第1話
第1話
血が、止まらない。
リュートは両手を前衛の腹に押し当て、回復魔法を流し込んだ。切り裂かれた筋繊維が編み直され、破れた血管が繋がっていく。魔力が指先から抜けていく感覚——三年間で何百回と繰り返した、命を紡ぐ作業だ。
掌の下でセルジュの腹筋が痙攣している。体温が低い。出血量が多すぎる。回復魔法は傷を塞ぐことはできても、失われた血液までは戻せない。時間との勝負だった。額から落ちた汗がセルジュの鎧を叩き、鉄の匂いと混じって鼻腔を刺す。洞窟の空気は湿っていて、血の臭いがいつまでも散らなかった。
「リュート、左も!」
叫び声に振り向けば、もう一人の前衛グレンが盾ごと吹き飛ばされていた。石壁に叩きつけられたグレンの口から赤い飛沫が散る。肋骨をやられている——離れた位置からでも、砕けた骨が肺を圧迫する嫌な音が聞こえた。A級魔獣グレイプニル・ボア。六本の牙を持つ巨大猪が、洞窟の壁を砕きながら突進してくる。岩が割れる轟音が胸の奥まで震わせ、足元の地面が跳ねた。獣の呼気が熱い霧のように洞窟を満たす。腐肉を思わせる悪臭が喉の奥にへばりついた。
迷う暇はなかった。右手は倒れたセルジュの傷口に当てたまま、左手をグレンに向けて遠隔回復を発動する。二重詠唱。魔力の消耗は倍以上になるが、どちらかの手を離せば人が死ぬ。
左手から放たれた回復の光がグレンを包む。同時に、右手の回復魔法の精度が落ちるのを感じた。意識を二つに裂く感覚は、頭蓋の内側を鑿で削られるようだった。こめかみの血管が脈打ち、奥歯を噛み締めすぎて歯茎から血の味がする。それでも手は止めない。止めたら死ぬのは自分ではなく、目の前の二人だ。
「ガルド、今だ!」
リュートの声に、リーダーのガルドが大剣を振りかぶった。回復で立て直したセルジュが盾を構え、グレンが横から斬りつける。三人の連携が噛み合い、魔獣の首に大剣が叩き込まれた。
洞窟に静寂が戻る。
リュートは膝をついた。魔力の残量が底を見せている。二重詠唱を戦闘中に維持したのは初めてだった。視界が揺れる。指先の感覚が薄い。冷たい洞窟の地面が膝を通じて体温を奪っていくのに、身体の芯だけが焼けるように熱かった。魔力の枯渇が近いときの症状だ。吐き気を堪えて息を整える。誰も、こちらを見ていなかった。
「よっしゃ、討伐完了! ガルドさんの一撃、最高でしたね!」
グレンが拳を突き上げる。つい数分前まで肋骨が砕けていた男とは思えない笑顔だった。セルジュも大剣の血を拭いながら頷いた。腹を裂かれていた痕跡は、リュートの回復魔法によって薄い線が残るだけになっている。
「ああ。Aランク依頼にしちゃ手こずったが、まあ問題ねえだろ」
ガルドが鼻を鳴らす。
リュートは黙って立ち上がった。礼はない。いつものことだ。回復魔法は空気のようなもので、あって当然、なくても気づかない——少なくとも、このパーティではそういう扱いだった。
帰り道、リュートは三歩後ろを歩いた。前を行く三人の背中は広く、楽しそうに戦闘の話をしている。自分の名前は一度も出なかった。
松明の灯りに照らされた三つの影が洞窟の壁に大きく揺れている。リュートの影だけが、少し離れた場所で小さく揺れていた。それが正確な力関係の縮図だと、もう気づかないふりはできなかった。
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ギルドの報酬配分会議は、酒場の奥の個室で行われる。
テーブルの上に金貨の山が積まれた。A級魔獣グレイプニル・ボアの討伐報酬、金貨八十枚。四人パーティなら一人二十枚が相場だ。
ガルドが金貨を数え、三つの山に分けた。
三つ。
「……ガルド、俺の分は」
「ここだ」
ガルドが顎で示したのは、テーブルの端に置かれた金貨五枚だった。
「五枚? 新人ソロの日当と変わらないだろ」
「お前、今日モンスターを何体倒した?」
「……ゼロだ。だが——」
「だろ。戦果ゼロ、報酬は最低保証。パーティの規約通りだ」
ガルドの視線には、侮蔑でも悪意でもない、もっと厄介なもの——無関心が貼り付いていた。リュートという存在がそもそも視界に入っていない。そういう目だ。
