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災禍の魔導士、森で幻獣と暮らす

第3話 第3話

第3話

第3話

朝の光が、足跡の一つ一つに露を溜めていた。

 エルドは屈んだままの姿勢で、しばらくその小さな窪みを眺めていた。四足の若い獣。爪は幼く、踏み込みが浅い。鉤爪ではなく、犬のそれとも違う、丸みを帯びた指先の痕。——と、そこまで読み取ってしまってから、苦笑が口元に滲んだ。耳と同じで、目も勝手に仕事をしてしまうらしい。長い間、森や野を歩いて生き物の気配を測ってきた習い性は、そう簡単には抜けないものだった。  指先で土の縁をそっとなぞると、夜露が湿った粉となって指に移った。  「来たければ、また来ればいい」  呟いて立ち上がる。深追いしない、と決めたのは昨夜のうちだった。今朝の足跡は、その約束のささやかな報酬のようにも思えた。  小屋に戻り、竈の残り火を掻き起こす。昨夜の汁鍋の底にわずかに残った麦を水で延ばし、粥にした。塩はごく少し。匙を口に運ぶ間、窓の外で霧がゆっくりと薄らいでいく。梢の影が、石壁の床に柔らかな縞模様を描いていた。  食事を終えてから、棚の上に押し込んであった古い籠を下ろした。蔦で編まれた持ち手が半分ほどほどけていたので、麻紐で軽く巻き直す。今日は森の中腹まで足を伸ばすつもりだった。薪もいずれ尽きる。干し肉もいつまでも保たない。それに薬草だ——生きるために、手の届く範囲で採れるものを、そろそろ見定めておく必要があった。  エルドは扉の前で一度、空を見上げた。雲は高く、風は穏やか。籠を肩にかけ、腰に古い採集鎌を下げて、霧の名残の漂う獣道へと踏み出した。

 獣道を少し登ると、森は次第に深さを増していった。苔の青が濃くなり、倒木の上に茶色いきのこが傘を並べている。水音が徐々に近づき、やがて細い沢が木々の合間に現れた。石を伝って渡ると、対岸の岩陰に見覚えのある三角の葉が群生していた。薬師草。傷の熱を抑える、どこにでもある野草だ。エルドは鎌で根ごと数株を刈り、籠に入れた。  続いて、陽の差し込む斜面で血留めの苔を剥がし、湿った岩肌では目にいいと言われる葉を摘んだ。採るたびに、指の腹に葉汁が染みていく。青臭く、苦く、どこか芯の通った匂い。戦のさなか、急いで揉み込んだ覚えのある草だった。あの頃は潰すように指を使った。今日は、潰さぬように一枚ずつ葉を重ねている。同じ手で違う動きをしているだけのことが、妙に嬉しかった。  籠が半分ほど埋まったころ、風向きが変わった。  木々の揺れる音に、別の音が混じっている。喉の奥から絞り出すような、息が裏返ったような、ごく細い鳴き声。昨夜、匙を止めさせたあの声と同じ質感。けれど今朝は、距離が近い。北東、四十歩ほど先。呼吸は浅く、間隔は不揃い。——そこまで読み取ってしまってから、エルドは籠を下ろした。  歩を進めるうちに、下草の匂いが変わった。血の匂いではない。獣の脂と、擦れた獣毛のひび割れた匂い。倒木の根元に、鉄の輪のような黒いものが見えた。旧い仕掛け罠だった。麻縄と鉄の爪で組まれた、人の手を離れてずいぶん経つ代物。蔦が半分絡まって、もう仕掛けとしては用をなしていない。その爪に、銀色のひと塊が絡め取られていた。  息を呑む、ということをエルドはしなかった。代わりに、ひと呼吸ぶん、体の動きを止めた。  銀毛の仔獣だった。両の前脚にかけて古い縄と棘が深く食い込み、毛並みは乱れ、腹は呼吸のたびに頼りなく上下している。大きさは、両の手のひらに乗せられるほど。細い吻にはわずかに鱗の粒が走り、背には透けるほど薄い翼の折り目が見えた。  ——狐竜。  口に出さずに名を呼んだ。幻獣と呼ばれる部類の生き物で、成体は人を近づけぬと言われる。その仔。人里にも学院にも、生きた姿で齎されたことは、ほとんどない。  エルドは膝をついた。一気に距離を詰めず、拳一つぶん、近づいては止まる。仔獣の瞳孔が、縦に細く割れた。警戒している。けれど歯を剥く力も、鳴き声を張り上げる力も、もう残っていないらしかった。  鎌と籠はその場に置いて、エルドは手を空にした。罠の縄に指を触れ、爪の締まり具合を確かめる。鉄の爪は前脚の肉に食い込み、縄は皮膚の上で幾重にも擦り切れていた。触れれば尚、小さな身体は震えた。  「動くな」  声は自然と低くなった。仔獣にではない、自分に向けた合図だった。  指先に、ごく薄い光を灯す。傷を温める程度の、最も穏やかな治癒の術式。宮廷にいた頃なら、術式を描くことさえ指先の気まぐれに属した。今は、掌の皮膚の下を這う魔力の粒の一つ一つを、わざと数えるようにして流す。鉄の爪がゆるみ、縄が一筋、ほろりと解けた。  ——その瞬間、仔獣の鼻先が、ふるっと動いた。  エルドの指先に薄く残った光の匂いを、探るように。縦に割れていた瞳孔が、ゆるやかに丸く戻っていく。警戒が解けたのとは少し違う。何か懐かしいものに触れた、というふうだった。思い当たるところはあった。この仔はきっと、ごく若い頃に別の誰かの治癒魔法の匂いを浴びている。その残り香を、エルドの手にも嗅ぎ取ったのだろう。  残りの縄と棘は、指で一本ずつ解いていった。魔法ではなく、指先で。傷口には薬師草の葉を揉んで当て、麻紐で軽く留めた。毛並みを乱さぬよう、腹の下に手を差し入れて抱え上げる。驚くほど軽い。雀のひなを掬い上げたときの、あの心もとない重みに似ていた。  籠に敷いた布の上にそっと寝かせると、薬草は幸い、仔獣の脇にも空きを作れる量だった。

