第1話
第1話
雨が降っていた。三日も止まない、執念深い雨だった。
荷馬車の荷台に揺られながら、ラウルは膝の上に置いた包丁巻きを抱え直した。油布に包んだそれだけが、十五年の歳月から持ち出せたすべてだった。いや、もうひとつ。懐に押し込んだ革表紙の手帳——師匠から受け継いだ香辛料の覚書が、雨に濡れた上着の内側でかすかに体温を保っている。
手帳の角が肋骨に当たるたびに、師匠の声が蘇った。「香辛料は嘘をつかん。正しく使えば正しく応える。人間より余程わかりやすい」——あの低く掠れた声を、ラウルは今でも耳の奥に持っている。師匠が逝って八年。あの人が遺してくれたものが、今や自分の全財産だった。
王都の城門をくぐったのは、今朝のことだったか、昨日のことだったか。時間の感覚がひどく曖昧になっていた。覚えているのは、衛兵に両腕を掴まれたときの石床の冷たさと、大臣が読み上げた罪状の一語一語が、耳の奥に張りつくように残ったことだけだ。
毒殺未遂。
その三文字が宣告された瞬間、広間の空気が凍ったのを覚えている。周囲に並んだ同僚たちの目が一斉に逸れた。副料理長のグレンだけが、口を真一文字に引き結んで床を見つめていた。あの表情は何だったのか。同情か、それとも安堵か。ラウルにはわからなかった。わかりたくもなかった。
十五年、夜明け前から厨房に立った。焼き加減、塩の振り方、香草の刻み幅——王の舌が求めるものを、ラウルは誰よりも正確に知っていた。毒を盛る理由などあるはずがなかった。だが新王が即位し、派閥が入れ替わり、厨房にまで政の影が差し込んできたとき、ラウルには弁明の席すら与えられなかった。
料理長の白衣を剥がれ、裏門から放り出された。それだけだった。十五年が、それだけで終わった。白衣の胸元を掴まれ、引き裂かれるように背中から剥ぎ取られた感触が、まだ肩甲骨のあたりに残っている。あの白衣には、何百回もの洗濯で落ちきらない玉葱と炭の匂いが染みついていた。
荷馬車の御者は、ラウルが何者かも知らない老人だった。南へ向かう街道の途中まで乗せてやると言い、それきり口を開かなかった。幌のない荷台では雨を避けようもなく、ラウルの髪からは絶えず雫が顎を伝って落ちた。荷台には干し草が敷かれていたが、雨を吸ってぐずぐずに崩れ、獣脂と黴の混じった匂いを放っていた。それでも包丁巻きだけは油布の下に庇い続けた。刃物は濡らせば鈍る。料理人の手が覚えた、最初の教えだった。
街道は王都を離れるほどに細くなり、石畳はいつしか轍の刻まれた泥道に変わった。平野が終わり、低い丘陵が連なり始めると、御者が手綱を引いた。
「ここまでだ。この先は山道になる」
ラウルは礼を言って荷台を降りた。足が泥を踏む感触が、やけに重かった。御者は振り返りもせず馬を返していった。遠ざかる車輪の音が雨音に溶け、やがて完全に消えた。街道にはラウルだけが残された。
雨脚は弱まらない。ラウルは街道の先を見つめた。南へ、と言われて追い出されたものの、行く宛てがあるわけではなかった。宮廷に知己は多かったが、毒殺未遂の汚名を着た男に手を差し伸べる者はいない。それは恨みではなく、宮仕えという世界の道理として、ラウルにもわかっていた。
歩いた。泥を踏み、石を踏み、雨に打たれながら、ただ南へ歩いた。山道に入ると木々が頭上を覆い、雨の直撃はいくらか和らいだが、足元はますます悪くなった。何度か滑り、膝をついた。そのたびに包丁巻きを確かめ、懐の手帳を押さえて、また立ち上がった。膝についた泥を払う気力はもうなかった。どうせ全身が泥と雨にまみれている。ただ、包丁と手帳だけが汚れていなければそれでよかった。
風向きが変わったのは、山道が谷筋に差しかかった頃だった。
硫黄の匂いがした。
最初はかすかに、やがてはっきりと、湿った空気の中に鼻を突く匂いが混じった。温泉だ。宮廷の厨房でも硫黄泉の塩を使ったことがある。この匂いを間違えるはずがなかった。料理人の鼻は、匂いの正体を嗅ぎ分けるようにできている。硫黄の奥に、濡れた岩の鉄気と、苔むした土の匂いが重なっていた。山の体温のような匂いだった。
谷を下ると、木々の合間に灯りが見えた。小さな集落だった。石造りの家が十数軒、山肌に沿うように並んでいる。軒先の灯りはどれも頼りなく、雨に煙ってにじんでいた。村の中央を細い川が流れ、川岸のあちこちから白い湯気が立ち上っている。
