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蝕癒の回復術師

第3話 第3話

第3話

第3話

雨は止まなかった。

リュートは門前広場を出て、裏通りへ入った。石畳は濡れて黒く光り、破れた外套の裾から泥水が跳ねる。麻のシャツは肩まで湿り、冷えが骨の奥に届いていた。路地の影にあったフードの少女は、もう見当たらない。気のせいだったのか、それとも街の雑踏に紛れたのか——考える余裕はなかった。

店先の軒下に寄り、懐の革袋を確かめる。金貨五枚。それで最安宿に六泊。装備なしで依頼は受けられない。宿代を削って装備を買えば、すぐに食う金が底を突く。どちらを選んでも詰み手だった。

露店通りの端で、看板に目が止まった。『武具貸与・サード』。正規の商会ではない。装備を失った冒険者や夜逃げ前の破産者に、傷物の武具を日割りで貸す裏商売だ。冒険者になりたての頃に一度だけ噂で聞いた名前——今日、その名前を思い出すとは思っていなかった。

扉を押す。金具が軋んだ。店内は薄暗く、黴と油の匂いがした。奥の机で痩せた男が帳面を繰っている。男は顔を上げずに言った。

「何が要る」

「杖と、薬草を少し。日割りで」

「いくら出せる」

「銅貨三十」

男の指が止まった。金貨五枚のうち三枚を崩すつもりだった。三日分の宿代に相当する。男は顔を上げ、落ち窪んだ目でリュートを一瞥した。その視線には同情も軽蔑もなく、ただ「値踏み」の色だけがあった。何度も見てきた目だ——落ちた人間に金を貸す時の、商人の目。

「安物の樫の杖、欠けた回復薬三本。三日で返せ。遅れたら利息が倍になる」

交渉の余地はない。リュートは頷いた。革袋の紐を解く指先が、濡れて冷えていて、思うように動かなかった。

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杖は細く、魔導回路の刻印が擦り切れていた。握った瞬間、魔力の通りが悪いのが分かる。これまで使っていた装備の三分の一しか伝わらない。握り口には前の持ち主の手脂が染みついて、革を巻いた部分が黒く変色していた。それでも、ないよりはましだった。

門の外の低ランクダンジョン——通称『鼠洞』。Eランクの依頼がいくつも貼り出されている小規模な洞窟で、初心者冒険者が実戦経験を積む場所だ。回復術師が単独で入るような場所ではないが、贅沢は言えない。入り口の掲示板を確認する。『大鼠三体討伐、銅貨二十』『毒蜘蛛一体討伐、銅貨十五』『三層の迷子黒鼠捕獲、銅貨三十』。これらを一日で片付ければ、宿代の足しにはなる。

洞窟に入る。天井は低く、壁に刺さった備え付けの松明が岩肌を照らしていた。リュートは杖を前に構え、ゆっくりと進んだ。三年間、前衛の背中を見て歩いてきた。自分の前を歩く背中がないのは、妙な居心地の悪さがあった。視界の端に何もない。足音が自分の分しか響かない。呼吸が浅くなる。

かつてならば、剣を担いだガルドの広い背が正面にあり、右斜め後ろで斥候のシアが気配を探り、最後尾で弓のミリアが矢筒を鳴らしていたはずだった。その隊列の「三番目」——守られる位置——だけが、リュートの知っている場所だった。今、前後左右のどこにも、味方の輪郭はない。岩肌の湿り気が、無防備な背中にじかに触れる気がした。

一層目。大鼠の巣を見つけた。三匹。身を低くして岩陰に寄り、一匹ずつ距離を詰める。杖を振り下ろす。頭蓋が砕ける感触が、腕の骨を伝って肩まで届いた。二匹目、三匹目。思ったより楽に片付いた——が、三匹目の爪が左の二の腕を裂いていた。

「……反応が、遅い」

自分に呆れながら、傷口に手を当てて回復魔法を流す。杖の通りが悪いせいで、魔力の消耗が通常の倍だった。閉じた傷を見て、先を急ぐ。鼠の耳を短剣で削ぎ取り、革袋に入れた。ギルドに戻せば、これで銅貨二十。血のついた耳が袋の中で冷えていく感触が、腰骨のあたりに伝わった。獲った、という実感も、殺した、という抵抗もなかった。ただ、銅貨二十、という数字だけが頭にあった。

毒蜘蛛は二層目にいた。糸で天井から降ってくるのを受け損ね、左脚を牙に刺された。毒の回りは遅い種だが、痺れが徐々に広がっていく。回復魔法で毒を押し戻し、解毒まで完了させる。魔力の残りが半分を切った。膝から下の感覚が完全に戻るまで、壁に背を預けて数十秒待った。その間、湿った岩肌を伝う水滴が襟首に落ち続け、濡れた布が皮膚に張り付く不快さだけが、意識を現実に繋ぎ止めていた。

