第2話
第2話
鳥の声で目が覚めた。
岩棚に背を預けたまま眠っていたらしい。肩の筋肉が凝り固まり、首を回すと骨の鳴る音がした。腕の中の包丁巻きは昨夜のまま、手帳も脇に挟まっている。ラウルはゆっくりと身を起こした。
谷は薄い霧に包まれていた。夜が白んでいく時間特有の、乳色をした朝だった。川面から立ちのぼる湯気と、山から下りてきた霧とが混じり合い、世界の輪郭を曖昧にしている。雨はいつの間にか上がっていた。湿った衣服を絞り、袖を通すと、生乾きの布が肌にひんやりと張りつく。気味の悪い感触だったが、文句を言える相手はいない。
懐の手帳は、油布のおかげで無事だった。包丁巻きも同じ。それだけ確かめると、ラウルは立ち上がった。膝がかすかに痛んだ。
谷の底から村へと続く小径を、霧をかき分けるように登った。昨夜は雨のせいで目に留まらなかったが、道端には石楠花に似た灌木が群れをなし、白い花弁に露を抱えている。湿った土と朽ち葉の匂いの奥に、遠くなった硫黄の匂いがかすかに混じっていた。
村の入口まで来ると、石造りの家々の煙突から細く煙が上がっていた。朝餉の支度をしているのだろう。人の営みの匂いがほんの少し、霧に溶けて漂ってくる。ラウルは包丁巻きを抱え直し、村の通りに足を踏み入れた。
通りの奥に、石組みの共同井戸があった。井戸の縁に腰かけて、ひとりの老婆がパンを齧っている。痩せた肩に色褪せた肩掛けをまとい、白髪を後ろで束ねていた。ラウルが近づいても顔を上げない。咀嚼の音だけが、石壁に低く反響している。ずいぶんと硬いパンらしい。老婆は奥歯の残っている側だけを使って、時間をかけて嚙み砕いていた。
「……おはようさん」
先に声をかけてきたのは老婆のほうだった。視線は手元のパンに落としたままだ。
「おはよう、ござい、ます」
ラウルは喉の奥が掠れているのに気づいた。昨日から一言も発していなかった。
「旅人かね」
「……ええ」
「この村には宿はないよ。二十年前に、最後の宿屋が潰れた」
老婆はパンを膝に置き、ようやくラウルを見上げた。深い皺の奥に、濁りのない灰色の目があった。
「それは、聞いて、おります」
「そうかい」
それだけ言うと、老婆はまたパンを齧り始めた。ラウルは井戸の反対側に腰を下ろした。石が朝露に濡れて冷たい。腹が鳴ったが、もう音が出ることにも驚かなくなっていた。
「食うかい」
パンの半分が差し出された。ラウルは首を振った。
「あなたの朝餉でしょう」
「儂の歯じゃ、どうせ最後まで齧れん。残せば塩漬け肉と一緒に柔らかくするんだが、今朝は肉も切らしてる」
老婆は、エルダ、と名乗った。村に残った年寄りの一人だ、と言った。
「料理人はいないのかね、この村に」
「料理人?」
エルダは笑うように息を漏らした。
「そんな上等なもの、二十年は見とらんよ。女たちが家で煮炊きするだけさ。塩漬け肉と、黒パンと、たまに乾物の汁物。それで充分、命は繋がる」
命は繋がる——その言い方が、ラウルの胸に小さく引っかかった。繋がる、という言葉は、保つ、とも、ようやっと、とも聞こえた。楽しみや喜びは、はじめから勘定に入っていない響きだった。ラウルは王宮の厨房で、銀皿に花を添える技法ばかりを仕込まれてきた。命を繋ぐ料理、というものを、自分は知っているだろうか。喉の奥が、わずかに詰まった。
ラウルは井戸の向こうに流れる川を見た。昨夜浸かった湯の源流だろう。川岸の砂地に、薄緑色の芽が点々と顔を出している。雪の下から顔を出したばかりのような、柔らかな芽だった。
「あれは、食べられますか」
ラウルが指さすと、エルダは目を細めた。
「山菜かい。食える草もあれば食えん草もある。儂らはもう、区別できん者ばかりでね」
ラウルは立ち上がった。包丁巻きをほどき、穂先包丁だけを腰に差した。それから川岸へと下りていった。