 帰り道、エルドは自分の歩幅が少しだけ狭くなっていることに気づいた。揺らさぬように。驚かさぬように。——誰かを抱えて歩くというのは、こういう歩き方をするものだったかと、今さらのように思い出していた。  小屋に戻り、竈に火を入れ直した。旅の背嚢の底に、まだ開けていない袋がひとつ残っている。山羊の乳を乾かして粉にしたもの。長旅のための非常食のつもりで詰められていたが、自分のためには結局使わずにいた袋だった。湯で戻し、粥の残りとすり混ぜ、冷ましてから、指先に一滴だけ載せて温度を確かめる。ほどよい。  「飲めるか」  仔獣は最初、吻を寄せただけで舌を出さなかった。匙の背をそっと唇の端に当ててやると、ようやく薄い舌が触れ、一度なめ、二度なめ、それから震えるように喉が鳴った。飲み下す音は、細く、けれど確かなものだった。  半量を飲み終わる頃には、薄い翼の端が微かに伸びた。エルドは布を掛け直し、仔獣を竈の脇の敷物の上に置いた。火の温みが届くぎりぎりの場所。  陽が傾き、森の奥から夜が這い上がってきた。汁鍋を温め直し、自分の夕餉を済ませる。昨夜と同じ献立、けれど味が少し違って感じられたのは、塩のせいではないだろう。  食後、薪を足してから、エルドは敷物の前に胡座をかいて座った。指先で仔獣の毛並みを、ごく軽く整える。背の銀が、火明かりを受けてわずかに藍色に揺れた。  どれくらい、そうしていただろう。  仔獣が、ふと目を開けた。こちらを見上げ、鼻先を擦るように膝へ寄せ、それから身体全体を小さく丸め——エルドの片膝の上に、音もなく乗り上げた。  エルドは、動けなかった。  膝の上の重みは、本当にささやかなものだった。けれどその重みが伝えてくるのは、体温だけではなかった。誰かのために手を動かす、というあの感覚。術式を組み立てるためでもなく、命令を果たすためでもない、ただ、膝の上の小さな息のためだけに息を整えるという感覚が、胸の奥の、長いあいだ灯されていなかった一点に、そっと火を移していくのを、エルドは静かに感じていた。  火がはぜた。仔獣の耳が一度ぴくりと動き、またすぐに垂れた。  エルドは息を吐いた。白くはならなかった。小屋の中は、それほどに暖かかった。

 夜半、火が弱まる頃合いに、エルドは一度だけ膝の上の仔獣を抱え直した。毛並みは僅かに温みを取り戻し、呼吸は昼よりも深い。薄い翼の折り目は、もう震えていなかった。  敷物の上に横たえ、自分も寝台に戻る。天井の隙間から覗く星は、昨夜よりいくらか数を増しているように見えた。  瞼が落ちる間際、エルドはふと、明朝この小さな生き物を何と呼ぶのだろうか、と考えた。呼ぶ、という行いは、名をつけるということだ。  名は——と思いかけて、その先を明日の自分に預けた。  遠くの梢が、夜風にひときわ長く鳴った。

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