湯煙郷。
道端の朽ちかけた標柱に、そう刻まれていた。指で撫でると、苔が爪の間に入った。ずいぶん古い村なのだろう。
ラウルは村の中を歩いた。宿屋らしき建物はあったが、看板は外され、戸は閉ざされていた。懐には銅貨が数枚しかない。王都では一杯の麦酒にもならない額だった。
人の気配は薄かった。石造りの家々の窓は、どれも厚い木の鎧戸で閉じられ、隙間から漏れる灯りだけが人の暮らしを証していた。通りに面した一軒の軒先に、干からびた薬草の束がぶら下がっている。雨風に晒されて色を失い、もう匂いもほとんど残っていなかった。湯治場として栄えた過去が、村のあちこちに剥がれかけた看板や割れた陶器の破片となって残っている。かつては賑わった場所なのだろう。今はその面影が、雨に打たれて静かに朽ちている。
足が止まったのは、川岸の少し開けた場所だった。岩の間から湯が湧き出し、自然にできた窪みに溜まっている。露天の湯だった。湯面から立ちのぼる湯気が、雨と混じって白くたゆたっている。
誰もいなかった。
ラウルは包丁巻きを岩棚の雨のかからない窪みに置き、手帳を油布でくるんでその横に添えた。それから、泥だらけの衣服をゆっくりと脱いだ。
湯に足を入れた瞬間、息が漏れた。
熱い。だが痛みではなかった。雨に冷えきった身体の芯に、温もりがじわりと染みていく感覚だった。膝まで、腰まで、肩まで沈めていくと、硫黄の匂いが鼻腔を満たし、白い湯気が顔を包んだ。見上げると、雨粒が湯気の向こうに細い線を引いて落ちてくる。顔に当たる雨は冷たいのに、首から下は温かい。その境目がひどく不思議で、ラウルはしばらく動けなかった。
十五年。
毎朝四刻に起き、王の朝餉が終わるまで厨房を離れず、昼は翌日の献立を組み、夕餉の支度に追われ、片付けが終わる頃には日付が変わっていた。休みの日も、厨房の床を磨き、包丁を研ぎ、新しい香辛料の配合を試した。王の食卓を預かるとは、そういうことだった。
その十五年が、湯の中でほどけていくようだった。
筋張った指を湯の中で開いた。包丁ダコが並ぶ掌を、硫黄の湯がひたひたと撫でる。この手はまだ料理を作れるだろうか。誰のためでもない、ただ作りたいからという理由で、最後に料理をしたのはいつだったか。思い出せなかった。王の舌に応えることだけが、この手の存在理由だった。その王の舌が、もうラウルを必要としていない。
湯の底に沈めた足の裏で、丸い石の感触を踏んだ。指先で転がすと、つるつるに磨かれた川石だった。長い年月をかけて、湯の流れに削られたのだろう。ラウルはふと、自分もそうなるのかと思った。王宮という流れの中で削られ、磨かれ、そして流れの外に弾き出された石。これからは何が自分を削るのだろう。
夜が深まり、雨が小降りになった。谷間の空に、雲の切れ目からひとつだけ星が見えた。硫黄の匂いと、湯の音と、遠くで梟が鳴く声。それだけの世界に、ラウルは浸かっていた。
やがて指先がふやけ、湯からあがった。夜風が濡れた肌を撫でると、さきほどまでの温もりが急速に奪われていく。乾いた下着だけを身につけ、岩棚の窪みに背を預けた。
腹が、鳴った。
最後にまともなものを口にしたのは、王都を出る前日の賄いだった。もう丸一日以上何も食べていない。だが手元にあるのは包丁と、香辛料の手帳だけだ。食材がなければ、どんな腕も意味を持たない。
ふいに、賄いの味が舌に蘇った。残り物の根菜を刻み、骨から取った出汁で煮て、仕上げに胡椒をひと振り。厨房の隅で、副料理長のグレンと並んで匙を口に運んだ。「相変わらず、残り物で作ったとは思えん味だな」とグレンが言い、ラウルは「残り物だからこそ出る味がある」と返した。たった昨日のことなのに、もうひどく遠い。
村の灯りは遠い。谷の向こうに、ぽつりぽつりと橙色のにじみが見える。あの灯りの下には、食卓があるのだろう。温かい汁物と、焼きたてのパンが並んでいるのだろうか。
ラウルは包丁巻きを引き寄せ、腕の中に抱えた。油布越しに、慣れ親しんだ鋼の重みが腕に伝わる。手帳の革表紙が、体温で少しだけ温まっていた。
この先どこへ行くのかも、明日何を食べるのかもわからない。ただ硫黄の匂いが鼻に残り、湯の温もりがまだ背中にかすかに残っていた。それだけが、今夜ラウルを眠りに導く唯一のものだった。