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万象の支援魔導士

第2話 第2話

第2話

第2話

三層の広間に残された足跡は二組だった。巡回員と名乗った男——エルダの足音は、カイが振り向く前に坑道の奥へ消えている。Sランクの気配が完全に絶たれるまで、三呼吸。

カイはその場から動かなかった。指先を何度も握っては開く。感覚は元に戻っている。分解の光はもう出ない。だが、出し方は分かる。意識を向ければ、いつでも。

指の関節に、焦げた草の匂いが染みついている。B級災獣の残滓は空気中に溶け切って、証拠は何もない。あるのは、胸の奥でまだ微かに脈打つ熱——封印紋が砕けた痕だけだ。幼い頃、白衣の老人が泣きながら刻んだ紋。その残り火。

階段を上る。一層に戻るまでに十分。足は勝手に動いた。坑道の出口を抜けた瞬間、喧騒が耳を打った。

冒険者通りの昼下がり。屋台の串肉の匂い、荷車の軋み、依頼書を貼り替えるギルド職員の声。いつも通りの光景——ではなかった。

人だかりができている。掲示板の前だ。

カイは足を止めなかった。止めるつもりはなかった。だが人垣の隙間から、大きく貼り出された速報が視界に入り、歩幅が半拍だけ乱れた。

「『鉄壁の剣』、十層攻略中断——結界不全により前衛二名負傷、撤退」

赤い印が押された羊皮紙。昨日までカイが座っていた末席の、その更に後ろで守り続けていたパーティの名前。

「おい、これ昨日の朝出発した奴らだろ?」

「Aランクが十層で撤退ぇ? 結界士、入れ替えたのか」

「聖都から呼び寄せた万能型だろ、あれ。紹介料だけで金貨三十だってよ」

「三十? 支援術士一人に?」

野次馬の声が背中に張り付く。カイは振り返らず歩を進めた。胸の封印紋の残滓が、また一度だけ、軋んだ。

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同じ日の、二刻前。

十層罠回廊、最奥の広間。ガルドの大剣が血と状態異常の粘液で汚れている。壁にもたれたドルクの左腕が、毒胞子で紫に腫れていた。ベインは床に片膝をついて息を荒くしている。石床には割れた解毒水の瓶と、使い切られた魔石の殻。天井の苔からしたたる水滴が、魔石の殻を打って、空洞の音を立てた。

三刻前までは、順調だったはずだ。

一層、二層、三層——既知の罠座標通りに魔物を掃討し、五層で一度小休止。ここまで二年通い慣れた道だった。だが七層の落とし穴を踏んだ瞬間、ガルドは違和感を覚えた。結界の発動が、常より半拍遅い。胞子を浴びたベインの解毒に十数秒もかかった。十数秒。前の支援士なら、三秒で済ませていた時間だ。

十層の罠回廊に入る頃には、パーティの消耗は例年の倍に達していた。

「どうなってやがる」

ガルドの声が壁に跳ね返る。低く、湿った怒気を帯びた声だった。

「結界が張れねえのか、てめぇは」

新入りの支援術士——聖都から呼び寄せた万能型——が杖を握り直した。歳は二十そこそこ。顔色が白い。指先が小刻みに震え、杖頭の触媒石が点滅する度に、その明滅が回廊の壁に歪んだ影を投げた。

「張ってはいます。ですが、この階層の魔力流は……想定より、複雑で」

「言い訳はいい。解毒は」

「状態異常が三種重なっています。順番に解除するしか——」

「順番に、だぁ?」

ガルドが大剣を床に叩きつけた。石片が飛ぶ。刃の縁から、粘液と一緒に乾きかけた血が、糸を引いて垂れた。

「前の野郎は、同時にやってたぞ」

新入りが視線を泳がせた。三重状態異常の同時解除。教科書には「不可能」と書かれている技術だ。王宮魔導院の古文書の、そのまた脚注に「理論上は可能」とだけ記された領域。

ドルクが床の上で咳き込んだ。紫に腫れた左腕を、辛うじて動く右手で押さえている。

「ガルド……一旦、退こう。ベインの傷が深い」

「……ちっ」

舌打ちがして、撤退の合図が出た。

ミレーヌは、一言も発していなかった。

支援術士の少年が解毒水を配りながら震えている横で、彼女は壁に背を預け、天井の苔を眺めていた。この回廊の構造は覚えていた。落とし穴は六箇所、胞子トラップは二箇所。前回の攻略では、誰かが秒単位で展開タイミングを合わせていた。誰がそれを組み立てていたか。誰が、夜通し座標を計算し直していたか。誰が、出発前夜に必ず全員分の水筒の口を拭って、傷薬の封を一つずつ確かめていたか。

