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鑑定士レインの起源の眼

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の光が、壁板の隙間から細く差し込んだ。

 レインは目を開けた刹那、息を詰めた。

 視界全体が、文字で埋まっていた。

 木賃宿『古寝床』の雑魚部屋。銅貨三枚で土間の茣蓙一枚——昨晩、所属なしでも泊められる場所を探し歩いた末に辿り着いた先だ。五人並びの雑魚寝で、隣の男の鼾が鼓膜の奥を削っている。汗と獣脂と安酒の臭いが綯い交ぜになり、鼻の奥にこびりつく。壁の向こうの厩から、時折、馬の鼻息が漏れ聞こえた。

 だが、それどころではなかった。

 天井の梁——伐採年、八十四年前。樹種、黒檜。虫食い痕、三箇所。補強の鉄釘、鍛冶屋ウラドの工房製、流通年二百九十一年。

 壁の染み——水漏れではない。百年前、この建物がまだ小祠堂だったころに塗られた結界術式の残滓。主術者、神官ヴェナルド。第四位階・防魔結界。劣化率、九割八分。

 土間の茣蓙——昨秋の刈り入れ、北町の藁編み職人、娘の嫁入り支度のための内職——

「……っ」

 レインは口を押さえた。胃の奥から、酸いものがこみ上げる。喉の根で何度も飲み下す。歯列を噛み合わせ、舌の裏で息を殺した。

 昨夜からの情報の逆流。眠っている間だけ止まっていたが、瞼を開けた瞬間、全てが一斉に襲いかかってきた。耳の奥で、聞いたこともない職人の槌音や、祠堂で祈りを唱える神官の声が、幻のように重なって響く。

 ——焦点。絞れ。

 四拍で吸って、六拍で吐く。昨夜の井戸端で試した呼吸を繰り返す。胸が細かく痙攣する。肋の内側で心臓が跳ねている。

 指を一本だけ立て、視界の中央に置いた。

 指先——自分の指紋、皮脂、昨夜の井戸水の残り香。ここまではいい。ここから外へ意識が逸れた瞬間、再び洪水が始まる。

 レインは爪を掌に食い込ませ、上体を起こした。痛みが一点に集まる。その一点が、辛うじて自分を世界に繋ぎ止めていた。

 宿の主人は土間の入口で煙管をくわえていた。煙の一筋が、朝の逆光の中で細く揺れている。やに焼けた指の関節が、煙管の雁首をとんと叩いた。

「朝飯は別料金だ。銅貨二枚」

 主人は顔も上げずに言った。

「……いらない」

 喉から出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「水は中庭の井戸を使え。桶は一杯まで」

 レインは頷き、外套を掴んで外に出た。表通りに出る前に、壁際で一度しゃがみ込んだ。息が上がっている。歩くだけで、壁の木目、石畳の目地、通り過ぎる者の靴——全ての来歴が勝手に流れ込む。視界の縁から文字列が滲み出し、幾重にも折り重なって脳裏を叩く。

 ——このままでは、街を歩けない。

 レインは背嚢から壊れかけの鑑定眼鏡を取り出した。

 レンズには薄くひびが入っている。昨日、森で拭いたときのままだ。

 眼鏡を掛ける代わりに、両手でフレームを包んだ。

 瞬間、情報が噴き出した。

 製作者——鑑定工ミラル・ハグレン。工房、王都西区の裏通り。開業、四十七年前。独立前は父の下で修業。父の名、ハグレン・ヴォス。ミラルが十二の時、父は流行り病で死んだ——

 ——違う。止めろ。

 レインは呼吸を刻んだ。だが止まらない。堰を切られた水のように、他人の人生がレインの頭蓋へ流れ込む。

 ミラルは父の工房を継ぎ、借金を返しながら妻を娶った。妻の名、エレナ。エレナは三度流産した後、ようやく娘を産んだ。娘の名、サラ。サラは生まれつき右目が霞み、ミラルは娘のために、より精密な鑑定眼鏡を作ろうとした。『物の来歴を深く読む眼』——それが彼の晩年の執念だった。レンズの研磨砂、南の火山岩。フレームの銀、北の鉱山の含銀率八割二分。そしてこの一本は、ミラルが死ぬ三月前に仕上げた最後の三本のうちの一つ——

「——!」

 レインは眼鏡を放り投げそうになり、慌てて膝の上に降ろした。指先が痺れていた。他人の三十年分の時間が、掌の神経を焼いたようだった。

 頭痛が後頭部から眉間へ駆け抜ける。吐き気が戻ってくる。額に脂汗が滲み、外套の襟の内側が湿った。耳鳴りの奥で、会ったこともない娘の、細い声が一瞬だけ呼ぶ気がした。父さん、と。

