Novelis
← 目次

宮廷を辞めた錬金術師、辺境工房で薬を練る

第2話 第2話

第2話

第2話

工房に戻ると、床板の隙間から冷えた風が立ち昇っていた。ハルトはトウキの葉を作業台の端にそっと置き、先ほどまで眠っていた外套を畳んで壁際に寄せた。石の天板には朝の光が細く差している。埃の粒が光の筋の中で気怠そうに舞い、ゆっくりと床へ落ちていくのが見えた。

 竈の前にしゃがむ。煤で黒ずんだ石組みの間に指を差し込み、噛み合わせを確かめた。継ぎ目はしっかりしていた。前の主が、ここだけは丁寧に手入れしていたのだろう。灰落としの底には乾いた灰が厚く溜まっていて、小さな木炭の欠片がいくつか混じっている。ハルトは土間に散らばった木っ端を拾い、短く折って焚き口に並べた。

 火打石は木箱の底にあった。乳鉢や薬匙にまぎれて、ずっと持ち歩いていたもののひとつだ。指先で挟んで打つと、乾いた音が天井の梁に跳ね返った。三度目で火口が燻り、四度目で小さな赤が生まれた。息を吹きかけると、赤は木っ端に移り、やがて細い焔になった。煙が竈の奥へ吸い込まれ、煙突の方から、ふ、と応えるような気流が降りてくる。煙突も、まだ生きていた。

 焔が落ち着くのを待つあいだ、ハルトは息を整えた。薬液を焦がさないための息遣いは、十二年のうちに体に染みついている。ここには急き立てる者がいない。それでも体はいつもの速度で動こうとする。作業台の前に立つと、肩が勝手に下がって、腰の位置が定まる。長年の癖というものは、おかしなほど強情だった。

 湯を沸かすための鍋を探して、棚の方へ目を向けた。

 棚は三段あったが、上段は梁から吊り下げた筈の紐が切れ、ぐらりと斜めに傾いていた。触れると木屑がぱらりと落ちる。乗せてある薬瓶の大半は硝子が割れ、なかには澱んだ液体がこびりついたまま乾いた物もある。どれも中身の判別はつかない。下段に転がっていた銅の片手鍋だけは、取っ手の蔓が錆で曇ってはいたが、底に穴は空いていなかった。井戸で洗えば使えるだろう。

 ハルトは鍋を取り、次に蒸留器の残骸に目をやった。首が根元から折れ、ガラスの破片が作業台の片隅に掃き寄せられている。誰かが処分しようとして、途中で諦めたような寄せ方だった。フラスコは口が欠け、内側に蜘蛛の巣が張っている。宮廷ならば、明日には新品が届いた。ここでは、替えの当てもない。

 屋根を見上げた。梁と梁のあいだ、漆喰の剥がれた場所に小さく空が見えている。床板の一枚が黒く変色していた。壁際の土間には、わずかに水が引いた痕。雨漏りは一箇所だけではなさそうだ。冬の前に塞がねばならない——と考えて、ハルトは眉をわずかに寄せた。冬までいる気があるのか、自分でもまだわからないのに、手の方は勝手に修繕の段取りを組み始めている。

「……気の早いことだ」

 口の中で呟いて、鍋を持って裏口から外へ出た。

 工房の裏は一面の雑草だった。腰の高さの草が斜めに倒れ、そのあいだに踏み跡のような細い道が一本だけ残っている。前の主が通った道なのか、獣の道なのかはわからない。ハルトはしゃがんで、足元の草を手で分けた。ヨモギに似た葉、丸い鋸歯のある葉、細く尖った葉——どれも見覚えがあるものだった。乾燥品でなら、宮廷の貯蔵庫で何度も扱ってきた。

 カキドオシの小さな葉を一枚、指先で潰してみる。青い、やや苦いような香りが鼻に抜けた。少し先にはゲンノショウコの枯れかけた茎が残っている。もう少し季節が進めば若芽が出るだろう。井戸の向こうには、朝露を残したまま立っているドクダミの群れ。手入れをしていないというだけで、ここは素材の宝庫だった。

 宮廷では乾物しか触らせてもらえなかった。乾燥度も、産地も、保管期間も、ひとつの帳面で管理されていた。どの棚の何番目の瓶を、何匙、どの順に混ぜるか——何千回も繰り返した手順は、頭の中に印字されたように残っている。けれど、生の葉を指で潰してその香りを確かめる、というだけのことを、ハルトは久しくしていなかった。

