第1話
第1話
十二年ぶんの疲労は、ある冬の朝、何の前触れもなく膝から崩れるかたちでやってきた。
調合室の石床は冷たかった。頬に触れる石の感触がやけに鮮明で、天井の染みを数えているうちに、誰かが駆けつける足音が遠くから聞こえた。薬草の匂いが鼻の奥にこびりついている。意識が途切れる寸前、ハルトが最後に思ったのは——今夜の納品分、あと三十瓶足りない、ということだけだった。
目を覚ましたのは医務室の簡易寝台の上だった。窓の外は薄暗い。丸一日眠っていたらしい。体を起こすと、枕元に封書が置かれていた。蝋で押された紋章は兵站局のもの。見慣れたそれを開くと、労いの言葉はどこにもなかった。
『第七調合室の回復薬生産量が前月比で一割二分低下している。至急改善計画を提出せよ』
落款は上官の名。自分が倒れた翌日の日付だった。ハルトは封書を膝の上に置いたまま、しばらく何も考えられなかった。怒りが湧くかと思ったが、湧かなかった。涙が出るかとも思ったが、出なかった。胸の底にあったのはもっと静かなもので、たとえるなら長い冬のあと、最後の薪が燃え尽きたときの——ああ、終わったな、という感覚だった。
辞表を書いた。一行だけの簡素なものだった。上官は引き留めもしなかった。代わりに事務官が羊皮紙を一枚差し出し、「退職慰労の代替として辺境工房の権利を譲渡する」と早口で読み上げた。どこにあるのかと訊くと、事務官は地図の端を指で示した。王都から馬車で五日、名前すら聞いたことのない村だった。
宮廷を出るとき、誰も見送りには来なかった。
荷物は木箱ひとつに収まった。着替えが二組、使い慣れた乳鉢と乳棒、薬匙の一揃え、それから処方帳が一冊。十二年間この調合室で生み出したものの記録だったが、頁をめくれば並んでいるのは回復薬、回復薬、回復薬——同じ配合の繰り返しだった。何千瓶と量産したその薬で、前線の兵士がどれだけ救われたのかは知っている。だが功績簿に自分の名が載ることは一度もなかった。提案した改良処方は上官の名で報告書に記され、効率化で浮いた予算の使途も知らされなかった。
馬車は王都の石畳を離れ、街道に出た。御者は寡黙な老人で、ハルトが行き先を告げたとき、少し眉を上げただけだった。
「遠いですな」
「ええ」
それきり会話は途切れた。幌の隙間から見える空は鈍い灰色で、冬枯れの平原がどこまでも続いていた。揺れる荷台の上で、ハルトはぼんやりと自分の手を眺めた。薬液の染みが爪の際にこびりついている。十二年、この手はほとんど休むことなく薬を練り続けた。夜明け前に起き、日付が変わるまで竈の前に立ち、月に二度の休日も大半は素材の仕分けに費やした。それでも足りないと言われた。
二日目の朝、街道沿いの茶屋で麦粥を啜ったとき、匙を持つ手が震えていることに気づいた。疲労のせいか、それとも慣れ親しんだ日常を手放した不安のせいか。判別がつかなかった。ただ、粥の湯気を顔に受けながら、こうして急かされずに食事を摂ること自体が久しぶりだと思った。宮廷の食堂では常に時計を気にしていた。嚥下する速さまで効率に組み込まれていたあの日々が、まだ二日前のことだとは信じがたかった。
三日目の夕暮れ、街道沿いの宿で湯を使ったとき、鏡に映った自分の顔に驚いた。頬がこけ、目の下に濃い隈が刻まれている。三十四の歳にしては随分と老けて見えた。宮廷にいた頃は鏡を見る余裕すらなかったのだと、今さらのように気づいた。
五日目の昼過ぎ、馬車が丘の上で止まった。
「あの辺りでしょう」
御者が指した先に、小さな村が見えた。麦畑と牧草地に囲まれた二十軒ほどの集落。その外れに、他の家屋から少し離れて建つ石造りの建物があった。
荷台から降り、土の道を歩いた。冬の風が頬を叩く。王都の風は煤と鉄の匂いがしたが、ここの風は冷たいだけで、何の匂いもしなかった。いや、かすかに枯れ草の匂いがする。雑草が腰の高さまで伸び、石壁を覆い隠すように繁っていた。
