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鑑定士レインの起源の眼

第2話 第2話

第2話

第2話

裏路地の石畳は湿っていた。

夜露か、昼間の水撒きの残りか。レインは壁から背を離したまま、足を踏み出せずにいた。靴底から冷気が這い上がる。

「起源……」

声に出してみる。だが、意味は分からない。ノイズが見せた二文字——それだけが、先ほどから頭の中を回っている。

三年前にこの都市に来たときも、雨上がりの夜だった。鑑定士ギルドの試験に合格し、その足で冒険者ギルドを訪ねた。ガルドと出会ったのはその翌日だ。「鑑定士を探している」と声をかけられ、握手を交わした手の力強さを、まだ覚えている。剣だこの硬さ、指の節の太さ、掌の温度。その感触が、今になって妙に鮮明に甦る。

——あの握手が嘘だったのか、途中で腐ったのか。

どちらでもいい、と思った。どちらであれ、戻る場所はもう無い。

懐の金貨一枚が、歩くたびに太腿を打つ。今夜の宿代にすら満たない。馬小屋には戻れない。あの宿の主は、ガルドが金を払っていたから泊めていたのだ。所属なしのDランク鑑定士に、ベッドは用意されない。

視界の端で、文字が瞬いた。さっきよりも濃い。

『起』

一文字。

『起……源』

二文字。

追いかけると消える。追いかけないと、ゆっくり形になる。

レインは呼吸を整えた。鑑定を起動するときの要領を思い出す。焦点を絞る。力を抜く。対象を——自分自身に向ける?

ノイズが揺れた。だが、まだ像を結ばない。

路地の突き当たりに、赤い提灯が一つ灯っていた。看板には『宿屋・鉄蹄亭』。王都の底辺に近い安宿だ。レインは扉を押した。

扉の軋みに混じって、中から麦酒と煮込みの匂いが流れてきた。安酒の酸い香りと、脂の浮いた豆のスープ。空腹を自覚した胃が、音を立てて縮む。カウンターに近づくまでの数歩が、やたらと長く感じた。

「一泊、銅貨五枚。食事別」

カウンターの主人は、視線を上げずに言った。太い指が宿帳のページをめくる。めくる音が、紙というより板を剥がすように乾いている。

「……銅貨五枚は、ない。金貨を崩してもらえないか」

主人がようやく顔を上げた。レインの薄汚れた外套と、所属欄の削られた冒険者証を一瞥する。鼻から短く息が漏れた。笑ったのではない。値踏みを終えた合図だった。

「所属抹消か」

「見て分かるなら早い」

「抹消された奴には、貸さねえ」

主人の視線が冷えた。腰の後ろに吊ってある短棒に、無意識の手が触れている。レインはそれを視界の端で捉えた。脅しではなく、単なる習慣だ。ここでは毎晩、こういう客を追い返している。

「酒場で暴れられて、翌朝梁からぶら下がられたことが三回あった。所属なしはトラブルが多い。金貨は要らねえ。よその宿を当たれ」

扉を閉める音が、耳の奥に残った。

レインは路地に戻った。視界の端でノイズが増えている。さっき扉に触れた瞬間、一瞬だけ看板の木が見えた——檜、築二十二年、塗り直し三回、最後の塗料は南町の漆職人。

情報が勝手に流れ込んでくる。

触れたものが、歴史を語り始める。

鉄の臭いがした。

見上げると、隣の路地から馬車が通り過ぎるところだった。車輪の鉄輪が石畳を削って火花を散らす。その火花の一粒一粒から、鉄の来歴が滲む。南の鉱山、鍛冶屋の名、鋳造の年月——。

「……っ」

レインは壁に手をついた。膝が笑っている。

頭痛ではない。情報の重みだ。鑑定眼鏡を使わずに、裸眼で、触れるものすべてから履歴が流れ込んでくる。手のひらの下の壁石も、履いている革靴も、外套のボタンも、全てが『自分の物語』を語りかけてくる。ボタンは三年前、初給金で買い足した安物——縫い付けたのは宿の女将、糸は麻、針目は七つ。外套の裏地の破れは去年の洞穴遠征で引っかけた棘の跡。知りたくもない過去が、鼓膜を内側から叩く。

耳を塞いでも意味はない。眼を閉じても、文字は瞼の裏に焼き付く。

レインは外套のフードを深く被り、路地の奥へ走った。

走った先で、井戸の石囲いに手をついた。冷たい。だが、触れた瞬間、また情報が流れ込む——井戸は五十年前の竣工、石工は南町の——

「やめろ」

声が漏れた。

意識を集中する。鑑定眼鏡越しに一点を絞るときの感覚。三年間、毎日訓練してきた技術。焦点を、対象を、自分が『読みたい』と思った情報だけに。

息を吸う。吐く。吸う。吐く。四拍で吸って、六拍で吐く。ガルドのパーティに入って最初の週に叩き込まれた、戦闘前の呼吸法だ。皮肉なことに、それが今、情報の洪水を堰き止めるために役立っている。

