第2話
第2話
砂利を踏む音が、自分のものだとは思えなかった。
レンは片足を引きずりながら、集落へ向かう斜面を下っていた。左の足首は腫れあがり、靴の中で熱を持っている。喉は焼けたようにひりつき、唾を飲むだけで痛みが走った。革鞄の帯が肩に食い込み、そのわずかな重さすら負担だった。
鍬を振るっていた老人が、ふと手を止めた。鍬を握ったまま、背を伸ばすようにして振り返る。深くしわの刻まれた顔に、驚きとも警戒ともつかぬ色が浮かんだ。
「……人か」
掠れた声だった。レンは何か返そうとしたが、口を開いた瞬間、膝が砕けるように崩れた。赤茶けた土が鼻先に迫る。受け身を取る力はもう残っていなかった。
頬に触れた土は、朝の光を吸ってほんのりと温い。だがその温さが、ひどく痩せていた。養分を蓄える余力を失った土の、枯れた温もりだった。地方の痩せ地を歩き回った十年の指先が、頬越しにそう告げてくる。こんな場面でだけ、知識は正確に働く。
「おい、しっかりしろ。おまえさん、どこから来なすった」
老人の声が近くなる。皺だらけの手が肩に触れ、もう片方が鞄の肩紐を探ってきた。抜こうとしているのではない。背負い直そうとしているのだ。
「婆さまに……水を……」
そこまで言って、声が続かなくなった。老人は舌打ちとも溜息ともつかぬ音を漏らし、片腕でレンの脇を支えた。細い体のどこにそれほどの力があるのか、とレンは薄れゆく意識の端で思った。
目を開けると、低い天井の梁が見えた。
煤で黒ずんだ木肌に、蜘蛛の巣が一筋。どこか遠くで、薪のはぜる小さな音がしている。土間の匂い、乾いた草の匂い、それに混じって何か薬草じみた苦い香り。鼻の奥がひくりと動いた。カモミレか、いや、もっと野性的な——野地生えの熊笹を煎じた匂いだった。
体を起こそうとして、肩に激痛が走った。
「起きなくていいよ。そのまま横になってな」
頭の横から声がした。しわがれた、だが温かい女の声だった。レンが首だけ向けると、囲炉裏の向こうに背の丸い老婆が座っていた。白髪を後ろでひとつに結わえ、色の褪せた前掛けを膝にかけている。手にはひび割れた木の椀。中で湯気が立っていた。
「三日寝てたんだよ、おまえさん」
「三……日」
声がかすれて、自分でも驚くほど弱々しい。老婆は笑いもせず、ただうなずいた。
「タウゼじいが丘の上で拾ってきてね。死人かと思ったって。水飲めるかい。ゆっくりだよ」
椀の縁が唇に触れた。生温い白湯だった。飲み込んだ瞬間、喉の奥から胃までが、焼けた砂に水が染み込むような快感に貫かれた。二口、三口、四口。飲んでも渇きが埋まらない。
「落ち着きなって。そんなに急いで飲むと吐くよ」
老婆が椀を引いた。そうして、ようやくレンは室内を見渡した。
粗末な土間の家だった。壁の漆喰は端から剥げ、土が露出している。隅に積まれた薪の山は、半分以上が昨年の枯れ枝らしく細く、火持ちが悪そうだ。窓枠の桟には木の皮を剥いだ跡が残っていた——煮炊きの足しに、柔らかい内皮まで食いつないだのだろう。痩せた土地の、痩せた暮らしの証拠が、目に入るところすべてに散らばっていた。
「ここは……どちらに」
「赤土村だよ」
老婆は短く答えた。
「名のある村じゃない。王国の地図にも載ってないかもしれない。北境の——もう街道の外さ」
街道の外。追放先としてはこれ以上ない場所だ。そして地図に載らぬほどの土地で、老婆と老人と、微かに聞こえてくる子どもの声。それがすべてらしかった。
「おまえさんは」
「……レン、と言います。王都の農政院で、働いていた者です」
そう言ってから、レンは少しだけ顎を上げた。嘘にはしなかった。これから身を寄せるのなら、嘘から始めたくはなかった。
老婆は皺の奥の目を細めた。だが何も問わなかった。ただ湯の残った椀を囲炉裏の脇に置き、膝を使って立ち上がった。
「詳しい話は、もう一杯飲んでからだ」
その日の夕刻、レンは支えられながら表に出た。
夕陽が赤く傾いていた。家の外は狭い土の広場で、中央に涸れた井戸の石組みがある。石の縁には苔のなごりすら残っておらず、水気が失われて久しいことを告げていた。老婆——タニアと名乗った——が井戸のそばに立ち、村の話を短く聞かせてくれた。
十年ほど前までは三十世帯が暮らしていたという。だが日照りと、流れてくる徴税、そして土地そのものの疲弊が重なって、若い衆は次々に村を出た。今残っているのはタニアを含めて老人が四人と、親を亡くして行き場のない子どもが三人。それだけだった。
「ここの畑は、昔から薄いのかい」
レンが問うと、タニアは首を振った。
「昔はこうじゃなかった。あたしが嫁に来た頃は、麦も豆も採れたんだよ。それがある年から、水が涸れてね」
「井戸は」
「八年前に涸れた。沢から担いで来てる。子どもたちに運ばせるのも忍びないから、あたしとタウゼで日に二往復」
