第1話
第1話
十年だった。
王国農政院の薄暗い廊下を、レンは荷物ひとつを抱えて歩いていた。革鞄の中身は着替えが二組と、書き溜めた土壌調査の記録帳。それだけだった。十年という歳月に対して、あまりにも軽い。
足音が石の床に反響する。冷たく湿った空気が頬を撫で、壁に染みついた古い紙とインクの匂いが鼻の奥に届いた。かつてはこの廊下を、腕いっぱいの報告書を抱えて何度も往復したものだった。南部穀倉地帯の輪作計画、東方丘陵の痩せ地対策、王都近郊の灌漑整備——どれもレンが原案を書き、レンが現場を回り、レンが数字を揃えた。農政院の成果として宮廷に上がった書類の、実に七割はレンの手によるものだった。
だが、それを知る者はもういない。
今朝の審問は短かった。大臣が羊皮紙を一枚広げ、そこに記された文言を読み上げるだけの儀式だった。職務怠慢、成果不足、能力不適。どれも事実と異なる罪状だったが、反論の機会は与えられなかった。審問室に並んだ十二の椅子のうち、こちらと目を合わせた者は一人もいなかった。かつて同じ案件で夜を徹した同僚たちが、まるで壁の染みでも見るように視線を逸らす。その光景が、罪状そのものよりもずっと深くレンの胸を抉った。
「無能」
貴族派閥の筆頭であるガルドナー侯爵が、最後にそう言い添えた。薄い唇の端がわずかに持ち上がっていた。革手袋をはめた指先で羊皮紙の端を弾くような仕草をした。用済みの書類を片付けるときの、あの何気ない動作と同じだった。この追放劇の絵を描いたのは間違いなくあの男だった。農政院の利権を派閥の息のかかった人間で固めるために、平民出身のレンは邪魔だったのだ。
正門の前で、護送の馬車が待っていた。御者台に座った兵士がレンを一瞥し、顎で荷台を示す。客車ではない。藁が敷かれただけの、荷運び用の荷台だった。
レンは黙って乗り込んだ。藁の匂いが鼻をついた。青臭くて、少し湿っている。刈り取りから日が浅い。おそらく東方丘陵産の秋藁だ——そんなことが、反射的にわかってしまう自分がおかしかった。十年かけて積み上げた知識が、こんな場面でだけ正確に働く。笑い話にもならなかった。
「出せ」
兵士の短い号令で馬車が揺れ始めた。車輪が石畳を噛む振動が背骨に伝わる。レンは荷台の縁に背を預け、遠ざかる王都の灯りを見つめた。
夕暮れの空は深い茜色に染まっていた。尖塔の影が長く伸び、鐘楼の輪郭が暮れなずむ空に溶けていく。十年前、地方の農家の倅がこの街に足を踏み入れたときは、あの尖塔を見上げて胸が震えたものだった。父の畑を継がず、農学で身を立てると決めた日のことを思い出す。村を出る朝、母が持たせてくれた干し果実の甘さが、不意に舌の奥に蘇った。
——もう、振り返るのはよそう。
レンは目を閉じた。馬車の揺れが単調な眠気を誘う。追放先がどこなのか、兵士は告げなかった。おそらくは辺境のどこか、二度と王都に戻れない場所だろう。
うとうとと浅い眠りに落ちかけたとき、馬車が大きく跳ねた。山道に入ったのか、路面が荒れている。レンは藁を掴んで体を支えようとしたが、次の衝撃で体が浮いた。荷台の柵が腰を打ち、視界がぐるりと回転する。
地面が迫る。
受け身を取る間もなく、肩から落ちた。砂利と乾いた草が頬を擦り、鈍い痛みが全身を走った。馬車の車輪の音が遠ざかっていく。御者が止まる気配はなかった。
——落とされた、のか。
最初からそのつもりだったのかもしれない。辺境まで運ぶ手間すら惜しんだのだ。あるいは、途中で死んでも構わないと。
暗がりの中、砂利に横たわったまま空を仰いだ。星が瞬いていた。雲ひとつない夜空に、無数の光点が散らばっている。王都の灯りに慣れた目には、その密度がひどく不自然に映った。こんなにも多くの星が空にあったことを、レンは忘れていた。
痛みが意識を侵食していく。頬に触れる土が、妙に温かかった。乾いて、粒が粗くて、養分が少ない土だ。そんな分析が頭をよぎったのを最後に、レンの意識は途切れた。
