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宮廷を辞めた錬金術師、辺境工房で薬を練る

第3話 第3話

第3話

第3話

「変な匂いがする」

 ハルトは柄杓を握ったまま、柵の上の小さな手を見ていた。

「薬草の煮出しだ」

 答えてから、自分でも少し意外だった。十二年のあいだ、工房の扉越しに返してきた言葉は「納期は明後日までに」や「材料は手配済みです」で、こんな短い返事を、まして子どもに向けて返すことは一度もなかった。

 少女は鼻をふたたびひくりと動かし、柵の横木から身を乗り出すようにして首を伸ばした。

「くすりの匂いじゃないよ」

「煮出し始めたばかりだからな。薬というほどのものでもない」

「ふうん」

 少女は納得したのか、していないのか、柵の横木にあごを乗せた。赤い鼻の頭がいっそう近づいてくる。毛羽立った外套の襟元から、細い首筋が覗いていた。冷たい朝の空気に晒されて、薄赤い斑ができている。

「おじさん、昨日来た人?」

「昨日の昼にな」

「ここ、誰もいなかったんだよ。ずっと」

「そうだろうな」

「ばばさまが言ってた。前の薬師さんは、三年前の冬に死んじゃったんだって」

 ハルトは柄杓を傍に置き、竈から少し身を引いた。少女の言葉の軽さに比して、三年という時間は重かった。石組みに手をあてると、温まった石が指の先にわずかな熱をくれる。三年——無人の工房を、この竈だけが最後まで守っていたのだと思った。

「ばばさま」——と少女は言った。その呼び方が柵の向こうで繰り返されるたび、ハルトは自分が誰かの祖母を持ったことがない、ということを唐突に思い出していた。

「ばばさま、咳き込むのか」

「朝から、ごほごほ」

 少女は小さな拳を口にあてて、大げさに咳の真似をしてみせた。

「昨日の晩もね、眠れなかったんだって。おっかさんが心配してる」

「近いのか、家は」

「あっちの坂の下」

 少女が指差した先、柵を越えた牧草地の向こうに、煙突から細い煙を立てている低い屋根が見えた。歩いてほんの数分の道のりだろう。ハルトは鍋の中で色を深めつつあるヨモギとカキドオシの湯を、しばらく見ていた。この煮出しでは、咳にはたいして効かない。喉のいがらっぽさを宥めるなら、もう少し別の処方が要る。

 宮廷では、咳止めの本薬を作るときに、どうしても端材が出た。第一抽出で使い切れなかった甘草の残り、蒸留後の乳香の滓、削り残したシナモンの屑——それらを集めて煉り上げる、帳面に載らない「端材の飴」があった。兵站の端役の老兵たちが、冬になるとこっそり欲しがった、あれだ。

「名前は」

「ミリィ」

「ハルトだ。俺は」

「ハルトさん」

 少女——ミリィは、はじめて会ったばかりの男の名前をそのまま口にして、それから少し首をかしげた。

「ばばさまにも言っていい?」

「言ってもいい。ただ——少し、時間をくれるか。昼前には届ける」

「なに届けるの」

「咳に効く飴だ」

 ミリィは柵の向こうで目を丸くした。

「飴?」

「まあ、飴のようなものだ。舐めれば、喉が楽になる」

 ミリィはしばらく考え込むような顔をして、やがて柵の横木からぱっと手を離した。外套の裾を翻し、坂道の方へ駆けていく後ろ姿を、ハルトは割れた窓越しに見ていた。冷たい朝の空気に、小さな足音が遠ざかっていく。柵の横木には、わずかに薄赤い手の跡が残っていた。光が強くなるにつれて、やがてそれも乾いて消えていくだろう。

 ハルトは鍋に蓋をし、火を細めた。それから、木箱を作業台に引き寄せた。

 箱の底には、処方帳のほかに、小さな油紙の包みがいくつか残っていた。宮廷を出るときに、あの調合室の隅の端材棚から、誰にも咎められずに持ち出せたものだけだ。甘草の削り屑、シナモンの薄片、乳香の乾いた粒、蜂蜜蝋の欠片。兵站局の帳簿では、これらはすべて「廃棄待ち」の印が付いていた。実際には、月に一度、下働きの少年が屑籠ごと中庭の焼却炉に運んでいた。

