第2話
第2話
窓枠を擦る風の音で、目が開いた。
毛布の端が頬にかかっている。粗い繊維が皮膚を刺した。寝返りを打つと、薄い寝具の下でベッドの藁が軋む。リュートは起き上がり、両手を開いた。指先に魔力の残滓が薄く光る。昨夜の二重詠唱の反動で、掌の中央がまだ痺れていた。
外はまだ白んでいない。薄明の時刻。鐘楼が四つ鳴って止まった。朝鐘まで一刻ある。
革鎧を着込み、杖を取る。三年間、毎日繰り返した動作だ。鎧の留め具は左から三番目が緩くなっている。革の匂いが鼻をついた。汗と薬草の油が染み込んだ匂い。この鎧は加入初月にガルドから支給されたものだった。支給と言っても、価格は三ヶ月分の取り分から天引きされている。
階段を降りる。二段目が軋む。宿の主人はまだ起きていない。
外に出ると、空気が冷たかった。石畳は夜露で濡れている。雲が低い。雨が近い、とリュートは思った。
ギルドへ向かう通りは、ほとんど人がいなかった。昇格審査は朝鐘二つ目——日の出直後。時間には余裕があった。
「遅れるな」
昨夜ガルドに言われた唯一の言葉が耳に残っている。それ以外の指示はない。ガルドが何を考えているのか、リュートにはもう読めなくなっていた。読めない、というより——読む必要がないと思われている。そういう距離感だった。
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ギルドの石扉は既に開かれていた。
再編成審査は朝鐘二つで一斉に行われる。Bランク昇格を控えた四パーティが、別々の卓に分かれて座っていた。奥の壁、等級章の下で、審査官が木札と羊皮紙を広げている。ペン先が羊皮紙を擦る音が、天井の梁に反響した。
ガルドが先に到着していた。セルジュとグレンも揃っている。三人はひとつの長椅子に並んで座り、リュートの席だけが一つ離れていた。いつも通りだ。
「鉄鎖の盟約、四名。記録を確認する」
審査官は肥えた男で、声は乾いていた。感情のない声。リュートはそれを好ましく感じた。
「剣士ガルド、戦力値七十二。前衛セルジュ、六十八。前衛グレン、六十五。——回復術師リュート」
ペンが止まった。
「……戦闘員ではないな」
「回復術師です」
リュートは短く答えた。
審査官は羊皮紙を数枚めくる。指の腹が紙を滑る音が、やけに大きく聞こえる。
「規約第四条。Bランク昇格審査における戦力値算出は、戦闘行為を基準とする。回復補助は非戦闘員区分。戦力値ゼロと算定する」
ガルドが横で頷く気配があった。横目で見ると、顎をわずかに引き、満足げに口の端を歪めている。予想していた反応だ。予想していた——だからこそ、胃の奥が冷たく沈んだ。
「……ゼロ、ですか」
「規約通りだ。異議申立ては可能だが、前例はない」
セルジュが目を伏せた。グレンは腕を組んで天井を見ている。誰も、何も言わない。
リュートは掌を机の下で握った。爪が食い込む。昨夜痺れていた場所が鈍く痛んだ。昨日の討伐で、グレイプニル・ボアの牙はグレンの肋骨を砕いた。その骨を、この手が繋ぎ直した。セルジュの腹を裂いた傷口も、この手が閉じた。戦力値ゼロ。それが規約の答えだった。
「審査結果を伝える。鉄鎖の盟約、総合戦力値二百五。Bランク昇格基準は二百——到達。昇格認定だ」
ガルドの顔に笑みが広がった。セルジュとグレンも一瞬遅れて笑う。リュートは笑わなかった。笑う理由が、見つからなかった。
「ただし」
審査官がペンを置く。
「Bランク以上のパーティは、戦力値ゼロの構成員を抱えることを推奨しない。ギルドとしての助言だ」
審査官はそれだけ言って、次の卓へ歩き去った。
ガルドがゆっくりと立ち上がった。大剣の鞘が椅子を擦る。リュートを見下ろす目は、昨夜と同じ——無関心の目。だが今朝はその奥にもうひとつ何かが混じっていた。決定、という名前の、温度のない確信だった。
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「——表へ出ろ、リュート」
ガルドの声は低かった。
