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万象の支援魔導士

第3話 第3話

第3話

第3話

暁の旅団の拠点は、ギルド本部から三筋ほど離れた石造りの館だった。

カイが玄関の扉を押すと、蝶番の軋みよりも先に、鉄を研ぐ音が耳を打った。中庭の敷石の上で、赤毛の女剣士が大剣に砥石を当てている。昨日、酒場の個室で身を乗り出した女だ。名を、フィーネといったはずだ。

「来たか」

声は、奥の回廊から。レナが階段を下りてくる。麻の作業着、袖を肘まで捲り、首筋に魔力回路を測る銀環をかけている。今朝の空気はまだ冷たいのに、額に薄く汗を滲ませていた。朝稽古の汗だ。

「朝早くに、すみません」

「早い方がいい。鈍るからな」

レナが卓に地図を広げた。ギルド公式の迷宮図。九層、中層入口の地点に赤い印がある。

「今日はここだ。九層の中腹、『反響の広間』。魔物は蝙蝠鬼と甲殻蟹。中層にしては弱い。お前の制御を見るには手頃だ」

「……制御を、見る」

「昨日の分解だ。杯の水は凍らせられても、災獣は要素に砕いた。幅が、広すぎる」

レナは短く言い、卓の端に置かれた革帯を放って寄越した。魔力遮断の腕環だ。装着すれば、万象操作の出力が三割まで落ちる。

「今日はこれをつけていけ。本気の出力は要らん。要るのは、仲間を壊さない線引きだ」

カイは腕環を受け取った。革の裏に、金属片が縫い込まれている。触れた指先で、魔力の流れが細くなるのが分かった。生まれて初めての感覚だった。五年間、支援魔導士として常に出力を絞って生きてきた自分が、今は「絞らせられる側」に回っている。絞る側と絞らせられる側。どちらが正しいのか、今日までの自分には、考える余地すらなかった。

中庭では、フィーネの砥石の音が止んでいた。こちらを見ている。目は冷ややかでも、警戒でもない。ただ、試されている——そんな視線だった。砥石を持つ指の節が、朝日に白く浮いている。鍛えた掌に刻まれた、剣ダコと古い切り傷の地図。

「行くぞ」

レナが先に立った。

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九層の『反響の広間』は、天井の高い円形洞窟だった。壁面に結晶が張り付き、光源を反射して、視界が二重にぶれる。結晶は青白く、内側に小さな光の粒が閉じ込められているようで、深く息を吸うたびに、粒の位置がわずかにずれて見えた。音響も歪む。足音が一拍遅れて返ってくる。自分が歩いた筈の方向から、別の誰かの足音が近づいてくるような錯覚に、カイは何度も足を止めかけた。

「蝙蝠鬼は音で位置を取る。声を出すな」

レナが小声で指示した。フィーネが大剣を抜き、もう一人——痩せた男、ハルという弓使いが矢筒を確認する。カイは支援杖を握り直した。左腕には魔力遮断の腕環。胸の奥では、砕けた封印紋の残滓が、低く脈打っている。鼓動より少しだけ遅い、妙な拍子で。

広間の中央で、甲殻蟹が二匹、結晶の欠片を咀嚼していた。顎が擦れるたびに、硬質な粉砕音が壁に跳ね返り、四方から同時に聞こえてくる。その奥、天井の梁に蝙蝠鬼が四体。黒い翼を閉じ、逆さに吊り下がっている。胴の下で、微かに赤い眼窩が明滅していた。

「カイ、結界。角度は蟹の前方、三尺」

指示が飛んだ瞬間、カイは術を展開した。

ここまでは、五年間の手癖だ。結界を、甲殻蟹の前方にだけ、斜めに。フィーネが大剣を振り下ろし、結界の斜面に沿って斬撃が滑り、甲殻の関節に吸い込まれた。殻が割れる乾いた音。

——問題は、ここからだった。

蝙蝠鬼が飛んだ。

四体、同時に。黒い翼が結晶の反射に重なり、八体にも十六体にも分裂して見えた。音響が歪む広間で、四方から風圧が襲う。カイは咄嗟に、防御結界を全周に展開しようとして——

指先が光った。

青白くも白銀でもない、視認できない色の光だった。万象操作が、先に起動した。

意図より早く、意図より広く。広間の空気が震え、結晶の壁面に走る魔力の筋が、全て「解ける」方向に傾いた。ざわ、と肌が粟立った。自分の輪郭までもが、繊維ごとほどけていくような錯覚。結晶の結合が、一斉に緩みかけた。蝙蝠鬼の翼膜も、フィーネの大剣の刃も、ハルの矢の鏃も——「分解」の射程圏に入った。

「——カイ!」

レナの声。空気の震えを裂くように、鋭く。

カイは息を止め、腕環を握り込んだ。革の裏の金属片が、掌に食い込む。金属片に歯を立てるように、意識を引き戻す。歯の根がきつく噛み合い、舌の奥で鉄の味が滲んだ。指先の光が、震えながら畳まれた。