 端材の飴の作り方は、処方帳のどこにも書いていない。そもそもあの帳面に、自分の手で書き込んだものは一行もないのだった。上官の名で報告された改良処方も、効率化の手順も、みな頭の中にだけ残っている。この飴の練り方も、兵站病棟で隣に座った老兵のひとりが、喉を押さえながら教えてくれた、口伝のようなものだった。

 銅の小鍋を出した。先ほどまで湯を沸かしていたのより一回り小さい、歪みのあるものだ。底を井戸水で洗い、布で拭いて竈の横に据える。甘草の屑を乳鉢に入れ、乳棒で軽く潰した。木質の中から、甘く、ほろ苦い匂いが立ち昇る。兵士たちが「これを舐めると、朝の点呼まで咳が出ない」と口々に言った、あの匂いだ。

 蜂蜜蝋を小鍋に落とし、弱火でゆっくり溶かす。竈の焔を、薪の奥に少し押し込んだ。強火では蝋の香りが飛ぶ——これも、処方帳ではなく、ただ手のひらが覚えていることだった。蝋が透明な琥珀色に溶け始めた頃合いで、潰した甘草を少量ずつ落としていく。匙の背で混ぜると、鍋の底から青いような甘いような香りが立ち昇った。ヨモギの鍋とはちがう、もっと濃くて、もっと古い匂い。

 シナモンの薄片を、指先で薄く割り入れる。乳香の粒は、ほんの数粒。多ければ舌がしびれ、少なければ効かない。こういう匙加減が、十二年のあいだに手のひらに刻まれていた。上官は「錬金術師ハルトは量産向きだ」と書類に記していたが、実のところ、彼の手がいちばん繊細に動くのは、こうした端材を拾い上げるときだった。

 銅鍋の中で、色はゆっくりと深い飴色へ変わっていく。湯気に、薪の煙と、甘草の甘さと、乳香の奥行きが混ざり合う。ハルトは匙で少しすくい、石の天板の上に一滴落としてみた。冷えていくあいだに、飴は透き通った琥珀から曇った琥珀へ変わり、爪の先で触れるとかすかに固まり始める。ちょうどいい粘りだった。

 鍋を火から下ろし、板に油を薄く引いた。飴を一匙ずつ、小指の先ほどの大きさで落としていく。ひとつ、ふたつ、みっつ——数えながら、ハルトは奇妙な気分になった。これを十個、二十個と並べても、誰にも報告する必要がない。上官の名前で功績簿に載ることもない。ただ、坂の下のばばさまと、ミリィの家族のために、ここに並んでいる。それだけのことだった。

 飴が冷めて固まるのを待つあいだ、もう一つの鍋でヨモギとカキドオシの煮出しをさらに煮詰め、小瓶に移した。こちらは喉の炎症をやわらげる補助の湯だ。飴と一緒に、湯に溶かして飲むように伝えればいい。木箱の底から清潔な麻布を出し、飴を一粒ずつ包んだ。手の動きが宮廷で百人隊分の薬包を作ったときと同じ速さになりかけて、ハルトは途中で一度、指を止めた。

「——そう急ぐものでもないか」

 声は誰にも届かない。ひとりごとが工房の埃の中に溶けていく。指を止めたぶんだけ、麻布のしわが丁寧に伸びた。

 十粒の飴を麻布に包み、小瓶と一緒に外套の内側に入れる。扉を押すと、蝶番はまた錆びた音を立てた。今度は、朝よりも少しだけ軽く聞こえた気がした。

 坂道を下ると、麦畑の向こうから朝餉の匂いが流れてきた。煙と、麦と、なにか獣脂らしいものの香り。王都の朝は、石畳と馬糞の匂いから始まる。ここの匂いは、もっと生きものの気配に近かった。

 ミリィの家は、屋根の低い石積みの家だった。煙突の下に紅色の実をつけた低木があり、その横に小さな家畜小屋がある。戸口には羊毛の敷物が一枚、昨夜の湿り気を残したまま干されていた。戸を叩く前に、家の中から乾いた、長く尾を引くような咳が響いた。ミリィが言ったとおり、朝からそれを続けている様子だった。

