第3話
第3話
焚き火の前に集まった人々に、ラウルは一礼した。
返す言葉は、まだ決まっていなかった。ただ、岩にかけた竹ざるを引き寄せ、川から汲んだ水で手を洗った。指先に、昼間の湯の温もりがかすかに残っている。掌の上に、人々が持ち寄ったものを並べていった。欠けた木椀、泥付きの蕪、殻の薄い卵、根の長い独活、干からびかけた豆。それだけのものだった。
それで、足りた。
ラウルは夕暮れの岩場を見回し、湯気の立つ蒸気口の周りに大きめの石を並べ直した。上に竹ざるを据え、蕪は皮のまま四つ割に、独活は筋を剥いで斜めに切り、豆は水に放って蒸気に当てた。卵は泉の湧く窪みにそっと沈めた。刃を動かすたびに、師匠が教えてくれた切り方の拍子が、指先に戻ってくる。野菜の香りは切り口から逃げる、逃がさぬように迷わず切れ——あの低く掠れた声の通りに、ラウルは迷わず切った。
誰も、口を開かなかった。
焚き火の爆ぜる音と、湯気がざるを撫でる微かな音と、遠くで犬が一度だけ鳴いた声。それだけが、谷の底の空気を揺らしていた。
やがて湯気が蕪の断面を濡らし、独活が柔らかくなり、豆が鞘ごと甘い匂いを放ち始めた。ラウルは欠け椀にひとりずつ分け、最後に半熟の卵を割り添えた。塩は振らなかった。硫黄泉が、すでに淡い塩気を野菜と卵に与えている。
最初に口に運んだのは、幼子を抱いた母親だった。蕪を嚙み、目を一度だけ閉じた。抱かれた子が「うまい?」と小さく問う。母親は頷くかわりに、子の頰を自分の頰に寄せた。村人たちは黙って食べた。啜る音が重なり、やがてほどけ、夜の川音にまぎれていった。
夜が明けて、霧が谷を下りた。
ラウルは岩棚の上で目を覚ました。肩が凝り、首筋に川霧の湿りが残っている。昨夜、村人たちはそれぞれ椀を返し、黙って自分の家に戻っていった。礼を言った者もいれば、言えずに頭だけ下げた者もいた。ラウルは皆を見送り、残った器を川で洗ってから、また岩の窪みに身を丸めて眠ったのだった。
朝の光が山肌を撫でる頃、通りのほうから杖の音が聞こえた。石を一定の拍子で突く、硬い音だった。
やってきたのは、がっしりとした肩幅の老人だった。齢は六十をいくつか越えただろうか。白髪混じりの髭を短く刈り込み、厚手の麻布の外套を羽織っている。肩にはわずかに土がついていた。畑から直接歩いてきたのだろう。
「あんたか。昨日、エルダばあに飯を食わせたのは」
低い、平たい声だった。怒っているとも、感心しているとも取れない調子だった。
「ラウル、と申します」
「儂はガルド。この村の、まあ、長のような者だ」
ガルドは川辺の岩に腰を下ろした。ラウルも包丁巻きを脇に置き、向かい合う形で岩に腰を下ろした。朝の湯気が二人のあいだを白く漂い、時折、山の稜線から射し込む光を受けてきらめいた。
「エルダばあが、涙を流して食べたと聞いた。あのばあが泣くのを、儂は二十年見ておらんのだ」
ラウルは答えなかった。答える言葉を、持っていなかった。
「この村は、昔は湯治場だった。街道の宿場もあった。宿屋が三軒、茶屋が二軒、薬湯を売る商人もおった。今は全部なくなった。領主が替わって、街道が別の谷筋に引かれてからだ」
谷の上流から鶯が一度鳴き、すぐに遠ざかった。
「若い者は街へ出ていく。残ったのは、土を掘るしか能のない年寄りと、山を歩くしか能のない猟師と、畑を耕すしか能のない百姓だ。料理人はおらん。二十年、誰もおらんかった」
ガルドは懐から小さな鍵を取り出した。木彫りの、鳥の形をした鍵だった。翼のあたりが、長年の手垢で艶を持っている。
「川沿いに空き家がある。もとは湯治客相手の茶屋だった家だ。土間と竈がまだ残っている。屋根は半分落ちとるが、雨漏りはじきに直せる。そこを、あんたに貸そう」
「……貸す、とは」
「無償でいい。そのかわり、ひとつだけ条件がある」
ガルドはラウルの目を見た。濁った黒の奥に、まだ消えていない光があった。
「村の者に、飯を食わせてくれ。それだけだ」
ラウルは鍵を受け取らなかった。差し出された掌の上で、木彫りの鳥が、朝の光に小さく翼を広げていた。