どれほどの時間が経ったのか。
最初に感じたのは、光だった。
瞼の裏が赤く透ける。朝の陽光だとわかるまでに、しばらくかかった。体のあちこちが軋むように痛む。肩と腰、それから左の手首。骨は折れていないようだったが、打ち身がひどい。
レンはゆっくりと目を開けた。
赤茶けた大地が、どこまでも広がっていた。
草はまばらで、地表に這いつくばるようにしか生えていない。遠くに低い丘陵の稜線が見えるが、木立と呼べるものはほとんどない。風が吹くたびに乾いた砂が舞い上がり、肌をちりちりと刺す。空だけが、嘘のように青く澄んでいた。
レンは体を起こし、あたりを見回した。街道らしきものは見当たらない。馬車がどの方向から来たのかもわからなかった。あるのはただ、赤い土と、乾いた風と、容赦のない朝日だけだった。
革鞄は——あった。数歩先の窪みに転がっている。中身を確認すると、着替えと記録帳は無事だった。水はない。食料もない。
喉が渇いていた。唇がひび割れ始めている。立ち上がると、左足首にも鈍い痛みがあった。引きずるようにしか歩けない。
それでも、レンは歩き始めた。
どこへ向かうというあてがあったわけではない。ただ、この乾いた土の上で座り込んでいれば、半日もせずに干からびる。それだけはわかった。
太陽が容赦なく頭上から照りつける。汗はすぐに蒸発し、肌に白い塩の跡を残した。一歩ごとに左足首が鋭く抗議する。砂塵が目に入り、涙が出た。その涙すら惜しいと思うほどに、喉の渇きは切実だった。
風が止んだ。
一瞬の静寂のなかで、レンの耳がかすかな音を拾った。水の音ではない。金属が石を叩くような、硬く、短い音。鍬の音だ。
丘を越えたとき、眼下に小さな集落が見えた。
崩れかけた石壁の家が七つか八つ。その間を繋ぐ細い道は土がむき出しで、雑草すら満足に生えていない。集落の端に、干上がった井戸の石組みが見える。そしてその向こうに、黄土色の畑が広がっていた。いや、畑と呼ぶのもためらわれる荒れ地だった。
その荒れ地の隅で、腰の曲がった老人がひとり、鍬を振り下ろしていた。一振りごとに、乾いた土が粉のように舞い上がる。水気のない土を耕したところで、何が育つというのか。それでも老人の鍬は、ゆっくりと、しかし止まることなく、同じ速さで大地を叩いていた。
レンは立ち尽くしたまま、しばらくその光景を見つめていた。
老人の背中は痩せ細り、日に焼けた肌は革のように乾いていた。振り上げる鍬の軌道は正確で、無駄がない。何十年もこの土地と向き合ってきた者の動きだった。だが、その足元の土を見れば結果は明らかだった。努力が報われる類の土地ではない。
足元の土を、無意識に踏みしめる。靴底を通して伝わる感触は、硬く、乾き、痩せ果てている。宮廷農学士としての十年の経験が、この土地に対する診断を即座に弾き出す。表土の有機質はほぼ枯渇。保水力は極めて低い。このままでは、何を植えても枯れるだけだ。
——だが。
レンの視線が、ふと地面に吸い寄せられた。
赤茶けた土の表面に、淡い色のしみのようなものが見えた。いや、見えたのではない。感じたのだ。足の裏を通して、地中の奥深くから、何かがかすかに脈打っているような——
まるで、土が呼吸をしているかのような。
レンは片膝をつき、右手で地面の土をひとつかみ掬い上げた。乾いた粒が指の間からこぼれ落ちる。その瞬間、指先にちりっとした感覚が走った。静電気に似ているが、違う。もっと深い。もっと温かい。まるで種子が発芽する瞬間の力——殻を破り、根を伸ばし、光に向かって押し上げる、あの静かで圧倒的な力を、凝縮したような感覚だった。
掌の中の土が、ほのかに光って見えた気がした。
——気のせいか。
疲労と脱水が見せた幻かもしれない。レンは首を振り、ゆっくりと立ち上がった。集落に向かって、足を引きずりながら歩き出す。
だが、掌に残った感触だけは、いつまでも消えなかった。