木戸を押すと、蝶番が錆びた音を立てた。中は薄暗く、埃が積もっている。割れた窓硝子から風が吹き込み、床に散らばった木屑を揺らしていた。壁際に据えられた竈は煤で黒ずみ、作業台の上には前の持ち主が残したらしい蒸留器の残骸が転がっている。蒸留器の首は折れ、フラスコには蜘蛛の巣が張っていた。棚は傾き、瓶の大半は割れていた。
荒れ果てていた。誰がどう見ても、ここで何かを生み出せるとは思えない有様だった。
ハルトは木箱を作業台の上に置き、割れた窓から外を見た。丘の向こうに麦畑が広がり、その先に針葉樹の森が黒く連なっている。空はまだ灰色だったが、雲の切れ間からわずかに陽が差していた。光の筋が麦畑の上を走り、枯れた穂先を淡く照らしている。
ふと、胸の奥で何かが緩んだ。
理由はわからなかった。壁は罅だらけで、屋根にも穴が空いているだろう。暖房どころか寝台すらない。水場がどこにあるかも確かめていない。明日からの暮らしの見通しなど、何ひとつ立っていなかった。
それでも——息がしやすかった。
宮廷の調合室は清潔で、設備も整っていた。磨かれた白壁、規格どおりに並んだ薬瓶、温度管理された貯蔵庫。だがあの部屋には常に誰かの視線があった。納期の圧、評価の目、失敗すれば叱責が飛び、成功しても自分の手柄にはならない。あの完璧に整った空間は、ハルトにとって息の詰まる箱だった。
ここには何もない。指示書も、納品書も、上官の判も。ただ埃と蜘蛛の巣と、割れた硝子から入ってくる冬の風があるだけだ。
ハルトは作業台の埃を手で払った。石の天板は冷たかったが、滑らかだった。前の主がよほど使い込んだのだろう、中央がわずかに窪んでいる。木箱から乳鉢を取り出し、台の上に置いてみた。収まりが良かった。まるで最初からそこにあったように、乳鉢は天板の窪みにぴたりと嵌まった。
ハルトは長い息を吐いた。白い呼気が薄暗い工房の中をゆっくりと漂い、割れた窓から外へ流れていった。
懐から権利書を取り出した。皺だらけの羊皮紙には「辺境第十七工房・使用権譲渡証」とだけ記されている。裏返すと、前の持ち主の名前が薄く残っていた。読めないほどに褪せている。どんな人物だったのか、なぜここを去ったのか——知る術はない。自分の名を書き添える気にはまだなれなかった。
権利書を作業台の隅に置き、竈の前にしゃがんだ。石組みを確かめる。煤だらけだが、石の噛み合わせはしっかりしていた。まだ使える。火を入れれば、湯くらいは沸かせるだろう。
明日のことは明日考えればいい。今はただ、誰の指示も受けずに眠りたかった。
床に外套を敷き、木箱を枕にして横になった。天井の梁に蜘蛛の巣が揺れている。風の音だけが聞こえる。宮廷では深夜まで竈の火が消えず、廊下を兵士の長靴が鳴り、調合室の扉が叩かれるたびに心臓が跳ねた。ここにはその音がない。静けさが、冷たい毛布のように体を包んでいた。
目を閉じると、意外なほどすぐに眠気がやってきた。
十二年ぶりに、夢も見ずに眠った。
翌朝、目を覚ましたのは鳥の声だった。窓の外が白んでいる。体を起こすと背中が痛かったが、不思議と頭は澄んでいた。こんなにすっきりと朝を迎えたのはいつ以来だろう。
立ち上がり、木戸を開けた。冬の朝の空気が肺を満たす。吐く息が白い。丘の斜面に朝露が光り、遠くの森から煙が一筋昇っている。村の誰かが朝餉の支度を始めたのだろう。
ハルトは工房の裏手に回った。井戸があった。蓋は朽ちかけていたが、縄を下ろすと水が汲めた。冷たい水で顔を洗う。指先が痺れるほどの冷たさが、ここが王都ではないことを教えてくれた。
ふと足元を見ると、井戸の脇に青い葉が数枚、地面に張りつくように生えていた。しゃがんで確かめる。鋸歯のある丸い葉、茎の細かな産毛——トウキの若芽だった。辺境にも自生しているのか。宮廷では乾燥品しか扱ったことがなかったが、生のトウキは香りが違う。葉を一枚摘んで指先で揉むと、青く澄んだ芳香が冬の空気に溶けた。
悪くない、とハルトは思った。
まだ何をするとも決めていなかった。ここに留まるかどうかもわからない。ただ、竈に火を入れて湯を沸かし、このトウキの葉を浮かべてみるくらいのことは、してもいいだろう。
誰に許しを請うこともなく、工房に戻った。