十五年——王の舌のために磨いた腕だった。銀皿の上に花をあしらい、温度を一度刻みで合わせ、香草の茎の角度まで揃える。そういう技法が、この辺境でいったい何になるのだろう。硬いパンを時間をかけて嚙む老婆の奥歯に、技法の精緻さが届くだろうか。迷いは、指先から登ってきて、胸の辺りで止まった。
「少し、考えさせていただけますか」
「構わん。急ぐことではない」
ガルドはそう言い残して、杖をつきながら村のほうへ戻っていった。その背は、思ったよりも小さかった。
ラウルはしばらく岩に腰を下ろしたまま、川面を見つめていた。やがて立ち上がり、包丁巻きを抱えて、上流へ向かって歩き出した。
岩の裂け目から湧水が細く流れ落ちている一角があった。ラウルは膝をつき、両手で水を掬って口に含んだ。ひんやりと甘く、喉の奥に山の鉄気がかすかに残る。王都の石井戸の水とは違う、もっと生々しい、まだ岩の内側を流れてきたばかりの水の味だった。これで米を炊けば、粒は立ち、冷めても芯が残らないだろう。豆を戻せば、皮が破れずに芯まで通るだろう。そういう水だった。
川岸の土を一握りすくい、鼻に近づけた。湿った腐葉土の奥から、発酵した木の実のような甘い匂いが立った。冬から春へかけて積もった落ち葉が、山の湿気と微生物の働きによってゆっくりと土へ還っていく匂いだった。この土で育つ野菜は、香りが深くなる。大根は辛く、人参は甘く、蕪は肉質が緻密になる。料理人の鼻が、土の質を言葉にする前に、そう告げていた。
湯気の立つ岩場に戻り、掌を蒸気口にかざした。指の節まで、じんわりと熱が通っていく。昨日も感じた、ちょうどいい温度だった。この蒸気は、王宮の厨房の銅鍋や鋳鉄のかまどには決して出せない、均一で優しい湿熱だった。野菜の芯を崩さず、肉の繊維を壊さず、素材の奥までゆっくりと熱を届けてくれる。宮廷料理の分厚い技法書には、この熱のことは一行も書かれていなかった。
別の岩陰に手を伸ばすと、そこには硫黄臭の強い、やや熱めの湯が湧いていた。さらに上流の岩の裂け目には、鉄気の強い赤褐色の滴りが見える。指先で掬うと、爪の際にうっすらと鉄錆の色が残った。少なくとも三つ、泉質の違う湯が、この谷のあちこちから顔を出している。それぞれ、向く料理が違うはずだった。硫黄泉は塩気を与え、鉄泉は獣肉の臭みを抜き、ただの湧水は菜の苦味をやわらかく包んでくれる。
——王都には、なかった。
この素材の力は、十五年かけても王宮の厨房には揃わなかった。銀皿ではなく、岩の窪みと竹ざるの上でこそ、生まれる料理がある。
ラウルは立ち上がり、川面に自分の顔を映した。痩せた頰と、伸びた無精髭と、眠気の残る目。十五年仕えた料理長の顔では、もうなかった。ただの、腹を空かせた男の顔だった。
そうか、とラウルは小さく声に出した。宮廷料理の技が、この辺境で意味を持つのか——問い方を、間違えていた。問うべきは、この辺境の素材を、十五年分の技がどこまで引き出せるか、のほうだった。王の舌のために磨いた腕を、老婆の奥歯に、幼子の舌に、猟師の腹に届ける。届ける先が違うだけだった。
川沿いを下って、ラウルは村に戻った。井戸端で水を汲んでいたガルドに、鍵を、と短く告げた。ガルドは何も問わずに頷き、木彫りの鳥をラウルの掌の上にそっと乗せた。掌に置かれたそれは、朝よりも少しだけ、重く感じられた。
空き家は、川沿いに歩いてすぐの場所にあった。低い石壁の家で、戸の木はすっかり色が抜け、押すと蝶番が長く軋んだ。中に入ると、床一面に埃と蜘蛛の巣と、去年の落ち葉が散らばっていた。奥の土間には、石で組まれた竈が残っている。石の隙間から、古い煤がさらさらと零れ落ちた。天井は半分抜け、穴の向こうから朝の光が斜めに差し込んでいる。光の帯の中を、ゆっくりと埃が舞った。
ラウルは包丁巻きを框にそっと置き、袖をまくり上げた。
川で桶に水を汲み、竈の土台から順に、落ち葉を掃き出していった。石の冷たさが膝から伝わってくる。蜘蛛の巣を払い、黒ずんだ石の縁を水で丁寧に洗うと、下から思ったより綺麗な、焼けた赤みのある石肌が現れた。長く使われてきた竈だった。この石に、かつて幾度も火が入っていたのだ。
看板は出さないつもりだった。誰が来てもいい食卓を、ただ、ここに置く。その一点だけを、ラウルは自分自身に静かに言い聞かせた。竈を磨く掌の中に、木彫りの鳥の体温が、まだかすかに残っていた。