 たった一本の鑑定眼鏡から、一人分の生涯が流れ込んだ。これを王都の往来で起こしたら、立っていられない。

 レインはフードを深く被り、目を閉じた。瞼の裏でも文字は走る。だが、視覚からの流入よりは軽い。

 ——絞る。絞れ。

 ガルドの下で三年間、鑑定眼鏡を通して一点だけを『見る』訓練をしてきた。対象の範囲を限定し、読みたい情報だけを抽出する。それが鑑定士の基礎だ。叱責の声と、研磨砂の粉塵と、工房の窓から差し込む斜陽——それらの記憶が、奇妙な落ち着きを連れてくる。手元の一点に視線を縫い止めろ、と何度叩き込まれただろう。その声が、追放された今になって、初めて味方のように響く。

 その訓練が、今、唯一の命綱だった。

 レインは膝の上の鑑定眼鏡を、もう一度掌に包んだ。

 今度は、フレームの銀の部分だけに意識を絞る。

 ——このフレームを構成する、銀そのものの来歴だけ。

 息を整える。四拍、六拍。指先の感覚を、銀の冷たさだけに集めていく。

 情報の流入が、細くなる。

 北の鉱山。含銀率八割二分。採掘年、三十九年前。そこで、ぴたりと止まった。

 鉱石として掘り出される以前の——鉱脈の生成、地殻の褶曲、億年単位の沈黙——そういった深みへは、意識が降りない。銀という物質の、人の手に渡ってからの短い帯だけが、掌の窪みにすっと収まっていた。指先を伝う金属の冷たさが、むしろ清らかに感じられる。喉の奥でつかえていた吐き気が、ゆっくりと引いていくのがわかった。

 製作者の生涯も、娘の名前も、入ってこない。

 レインは目を開けた。睫毛が湿っていた。自分でも気づかぬうちに、涙腺が緩んでいたらしい。

 ——できる。

 額の汗を拭う。指先が震えていた。だが、震えの意味が、さっきまでと違う。恐怖ではなく、確かめたことによる反動だった。

 次は、石畳の一枚だけ。壁の木目の一節だけ。通り過ぎる人の靴の、靴底の革だけ。

 範囲を指定する。対象を限定する。読み終えたら、別の対象へ移る。

 洪水ではなく、井戸から一杯ずつ汲む。

 そう捉え直した瞬間、視界の文字列が整理された。すべての対象が同時に主張するのではなく、レインが選んだ一点だけが前に出る。他は背景へ沈む。まるで騒がしい酒場で、一人の声だけを聴き取るように。

 ——『起源鑑定』も、鑑定だ。

 三年間で身につけた焦点の技術が、そのまま通用する。対象が広がっただけだ。ガルドの下で覚えた基礎が、皮肉にも追放されたこの朝に、命を繋いでいる。追放の夜、あの男の唾が頬を打った感触が、なぜか遠い昔のことのように思えた。

 レインは立ち上がった。

 膝は、まだ少し笑っていた。だが、歩けた。

 表通りに出る。朝の人波。馬車の蹄、露店の呼び声、焼きたての麦パンの匂い。その全てが来歴を持っている。だが、レインが意識を向けない限り、それらは背景のまま流れた。

 時折、焦点がずれる。目の前を横切った女の指輪——鍛造年、持ち主の変遷三回——がふっと浮かび上がる。だがすぐに、石畳に視線を落として遮断する。遮断した瞬間、空気の湿り気や、遠くで鳴る鐘の音が、代わりに鮮明になった。

 一歩進むごとに、制御が少しだけ深くなる。

 鑑定眼鏡は、もう要らない。

 レインはそれを背嚢の底にしまった。フレームの銀越しに、ミラル・ハグレンの娘の顔が一瞬だけちらついたが、それも静かに背景へ沈んだ。いつか、この眼鏡の持ち主に、「あなたの父はいい仕事をした」と告げられる日が来るだろうか——そんな埒もない考えが、泡のように浮かんで消えた。

 腹が鳴った。

 レインは懐を探った。銅貨四枚。昨夜の宿代を払った残りだ。金貨一枚は——両替屋で銀貨に崩したときに、案の定、偽装分を差し引かれた。『本位金不足』換算で、手元に残ったのは銀貨七枚と銅貨数枚。

 昼一食、夜一食、明日の朝一食。それで尽きる。

 ——働くしかない。

 冒険者ギルドの依頼板は、朝一番が早い者勝ちだ。所属なしのDランクに回ってくる仕事は、出物の底にしかない。薬草の仕分け、下水の汚染鑑定、あるいはコボルド退治の最低報酬枠。どれも、鑑定工房時代なら鼻で笑っていた仕事だ。だが今は、それすらありつけるか分からない。

 レインはギルドの方角へ足を向けた。

 外套のフードの下で、視界の端に、今日初めて自分の意思で『読んだ』銀貨の刻印が、まだ冷たく光っていた。

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