受付の前。ギルドに入ったばかりの冒険者たちが、何事かと振り返る。掲示板の討伐依頼書が風で音を立てた。受付嬢のペンが止まる。
「話ならここでいい」
リュートが返すと、ガルドは懐から羊皮紙を取り出した。紐で括られている。蝋の封印が、すでに半分剥がれていた。昨夜のうちに用意されていたものだ。
「除名証書だ」
羊皮紙が机に置かれる。乾いた音。
「三年間、ご苦労だった。今日付けでお前はパーティから外れる。理由は——今聞いたろ。戦力値ゼロだ。Bランクパーティに、ゼロはいらねえ」
リュートは羊皮紙を見た。見慣れた筆跡。ガルドの字は右上がりで、最後の一画を強く跳ねる癖がある。「除名」の二文字が、その跳ねで終わっていた。
「ついでに言っとく。お前が持ってる装備——鎧、杖、予備の薬草、魔術書。全部パーティ資産だ。置いていけ」
「この鎧は、俺の取り分から天引きで買った——」
「三ヶ月分の天引きで、三年使った。十分元は取ったろ」
ガルドは羊皮紙の封蝋を指で弾いた。蝋の欠片が机に散る。
「杖はパーティの備品棚から出した。魔術書も共同図書だ。薬草はパーティの採取クエストで集めた分の余り。どれもお前の私物じゃない」
「……三年前、俺が持ち込んだ魔術書もある」
「どれだ」
「『古典回復術式 第二巻』」
「知らねえな。セルジュ、覚えてるか」
セルジュが顔を上げた。一瞬、目が泳ぐ。唇が動きかけて——止まった。
「……覚えて、ない」
短い答え。視線は卓の木目に戻った。リュートはそれを責める気にならなかった。責めて何が変わる。変わらないものは、もう決まっている。
グレンは初めから何も言っていなかった。腕を組んだまま、ガルドの斜め後ろに立っている。昨日肋骨を砕かれた男の顔には、今朝の陽が差していた。
受付嬢がペンを置いた。小声で審査官を呼びに行く気配がある。リュートは首を振った。大丈夫だ、という意味の仕草だった。誰に向けたのかは、自分でも分からなかった。
「分かった」
リュートは鎧の留め具を外し始めた。
左から三番目の緩い留め具。右肩の紐。腰の帯。三年間で馴染んだ金具が、ひとつずつ外れていく。外す指先が震えているのを、見られないように机の陰で手を動かした。鎧を机に置く。杖を添える。懐の魔術書——『古典回復術式 第二巻』も、結局渡した。争う気力も、争う言葉も、残っていなかった。
残ったのは麻のシャツと、粗い革ズボン、破れかけた外套。腰の革袋に昨夜の金貨五枚。それだけだった。
「それじゃあな、リュート」
ガルドは羊皮紙を巻き直し、懐に戻した。セルジュもグレンも、立ち上がらなかった。
ギルドを出るリュートの背中に、受付嬢の視線が刺さった。同情ではない。哀れみでもない。ただ、見ている。記録している。ギルドの職員としての仕事だった。
扉が閉まる音。
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外は、雨が降り始めていた。
細かい雨。石畳を黒く染める程度の霧雨だが、麻のシャツはすぐに湿る。首筋から背中へ、冷たい筋が走った。外套を引き寄せても、破れ目から水が入り込む。
門前広場には人がいない。朝鐘三つ目がまだ鳴らない時刻。雨に追われて、冒険者たちは軒下へ逃げ込んでいた。
リュートは広場の中央で立ち止まった。行く当てがなかった。
宿の金は払ってある——今日の昼までは。その後は、五枚の金貨でどうにかするしかない。五枚。この街の最安宿で六泊分。依頼を受ければ食い繋げるが、装備がない。杖のない回復術師を雇うパーティはいない。
雨粒が睫毛にかかる。瞬きで落とす。
——構わない。
そう思おうとした。ガルドの声が蘇る。『薬草でも足りた』。構わない、と繰り返す。三年分の装備も、三歩後ろの定位置も、全部置いてきた。軽い。手も、肩も、軽い。軽すぎて、ただ寒かった。
広場の向かい、路地の影で、誰かが動いた気がした。
フードを被った小柄な影。雨の粒子の向こうで、こちらを見ている。目だけが覗いていた。
リュートはそちらを見返した。影は動かない。
足を一歩、前に出す。行く先は決まっていなかった。だが、止まれば倒れる。それだけは分かっていた。
雨が、強くなっていく。