「——ごめんください」

 戸が内側から開き、ミリィが駆け出てきた。後ろから、髪を首の後ろで結った中年の女が顔を出す。エプロンの裾で手を拭きながら、怪訝そうな目をハルトに向けた。

「ミリィから、工房の方だと」

「昨日、あちらに入りました。ハルトと申します」

「……ああ、そうかね」

 女の眉が一度だけ、困ったように上がる。それから、ハルトの外套の端から覗く麻布の包みに目を移した。

「それ、持ってきてくれたの?」

「お婆さまに。少しだけですが」

 奥の部屋から、また咳が聞こえた。女は小さく頷いて、ハルトを家の中へ招いた。

 板敷きの小さな居間に、暖炉の火が細く灯っていた。その横に、毛布にくるまれた老婆がひとり、背をやや丸めて座っていた。白髪をきつく束ね、喉のあたりをさすっている。ハルトが入ってきたのを見て、老婆は眉をわずかに動かした。

「坊や、よう来たね」

 坊や——と呼ばれたのは、随分と久しぶりだった。宮廷の上官は彼を「錬金術師ハルト」とは一度も呼ばず、ただ「第七の」と略していた。

 ハルトは外套から麻布を取り出し、老婆の前に膝をついた。

「舐めていただければ、少し喉が楽になります。甘草と蜂蜜蝋を練ったものです。苦味がありますが、一粒ずつで結構です」

「ずいぶん、手間をかけてもろうて」

「手間というほどのものでは」

 老婆は麻布の包みをそっと押し開き、琥珀色の飴を一粒、指先でつまみ上げた。暖炉の光で、飴の表面がわずかに艶を返す。唇に当て、ゆっくりと舌の上に転がすのを、ハルトは見ていた。老婆の喉が、小さく動いた。しばらくして、老婆は静かに息を吐き、毛布の中でハルトの方に顔を向けた。皺の奥の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

「——ありがとうねえ」

 たった一言だった。特別に抑揚をつけたわけでも、長く引いたわけでもない。ただ老婆は「ありがとうねえ」と言って、もう一度小さく咳をし、それから毛布の襟で口元を拭った。

 ハルトは、その一言を、どう受け止めていいかわからなかった。十二年、宮廷で薬を練り続けて、上官の名で前線に送り出した千瓶、万瓶の回復薬。そのどれに対しても、ハルトが直接「ありがとう」と言われたことはなかった。功績簿にも、兵士からの文にも、彼の名が現れることはなかった。ありがとう、という言葉が、こんなにも質量を持って胸の真ん中に届くとは、知らなかった。

 膝の上に置いた自分の手を、ハルトは黙って見ていた。爪の際にこびりついた薬液の染みが、暖炉の光に照らされている。その染みが、急に、恥じるものではなくなった気がした。

 と、居間の奥から、ぱたぱたと足音がして、六つほどの男の子が走り出てきた。ミリィによく似た赤茶けた髪をしている。両手に、紙のような何かを抱えている。

「おじさん! これ!」

 差し出されたのは、ひと塊の干し芋だった。黄土色にひなびた表面に、甘い粉がうっすらと吹いている。男の子は鼻の下にひと筋、黒い土のようなものをつけたまま、歯を見せて笑った。

「ばばさまが、あげて、って」

 ハルトは両手で、それを受け取った。干し芋は、少年の手の温度を残して、奇妙なほどに温かかった。

 老婆の家を出ると、外はもう午前の光に変わっていた。霜は溶け、牧草地の草先が水滴を光らせている。麦畑の向こうで、誰かが鋤を引いている影が見えた。ハルトは干し芋を外套の内側にそっと抱え、坂道をゆっくりと登った。

 工房の戸を押すと、蝶番の音がやはり軋んだ。けれど、中に入って扉を閉めたとき、その軋みはもう、耳障りではなかった。竈の火はまだ細く残っていた。ハルトは焚き口に薪を一本くべ、椅子代わりの木箱に腰を下ろして、干し芋の端を指で割った。甘く、素朴な芋の香りが、薬草と蜂蜜蝋の残り香のうえに、もう一枚重なった。噛むと、繊維の間から、干された陽の味がした。

 その夜、ハルトは処方帳の新しい頁を開いた。羊皮紙の白い余白に、乾いた羽ペンの先で、一行だけ書き入れた。

『端材の喉飴——ばばさまに』

 名前のない処方がひとつ、はじめて誰かの顔と結びついた瞬間だった。

 翌朝、扉を叩く音で目を覚ました。外の光はまだ薄い。ハルトは外套を引き寄せて土間に下り、木戸を押し開いた。霜の降りた石段の上に、大柄な男がひとり立っていた。厚い毛皮の上着。腰に斧。左手で、右の前腕をきつく押さえている。指のあいだから、黒ずんだ赤が、ゆっくりと一滴、石段へ落ちた。

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