 カキドオシを数本、ヨモギを一掴み、それからトウキの若芽も井戸の脇から数枚だけ摘み取った。多く摘みすぎると、来春の分が残らない。こういう加減は帳簿には書かれていない。体の方が覚えていた、というのが近いかもしれない。

 井戸の釣瓶縄を下ろし、鍋に水を張った。冷たさで指の関節が軋む。桶の縁に鍋を置き、摘んできた草を流水で軽く洗う。葉の表に乗っていた朝露と、わずかな土が水に流れていった。

 工房に戻ると、竈の焔はちょうど落ち着いていた。橙色の芯に、青みのある焔の縁が重なり、石組みの内側を穏やかに舐めている。ハルトは鍋を五徳に据えた。水面が、朝の光を跳ね返して天井に細かな波紋を投げている。

 ことり、と鍋の内側で水が動き始めた。

 ハルトはその音をしばらく聞いていた。

 何を作ろうというつもりもなかった。風邪の兆しがあるわけでも、喉を痛めているわけでもない。ただ、竈に火が入ったから湯を沸かす。雑草のなかに見慣れた葉があったから摘んだ。手が勝手に動いているだけのことだった。それでも——十二年のあいだ、指示書のない調合を自分が一度もしたことがなかったということに、今さら気づいていた。

 湯が細かい泡を立て始めた頃合いで、ヨモギを先に落とした。緑の葉がふわりと湯面に広がり、すぐに色が抜けて、かわりに鍋の水の方がうっすらと色を帯びる。少し遅れてカキドオシを加え、最後にトウキの若芽を、ほんの二枚だけ沈めた。匙の先で軽く押して、葉先を湯に沈める。

 立ち昇る湯気の香りを、ハルトは胸いっぱいに吸い込んだ。

 青い匂いだった。乾物の薬草茶の、どこか紙に似た控えめな香りとはちがう。摘みたての草の、土の名残と朝露の冷たさをそのまま閉じ込めたような、生々しい匂い。舌の奥にかすかな苦味がにじんで、そのあとから仄かな甘みがやってくる。それが、ハルトの肩の力をさらに一段、抜いた。

 鼻の奥を抜けた香りは、喉を通り、胸の奥のさらに深いところまで、静かに下りていった。息を吐くと、その青い気配が白い湯気にまじって、もう一度天井の梁のあたりまで立ち昇っていく。ハルトは知らず、目を細めていた。こうしてひとつの匂いを丁寧に吸い込むだけの時間を、自分はどれほど長く奪われていたのだろう——と、不意に思った。指先の関節がまだ井戸水の冷たさを覚えていて、そこにだけ別の温度が残っているのが、妙に愛おしかった。

 処方としては未完成だった。配合は勘で、分量は鍋任せで、対象とする症状もない。宮廷ならば、こんな煮出しは廃棄対象だ。帳面に記録する価値もない。

 けれど、鍋の中では湯が静かに色を深め、竈の焔は石組みに沿って穏やかに揺れ、割れた窓からは冬の朝の光が差している。

 誰のためでもない一椀の湯が、ただそこで仕上がろうとしていた。

 湯気が、割れた窓の外にも細く漏れ出していたのかもしれない。

 そのとき、裏手の柵のあたりで、小さな物音がした。木を踏む、とも草をかき分ける、とも判然としない、軽い音。ハルトは柄杓を手にしたまま、顔を上げた。

 柵の低い横木に、小さな手が一対、乗っていた。その上に、赤茶けた髪が揺れ、もう少し遅れて、丸い目がふたつ、柵の隙間から覗いた。年の頃は七つか八つ。冬の朝にしては薄着で、鼻の頭が赤くなっている。毛羽立った焦げ茶の外套は、肩のあたりが一度破れたのを粗く繕った跡があった。柵の横木にかけた手は小さく、赤く、爪の先に黒い土が詰まっている。

 少女は、割れた窓の向こうの竈と、そこに立つハルトと、湯気の昇る鍋とを、ひとつずつ順番に眺めた。それから、鼻をひくりと動かして、まっすぐにハルトを見た。

「——ねえ。変な匂いがする」

 咎めるでもなく、怯えるでもなく、ただ事実を報告する口ぶりだった。言葉の端に、宮廷の女たちにはついぞ見なかった、朝露のような素直さがあった。

 ハルトは、柄杓を握ったまま、どう返せばいいのか一瞬わからなかった。十二年のあいだ、工房の扉越しに誰かに呼びかけられるときは、いつも納期か叱責か指示だった。朝の光の中で、柵越しに薬草の湯気を嗅ぎつけた子どもに、最初の一言をどう返すか——そんなことは、処方帳のどの頁にも書かれていなかった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