帰るべきだ——頭では分かっている。けれど掲示板には、まだ『三層の迷子黒鼠捕獲、銅貨三十』が残っている。三層は難度が一段上がる。単独では推奨されない。だが銅貨三十は宿代の三日分だ。

——構わない。

その言葉を、今日何度口の中で転がしただろう。構わない、と言えば、迷いは消える。構わない、と言えば、疲労も痛みも、なくなる気がした。構わない、と繰り返すたび、自分の命の値段が、銅貨一枚ずつ安くなっていくような気がした。それでも、口は止まらなかった。

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三層への階段は狭く、湿っていた。足元に苔が生えている。滑らないように、杖で壁を支えながら降りた。

視界が揺れている。朝から何も食べていない。ギルドで羊皮紙を突きつけられた瞬間から、胃が何も受け付けなかった。飢えと疲労と毒の残滓が、判断を鈍らせているのが自分でも分かる。分かっていて、それでも足を止めなかった。

三層の通路は分岐していた。左は地図にある正規ルート。右は案内のない横穴。松明の煤が右の穴の壁にも付いている——誰かが通った痕跡だ。迷子の黒鼠が右に逃げたなら、追うべきだった。

右を選んだ。

五歩、進んだ。六歩目で、足元の石板が沈んだ。

——しまった。

認識するより先に、体が落ちていた。罠。石板式の落とし穴。三年前、新人時代に散々警戒したはずの初歩的なトラップを、疲労した今の自分は踏み抜いた。

落下は短かった。背中から叩きつけられ、左の脛が鈍い音を立てる。骨折。反射的に手を伸ばして患部を触った。皮膚の下で骨が斜めに折れている。口の中が鉄の味でいっぱいになった。唇を噛んだせいだ。

「ぐ……っ」

声を殺す。どこに落ちたのか分からない。鼠洞の地図には、この深さの空間は記載されていなかった。禁域層——ギルドが立入禁止にしている未踏の下層。そういう話は、昔聞いたことがあった。

暗い。松明は落下の衝撃で砕けた。借り物の杖の先に灯した微かな魔導光だけが、円形の床を照らしている。岩壁は濡れていて、遠くから水滴の落ちる音がした。空気が重い。嗅ぎ慣れない獣の匂いが、奥の方から漂ってくる。湿った毛皮と、饐えた血と、もっと古い——何年もの間、この闇の中でだけ熟成されたような——異質な腐臭だった。

折れた脛に手を当てた。回復魔法を流し込む。折れた骨が接合される感覚——しかし、一度では繋がりきらない。杖の通りが悪い。魔力の消耗が激しい。二度、三度と繰り返し、ようやく骨が元の位置に戻った。接合の瞬間、皮膚の内側で骨が擦れ合う鈍痛が走り、額に冷や汗が滲んだ。奥歯を噛みしめて耐える。パーティーの誰かのためなら、この痛みは何百回でも耐えられた。自分のためにこの痛みを引き受けるのは、初めてだった。

背中の擦過傷、頭の出血、右肘の脱臼。ひとつずつ、自分に回復をかけていく。息を止めて、一箇所ずつ。鉄鎖の盟約で仲間を癒していた手順を、今は自分の体で繰り返していた。

魔力の残量が、底を見せた。

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息が荒い。立ち上がろうとして、足がもつれた。再び膝をつく。冷たい石の床が、掌を通じて体温を奪っていく。

奥で、何かが動いた。

一つではない。複数の足音。硬い床を叩く爪の音が、暗闇の奥から近づいてくる。低い唸り。鼠洞の鼠ではない。もっと大きく、もっと重い。三層より下の、禁域層の住人。

杖の微光に、黄色い目が二対、三対、四対——浮かび上がった。

リュートは杖を構え直した。構えたところで、魔力はもう残っていない。回復魔法どころか、最低限の防護すら張れない。三年間、誰かの命を繋ぐためだけに使ってきた魔力の器が、今日初めて、自分のために空になろうとしていた。

——ああ。

ここで、死ぬのか。

不思議と、怖くはなかった。悔しさもない。ただひとつだけ、誰も看取らないことが、少しだけ寂しい気がした。仲間だった者たちの顔が、順に浮かんで消えた。ガルドの笑い声、シアの舌打ち、ミリアが髪を耳にかける仕草。その誰も、今この闇の中でリュートが死ぬことを、明日になっても知らないのだろう。知ったところで、たぶん、眉ひとつ動かさない。

足音がすぐそこまで来た。

その瞬間——体の奥で、何かが「反転」した。

胸の中心から、これまで感じたことのない熱が広がる。魔力の通り道が、逆向きに走り出す感覚。回復の光ではない、もっと暗い、もっと重いもの。指先が震える。黒い筋が、掌の中で脈打っていた。

リュートは、自分の手を見た。

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