「俺が二重詠唱で回復しなければ、セルジュとグレンは——」
「薬草でも足りた」
短い沈黙が落ちた。
テーブルの上のランプの炎が揺れた。壁に張られた安い羊皮紙の依頼書が風で音を立てる。酒場の喧騒が薄い壁越しに聞こえていた。笑い声、杯を合わせる音、誰かの武勇伝。この壁の向こうでは冒険者たちが仲間と酒を酌み交わしている。同じ場所にいるはずなのに、まるで別の世界だった。
セルジュが目を逸らした。グレンは金貨を数えている。二人とも、リュートの回復がなければ今頃は冷たい石の上に横たわっていたはずだ。それを分かっていて、黙っている。
セルジュの目が一瞬だけリュートに向いた。何か言いかけたように唇が動いたが、ガルドの視線に気づいて口を閉じる。その動作を、リュートは見逃さなかった。分かっている。セルジュは悪い人間ではない。グレンも同じだ。ただ、声を上げるだけの勇気が——あるいは、声を上げるだけの理由が、彼らにはなかった。回復役一人の取り分のために、リーダーと揉めるリスクを取る必要がない。合理的な判断だ。合理的で、だからこそ、どうしようもなく残酷だった。
分かっていて、黙る。三年間ずっとそうだった。
「……了解した」
リュートは金貨五枚を懐に入れ、席を立った。金貨が革の袋の中で乾いた音を立てた。軽い。三年分の仕事にしては、あまりにも軽い音だった。
「おい、まだ話は——」
「明日のBランク昇格審査の打ち合わせだろ。俺は非戦闘員だから関係ない。そうだよな、ガルド」
扉を閉める音だけが返事だった。
外に出ると、夜風が火照った頬を冷ました。石畳の通りを冒険者たちが行き交う。笑い声、剣の手入れをする音、酒場から漏れる灯り。この街で三年間過ごした。三年間、誰かの血を止め続けた。
金貨五枚。それが三年の値札だ。
足が勝手に宿へ向かう。冒険者通りから二本裏に入った、壁の薄い安宿。パーティの共同宿舎ではない。リュートだけが別の宿を使っていた。「回復役に個室は贅沢だ」とガルドが言ったのは、加入三ヶ月目のことだった。以来、ずっとここだ。
一泊銅貨三枚の最安個室。窓は小さく、隙間風が吹き込む。ベッドは硬く、毛布は薄い。だが一人になれる場所はここしかない。
宿の階段は軋む。二階の角部屋。鍵は錆びていて、毎回引っかかる。開けた瞬間、埃とかび臭い空気が鼻を突いた。窓から差し込む月明かりだけが、狭い部屋の輪郭を浮かび上がらせている。壁に掛けた予備の杖、棚の上の薬草の束、机の端に重ねた魔術書。三年分の持ち物はそれだけだった。冒険者としての蓄えは、この部屋と同じくらい痩せている。
リュートは革鎧を脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。
両手を見る。回復魔法を使い続けた手だ。指先には魔力の流れた痕が薄く光っている。この手で何人の命を繋いだか、数えたことはない。数えても意味がないと思っていた。
手を握り、開く。握り、開く。光の筋が脈動するように明滅した。この手は剣を握るには細すぎる。盾を支えるには弱すぎる。けれど、命を繋ぐことだけはできた。それだけが、自分がパーティにいる理由だった——はずだ。薬草でも足りると言われたら、その「はず」すら崩れる。
「……俺は、本当に不要なのか」
声に出してみると、思ったより軽い響きだった。
三年間、一度も言われなかった言葉がある。「ありがとう」でも「助かった」でもいい。たった一言でよかった。その一言があれば、金貨五枚でも、最安個室でも、三歩後ろの定位置でも、全部我慢できた。
でも、なかった。一度も。
魔力の回復に意識を集中する。明日はBランク昇格の再編成審査だ。パーティの戦力値が算出される。回復術師がどう評価されるのか——嫌な予感はあった。ずっとあった。
目を閉じる。暗闇の中で、ガルドの声が反響した。
『お前がいなくても薬草で足りる』
——本当にそうか。
明日、それが証明される。良くも悪くも。
リュートは毛布を引き上げた。隙間風が首筋を撫でる。この部屋で過ごす夜が、あと何回あるのか。
まだ、知らない。
明日の審査が——Aランクパーティ「鉄鎖の盟約」と、回復術師リュートの、すべてを変えることになる。