情報の洪水が、少しだけ細くなった。

井戸石の履歴が遠ざかる。代わりに、自分の呼吸の音が戻ってくる。額の汗。胸の鼓動。靴の中の湿り気。

——制御できる。慣れれば。

レインは井戸から手を離し、深く息を吐いた。

路地の石畳の上、月の光が細く差している。その光の中に、文字が浮かび上がった。今度は、ノイズではない。紙に書かれたように、視界の中央に。

『起源鑑定(オリジン・サイト)』

『封印解除条件——所有者の帰属喪失』

『解除済』

三行。

レインは動けなかった。

起源鑑定。自分の知らない名前のスキル。所有者の帰属喪失——所属が無くなったこと。勇者パーティから追放され、冒険者証から所属欄が削られた、まさにその事実。

——封印が、解けた。

三年間、ガルドの下で『鑑定士(汎用)』だと思っていたものは、違う。この眼は、最初からこういう眼だったのだ。ただ、縛られていた。所属という鎖に。

笑いが込み上げた。声にはならなかった。胸の奥で、苦いものと熱いものが同時に噴き出して、喉の手前で混ざり合い、呼吸を詰まらせた。三年間、自分を『平凡』だと信じて磨いてきた技術。その前提が、今夜たった一枚の冒険者証と共に剥がれ落ちた。

『起源鑑定』の文字の下に、小さく追記が滲んだ。

『帰属が対象を縛る。縛りが解けたとき、眼は開く』

脳の奥で、何かがほどけた。

さっきから流入し続けていた情報——壁石、靴、外套、井戸石——それらが一瞬だけ整理された。見たいものを見る。触れたものを読む。対象の来歴、作り手、用途、そして——『真の価値』。

レインは鑑定眼鏡を外した。

裸眼で、井戸の石囲いを見る。

見える。石の成り立ち、削り出された年、石工の手の癖、数十年の雨に洗われた経年変化。さらに焦点を深めると——この石が『いつまで』保つかという予測値まで滲み出す。

次に、自分の手を見た。

指の皮の厚み、掌の傷の由来、血流の速度、そして——右手の親指の付け根に、微細な裂傷が残っていた。三日前、グラントベアの毛皮を剥いでいる最中に滑らせた古傷。癒えかけているが、鑑定眼鏡では見落としていた。

裸眼の方が、深く見える。

レインは震える手で、懐から金貨一枚を取り出した。

月光の下でかざす。金の縁に光が反射した刹那、文字が走った。

焦点を絞る。

『王都造幣局発行・流通年三百十二年・純度八割七分・本位金不足による混ぜ物あり』

追放の夜に握らされた最後の報酬。その金貨の『偽りの重み』まで、この眼は見抜く。

本位金不足。つまり国家造幣の段階で既に偽装されている貨幣だ。ガルドはそれを知っていて握らせたのか、知らずに市場で受け取ったのか——どちらにせよ、三年分の餞別が本来の八割七分しかないという事実だけが、掌の上で冷えていた。

レインは金貨を握りしめた。爪が掌に食い込む。

——ガルドは知らない。俺がどうなるのか。俺の眼が、何を映すのか。

怒りは、もう遅い。

井戸の石に手をついたまま、レインはゆっくり立ち上がった。膝は、もう笑っていない。

だが、制御は一瞬だけだった。

視界の端で、新しい文字が次々と滲み始めていた。壁の染み、空の星、遠くで鳴く野犬の遠吠え——そのすべてが来歴を主張する。

『閲覧対象多数・優先順位未設定・意識負荷上昇』

頭の奥で何かがきしんだ。焦点を絞ろうとしても、対象が多すぎる。路地の壁一枚分の情報でも、一晩分の分量がある。

耳鳴りに似た高い音が、後頭部で鳴り始めた。視界の端で明滅する文字列は、もはや単語ではなく細かな粒子となって、瞬きのたびに網膜に擦り込まれる。手の甲に汗が浮き、それすらも『体液、塩分濃度、疲労度七割』と注釈がついて消えた。

——まだ、早い。制御は、まだ。

レインは壁に手をつき、よろめきながら歩き出した。どこかで夜を明かせる場所を見つけなければならない。外套のフードをさらに深く被り、視覚を遮る。それでも文字は見える。瞼の裏に、闇の中に、呼吸のリズムに沿って浮かぶ。

今夜は長い。

レインは路地の奥へ足を踏み出した。靴底から伝わる石畳の履歴は、もう止められなかった。

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