砂地にしゃがみ、指先で芽を摘んだ。爪の先で折り、断面に鼻を近づける。ぴん、と鼻の奥を突き抜ける、まぎれもない野蒜の香りだった。つぎに見つけたのは蕗の薹に似た苦味のある芽。親指の腹でそっと撫でると、産毛のような白い繊毛が光を受けて震えた。奥の湿った窪みには、食用になる蓬の若葉が群生している。葉裏の銀色の毛がびっしりと並び、指で裏返すたびに、冬を越えた青い匂いがふわりと立ちのぼった。ラウルは手帳を開き、師匠が書き残した山菜の頁と照らし合わせた。頁の端には師匠の癖字で、「苦きものは春の薬。湯に通せ、塩は控えよ」と書き添えられている。師匠はかつて辺境の村々を巡って料理を学んだという。あの覚書が、今このときのために残されていたかのようだった。
籠はないので、上着の裾に山菜を包んだ。戻る途中、川のほとりに湯気の濃く立つ一角を見つけた。岩の裂け目から蒸気が吹き出している。手をかざすと、熱すぎず冷たすぎない、ちょうど野菜の芯を通すのにいい温度だった。掌に伝わる湿った熱が、指の節の古傷までじんわりと溶かしていく。ラウルは思わず、息を詰めた。
こんな竈は、王宮にはなかった。
井戸端に戻ると、エルダがまだ同じ姿勢でいた。
「鍋か、ざるのようなもの、お借りできますか。それから、卵をひとつ」
「卵くらいはあるよ。鶏が二羽、残ってる」
エルダはゆっくり立ち上がり、軒下の家に入っていった。やがて、縁の欠けた竹ざると、素焼きの浅鉢と、褐色の殻の卵をひとつ持って戻ってきた。
ラウルは川辺の蒸気口に戻り、岩を寄せて竹ざるを据えた。摘んだ山菜を水で洗い、野蒜は根ごと、蓬は葉だけを、蕗の薹は傘を開かせて、ざるに並べる。卵は硫黄泉の湧く小さな窪みにそっと沈めた。昨夜自分が浸かったのと同じ湯だ。温度を確かめ、砂時計の代わりに心の中で数を数える。指先が一定の拍子を刻むたび、湯の底で卵が微かに揺れ、石を打つ硬い音が短く返ってきた。
やがて、湯気が山菜を撫でた。
野蒜の辛味が和らぎ、蓬の青臭さが落ち着き、蕗の薹の苦味が角を丸めていく。立ちのぼる湯気は甘いとも苦いともつかぬ春の匂いを含んで、ラウルの前髪をふわりと持ち上げた。硫黄泉に沈めた卵は、ほのかに塩気をまとって茹で上がる。湯に含まれた微量の塩分が、殻を通して中まで染み込む。王都では手に入らない、温泉でしかできない卵だった。
ラウルは鉢に蒸した山菜を盛り、殻を剥いた卵を半分に割って添えた。白身はほのかに飴色に染まり、黄身は半熟の橙がとろりと断面に滲む。塩は振らなかった。湯がすでに塩を与えている。
「どうぞ」
エルダは鉢を受け取り、両手で包み込んだ。指の節が骨ばって、鉢の縁に白く浮いている。
「……温けえ」
その一言が、喉の奥からこぼれ落ちるように発せられた。匙の代わりに指でつまみ、蕗の薹を口に運んだ。しばらく咀嚼し、次に蓬、そして野蒜の蒸したもの。最後に卵の半分を含んだ。嚙むたびに、奥歯の残っている側だけがゆっくりと動く。けれどその動きは、朝方の硬いパンを砕いていたときとは違って、ためらうような、愛おしむような、ゆるやかな速さだった。
老婆の頰が、ぴくりと動いた。
皺の奥の灰色の目から、ひと筋、涙が落ちた。続いて、もうひと筋。涙は頰の皺をなぞり、顎の先で一度だけ光って、鉢の縁に落ちた。エルダは食べるのを止めなかった。ただ、涙だけが静かにこぼれ続けた。
「……温けえもんを、歯で嚙まずに食えたのは、何年ぶりかねえ」
ラウルは何も言えなかった。ただ、湯気の向こうのエルダの顔を見ていた。掌に、包丁の柄の木目の感触がじんわりと残っていた。
日が傾き始めた頃、ラウルは川辺で包丁を研いでいた。午後のあいだ、エルダは村の家々を一軒ずつ回っていたようだった。戻ってきたとき、その背中に続くように、人が集まっていた。
焚き火のそばに、十数人が立っている。
腰の曲がった老人、幼子を抱いた母親、鍬を肩にかけたままの百姓、猟の帰りなのか毛皮の上着を着た男。みなどこかぎこちなく目を伏せている。誰かの手には欠けた木の椀、誰かの腕には布で包んだ根菜、別の誰かは卵をふたつ、そっと胸に抱いていた。差し出すでもなく、しまい込むでもなく、ただ身の脇にぶら下げたまま、立ち尽くしている。エルダがラウルの隣にゆっくりと並び、静かに言った。
「あんたが、作ってくれるんだろう?」
誰も急かさなかった。ただ、焚き火の爆ぜる音と、川音と、遠くで誰かが咳をする音だけが、夕暮れの空気に溶けていた。
ラウルは手の中の包丁を、そっと握り直した。刃に映る夕陽が、ゆっくりと揺れた。