タウゼという名は、丘の上でレンを拾った老人のことだった。
「——それでも、畑を耕しているんですね」
「耕さないと、土が死ぬ。死んだらもう戻せない」
タニアは当然のことのように言った。その一言が、レンの胸の底のどこかを押した。王都の会議室で使われていた言葉とはまるで違う、体のなかから湧いてくる農民の言葉だった。
土間の戸口に子どもたちが顔を覗かせていた。三人とも痩せて、目ばかりが大きい。いちばん小さな女の子が、指をくわえてレンの革鞄を見ていた。革鞄など、この村では珍しいものなのだろう。
「明日、畑を見てもいいですか」
レンの言葉に、タニアは怪訝そうな目をした。
「見てどうする」
「わかりません。ただ、見てみたい」
答えにならない答えだったが、タニアは肩をすくめ、ゆっくりと笑った。皺が目尻にいくつも寄った。
「好きにしな。荒れ地を見て喜ぶ者なんて、おまえさんくらいだろうが」
翌朝、まだ陽が低いうちに、レンは畑へ出た。
足首はまだ痛むが、もう立っていられないほどではない。タウゼ老人が自分の鍬を貸してくれた。柄はすり減り、手の脂で黒く染まっている。長年一人の男が握り続けた道具の重さが、掌に伝わってきた。
「若いの、無理はするな」
タウゼは短く言い、自分は畝の向こう側でゆっくりと土を起こし始めた。あの単調な、止まることのない、昨日と同じ鍬の音だった。
レンは畑の真ん中でしゃがみ込んだ。
まず、見ることから始めた。土の色。粒の粗さ。雑草の種類と生え方。王都の机上で何百枚と書いた報告書の、最初の一行を引き出すための作業だった。砂質の表土が薄く、その下に赤い粘土層。保水も排水も同じだけ悪い。地表の雑草はもっぱら痩せ地を好むスベリヒユ系、それも育ちが乏しい。窒素欠乏。酸性過多。有機質枯渇。十年前の研修生だった自分が、ここに立っても同じ診断を書くだろう。
——結論は、救いがない。
普通なら、そうだ。
レンは右手を開いた。掌を下に向け、乾いた土の上にそっと置く。節くれた指の下に、細かな赤い粒が潰れるのを感じた。それから、ゆっくりと目を閉じた。
最初は何も起きなかった。風が頬を撫で、遠くで子どもが笑う声がする。鼻に届く匂いは、昨日のものと変わらなかった。
だが。
掌の下で、何かが動いた。
指先から手首にかけて、ちりっとした感覚が走る。昨日の丘で感じたものと同じだった。それが今朝は、もっとはっきりしていた。静電気に似た痺れの奥に、別の感覚が重なっている。温度ではない。重さでもない。まるで——味に似た、何か。
瞼の裏に、色がにじんだ。
青い筋が一本、土の中を細く走っていくのが見えた。いや、見えた、ではない。そう感じた。青の隣には淡い黄が点在し、その下にもっと暗い、鉛色の層がうっすらと広がっている。色は言葉を伴ってやってきた。青は水の通り道。黄は窒素の残滓。鉛色は——酸の沈積層。
そんな視覚化の技法を、レンは学んでいない。
王国農政院の最新の文献にも、こんな方法は記されていなかった。土壌学は、試薬と顕微鏡と、長年の勘で積み上げる学問のはずだった。それが今、閉じた瞼の裏で、まるで地図を広げるように土の中身が広がっている。
——何だ、これは。
レンは目を開けた。景色はもとの赤茶けた畑に戻った。だが瞼を閉じれば、あの色彩がすぐにでも浮かんでくる気がした。
「若いの、どうした」
タウゼの声が背後から聞こえた。鍬を止めて、こちらを見ている。
「……いえ、なんでもありません」
レンは曖昧に笑い、掌の土を払って立ち上がった。心臓がうるさく鳴っていた。幻ではない、と直感していた。幻であるには、色があまりにも正確すぎた。青の筋が走る方向は、かつてこの土地に水脈があった跡と符合する。黄の点は、数十年前に施された堆肥の名残だろう。そして鉛色——酸性土壌の沈積——は、畑全体の生育を阻む決定的な要因に違いなかった。
陽が高くなる前に、レンはもう一度、畑の端に座った。
右の掌をそっと、別の一角に下ろす。青の筋が強い場所を、わざと選んだ。目を閉じる。色はすぐに立ち上がった。今度はさらに鮮明だった。青の奥に、もう一層、濃い緑の帯がうねっている。それが何を意味するのか、レンにはまだわからなかった。だが胸の奥で、ひとつのことだけが確信になった。
——この土地は、死んでいない。
ただ、眠っているのだ。何十年も前から、誰にも気づかれないまま。
タニアの言葉が耳の奥でよみがえった。耕さないと、土が死ぬ。死んだらもう戻せない。彼らは、死なせないために、毎朝鍬を振るっていた。その鍬の音の下で、この土は何かを蓄えながら、呼ばれるのを待っていた。
レンは深く息を吸った。
乾いた風が畑を渡り、枯れたスベリヒユの葉を小さく揺らす。掌の下で、かすかに、しかし確かに、赤い土が脈打っていた。
この指の先で、いま、何かが始まろうとしている——その予感だけが、朝の光のなかに、ひそやかに立ち上がりつつあった。