった。蛍の光に似て、けれど蛍より静かで、呼吸するようにゆっくりと明滅している。はっと目を開けると、光は消えていた。掌の下の土は昨日と同じ赤茶けた色をしていて、何の変化もない。
——見えないのか。
だが確かに、掌の下では何かが起きていた。瞼を閉じ直すと、鉛色の層の一部が、灰色に薄まり始めている。その境界に、緑の光がゆらゆらと広がっていく。酸の点が、光に触れた先から消えていく。まるで薄紙に落ちた水滴が、じわじわと繊維に吸われていくように。
心臓が早く鳴りはじめた。
幻覚ではない。視界の中の色彩は、指先の痺れと正確に連動している。緑の光を強めれば、鉛色は早く消える。弱めれば遅い。意思で制御できる。体のなかで、何かの回路が開いたのだ。
レンは喉の奥で、小さく笑った。
十年、机上で土の数字と格闘してきた。痩せ地に通い、農民の呼吸を覚え、試薬瓶を傾けて微量な養分を測り続けてきた。そのすべてが、今この指先の小さな光にたどり着くためだったようにさえ感じられた。
試してみよう、と思った。
一角——この畑のなかでも、特に酸の強い場所。指先の診断でそれはもう分かっていた。一畝ぶんだけだ。それなら無理はない。もし失敗しても、この村の誰も困らない。
レンは膝をゆるめ、畑の中ほどまで膝で進んだ。タウゼ老人の視線が一瞬こちらを向いたが、すぐまた鍬に戻った。若造がしゃがんで遊んでいる、くらいにしか見えないだろう。
両手を、選んだ一畝の土に下ろした。深く息を吸う。乾いた空気と土の匂いが、胸の奥まで届いた。
掌に意識を集めた。
指先から温かい流れが伸び、掌の中央で密度を増していく。瞼の裏で、淡い緑の光が畝の土のなかに染み込んでいくのが見えた。最初はゆっくりと。やがて光は根のように枝分かれし、鉛色の層の端を舐めるように辿りはじめた。
酸の点が、光の通り道で、ひとつ、またひとつと消えていく。
畝の全長を光が走り抜けるまでに、どれほどの時間がかかったのか、レンにはわからなかった。半刻ほどのような気もするし、ほんの数分のような気もする。意識の大半が地中に潜っていて、陽の動きを追う余裕がなかった。
最後のひとつの鉛色が灰色に薄まり、それからゆっくりと、淡い茶色に落ち着いたとき。
ぷつりと、回路が切れた。
掌の光が消えた。と同時に、胸の奥のみぞおちにぽっかりと冷たい穴が開いた。空腹や渇きとは違う。自分の体の中から、何か大切な一部が抜けていった感覚だった。息を吸おうとしても、肺が半分しか動かない。視界の端から黒い点が押し寄せ、陽光が急に遠くなる。
——ああ、これは、やりすぎた。
そう思った瞬間、膝が崩れた。
畝のうえに横向きに倒れ込むかたちになった。頬に土の粒が当たった。昨日と同じ、痩せた温もりの土だった。だが今朝よりも、少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかい気がした。耕されたばかりのような、ふわりとした感触。中和された一畝ぶんの、最初の表情だった。
指先は動いた。足の指もまだ感じる。意識はある。ただ、体を起こす力が、どこにも残っていなかった。
「若いの!」
タウゼ老人の叫びが、畑の向こうから届いた。鍬を投げ出す音、急いた足音。老人にしては速い走り方だった。
「おい、若いの、どうした。しっかりしろ」
皺だらけの手が肩を揺さぶる。レンは応えようとしたが、口から出たのは息に近い音だけだった。
「ばあさん、ばあさん——!」
タウゼの叫びが遠くなる。やがて駆けてくる複数の足音。小さなもの——子どもたちの足音も混じっていた。誰かの短い息遣い。タニアの低い声。
レンはうっすら目を開けた。陽を背にした数人の顔が、畝のうえの自分を見下ろしていた。一番手前にタニアが膝をついている。その後ろに子どもたちが三人。ひとりは昨日、革鞄を見ていた小さな女の子だった。
だが子どもたちの表情は、昨日とは違っていた。
指をくわえていた女の子が、今朝は指を口から離し、両手をぎゅっと握りしめていた。その後ろで年長の男の子が、レンの倒れた畝の土を、一点を見つめている。かすかに土が、昨日までの赤茶ではない、少し深い色に染まっていた。
タニアは何も言わなかった。
ただ、その皺の奥の目が、昨日の朝、レンに白湯を渡してくれたときの優しさではなく、別の何かを含んで細められていた。畑と、倒れたレンと、その掌のあたりを、ゆっくりと視線が行き来する。
「タウゼ」
タニアが短く、老人の名を呼んだ。
「水桶を持ってきな。家のなかに運ぼう」
タウゼは返事をしなかった。中和が済んだ一畝の土と、そこに倒れた若造とを、順に視線で撫でるようにしてから、ようやく踵を返した。
子どもたちは動かなかった。
年長の男の子が、口のなかで小さく何かを呟いた。言葉にならない、音に近い呟きだった。レンの耳はそれを拾えなかった。ただ、その目の色だけが、胸の奥に残った。畏れでもあり、訝しみでもある、幼い顔には不似合いな色だった。
タニアの手が、レンの額に触れた。熱を確かめる動作だったが、指先のどこかに、昨日の朝とは違う距離の取り方があった。
レンはもう一度目を閉じた。瞼の裏で、中和を終えた一畝だけが、他の場所とは違う色彩で静かに息づいている。
けれど同じ瞼のうえに、子どもたちと老人の視線の温度が、重さを持って残っていた。