間に合った。かろうじて。

だが、フィーネの大剣の刃元に、薄く霜のような亀裂が走っていた。刃文に沿って、白く細い筋が枝分かれし、結晶格子の一段深い層まで、何かが侵入した痕跡を残していた。分解の縁が、掠めたのだ。

「……っ」

蝙蝠鬼の一体が、カイの肩に爪を立てた。結界を畳んだ瞬間の隙。血が飛んだ。痛みは遠く、ただ、熱い。肩甲骨の裏で、筋が一本、弾ける感触がした。

ハルの矢が頭上で三本、続けて放たれた。蝙蝠鬼が二体、地に落ちた。フィーネが大剣で残り二体を薙ぎ払う。亀裂の走った刃は、それでも折れなかった。折れなかったが、鋼の芯で、何かが軋んでいた。

静寂が戻った広間で、カイは肩を押さえて膝をついた。結晶の反射が、膝の影を二重に映している。

「……すみません」

「謝るな。立て」

レナの声は低かった。怒りではない。呆れでもない。もっと冷たい、——評価する声だった。

「お前の力は、強い。強すぎる。強いだけの支援は、仲間を殺す」

カイは顔を上げた。フィーネが、亀裂の走った大剣を掲げて、こちらに見せていた。刃の白い筋は、洞窟の薄明かりの中で、細い血管のように脈打って見えた。

「次、これが仲間の首にかかったら、どうする」

フィーネの声は、静かだった。

言葉が、喉の奥で潰れた。

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同じ刻、ギルド本部の受付。

ガルドの拳が、受付卓を叩いた。木が軋み、羊皮紙の山が崩れた。

「Cランクだと? 『鉄壁の剣』が、Cランクだと?」

「格付け見直しは規則でございます。十層で撤退、負傷者二名、結界不全を記録しております」

受付職員の声は、抑揚がなかった。ガルドの肩越しに、ドルクが床を見つめている。ベインはいない。左腕の毒が深く、治療院に回されたままだ。

ミレーヌは、柱の陰に立っていた。

視線の先には、掲示板。新しい速報が貼られている。

「暁の旅団、九層『反響の広間』攻略完了——臨時支援枠・カイ」

指先が、短剣の柄に触れた。汗で緩んだ革。この革を締め直していたのは、誰だった。

「おい、ミレーヌ」

ガルドの声。ミレーヌは振り返らなかった。

「——聞こえてるんだろうが」

振り返った。ガルドの目は、昨日より赤い。寝ていない目だ。

「聖都の坊主じゃ話にならん。新しい支援を探す。それから——あいつの情報を探れ」

「……あいつ?」

「カイだ。何をやっていた。どこで拾われた。洗いざらい出せ」

ミレーヌの指が、短剣の柄を握った。刃の根元に錆が浮かないよう、毎晩油布で拭っていたのも、誰だったか。

「……それは、もう、私たちの仕事じゃない」

声が、出た。自分で驚くほど平らな声だった。

ガルドの眉が跳ね上がった。手が伸びて、ミレーヌの襟を掴んだ。受付職員が息を呑む音。羊皮紙の山が、もう一度、床に崩れ落ちた。

店の外で、風が鳴った。掲示板の羊皮紙が一枚、剥がれかけて揺れている。

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拠点への帰り道、カイは一人で先を歩いていた。

肩の傷は治療済みだった。フィーネが黙って包帯を巻き、ハルが薬草を足してくれた。フィーネの手は大剣を握る手にしては妙に節度があり、包帯の端を結ぶ指先が、ほんのわずかに震えていた。レナは何も言わずに大剣の刃を検分し、鍛冶屋の場所だけを告げた。誰も、カイを責めなかった。責めないことが、かえって重かった。言葉にされない落胆は、叱責よりも深く、胸の底に澱のように沈んでいく。

路地の石畳に、夕日が長く影を引いている。橙色の光が、石と石の継ぎ目に溜まり、カイの足音を一歩ごとに吸い込んでいった。

胸の奥で、封印紋の残滓が、また一度脈打った。

白衣の老人の声が、霧の奥から浮かんだ。

——いつか解ける日が来たら、逃げろ。

次の言葉が、今日は、少しだけ近かった。

——だが、逃げきれなかったら——

続きは、まだ聞こえない。

カイは支援杖を握り直し、顔を上げた。石畳の先、拠点の門が見えている。その門の前で、レナが腕を組んで立っていた。夕日を背負い、顔は影になっている。肩のあたりで、麻の作業着の繊維が一本ずつ、赤く燃えているように見えた。

「カイ」

声が、風より先に届いた。

「明日、十二層に行く」

足が、止まった。

「制御は、実戦で磨け。逃げ場のない場所で、仲間の横に立て」

レナが腕を解いた。影の中で、剣ダコのある指が、こちらに差し出されていた。

カイは、その手を握り返した。指先が、まだ、少しだけ熱かった。

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