「カイがいれば」

口から、勝手に言葉が漏れた。

ガルドの視線が突き刺さった。

「なんだと?」

「……いえ」

「言ったな。もう一度言え」

ミレーヌは目を伏せた。指先が短剣の柄を握りしめている。汗で緩んだ革の柄——そういえば、この柄を何度も締め直していたのは誰だ。刃の根元に錆が浮かないよう、毎晩油布で拭っていたのは誰だ。

「何でもありません」

ガルドが鼻で笑った。だが、ドルクとベインの目には、今まで見たことのない色が浮かんでいた。

不信。

それが誰に向けられたものかは、まだ、誰も口にしない。ただ、回廊を戻る足音だけが、妙に揃わなかった。二年間、一度も乱れなかった足並みが、今日に限って、半拍ずつずれている。

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夕刻、冒険者通りの裏路地。

エルダが指定した酒場は、看板もない小さな店だった。入口の暖簾をくぐると、薬草と炙った肉の匂いが鼻を突く。カイは奥の個室に案内された。

木の卓の向こうに、三人。

中央の女が立ち上がった。銀灰色の短髪、金属光沢のある細身の剣を背負っている。歳はカイとそう変わらない。

「レナだ。暁の旅団の隊長をやっている」

差し出された手は、掌に剣ダコがあった。握手を返すと、レナはカイの指先を一瞬見て、目を細めた。支援術士の指には、普通、ここまで固い胼胝はつかない。

「エルダから聞いた。三層でB級災獣を分解したらしいな」

「……はい」

「見せろ」

卓の上に、鉄の杯が置かれた。水が半分入っている。

「その水だけ凍らせろ。杯は傷つけるな」

試験だった。万象操作の制御を見るための、最小課題。周囲の喧騒が遠のく。カイは息を整え、指先に意識を集めた。水分子の結合を選別する。杯の鉄原子には触れない。水だけ。卓の木目の一筋まで、視界の端が研ぎ澄まされていく。

指先から淡い光が伸びた。

杯の水が、上から順に結晶化していく。下半分の鉄肌には、霜ひとつ立たない。水面に薄く張った氷が、まるで鏡のように天井の梁を映した。

レナの隣の男が、低く口笛を吹いた。向かいの女剣士が身を乗り出す。

「……支援魔導士、でしたよね?」

「形式上は、そうです」

カイは指先の光を畳んだ。封印が砕けた余韻で、まだ制御は粗い。さっきの凍結も、意識しなければ杯まで凍らせていた。それを、この場の誰にも悟られないように顔を伏せる。

レナが椅子に座り直した。指先で卓を二度、軽く叩く。何かを決めた合図のような、短い音だった。

「臨時枠で入れ。報酬は折半。装備は暁の旅団で用意する。条件はひとつ」

「ひとつ?」

「俺たちを『使える仲間』として扱え。守るべき荷物、じゃなくて」

カイは一瞬、言葉を失った。五年間、一度も言われたことのない台詞だった。末席の椅子の脚が軋む音まで、今も耳に残っているのに。喉の奥で何かが詰まり、息が浅くなる。

「……分かりました」

「決まりだ」

レナが手を叩き、店の主人に何かを告げた。すぐに、四人分の皿が運ばれてきた。湯気の立つ鍋、焼いたパン、香草を散らした肉。鍋の縁でコトコトと鳴る音が、妙に遠く聞こえる。

「座れ。話は食いながらだ」

カイは椅子に腰を下ろした。向かいにレナ、左右に二人の新しい仲間。卓の端ではない。末席では、ない。

手が、少しだけ震えた。

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器を受け取る指先で、胸の奥がまた一度だけ、熱を持った。

砕けた封印紋の残滓。白衣の老人の、泣き顔の記憶。封印を刻むとき、老人は「いつか解ける日が来たら、逃げろ」と言った。「だが、逃げきれなかったら——」その続きを、カイはまだ、思い出せない。

「どうした」

レナが覗き込んだ。

「……いえ」

カイは首を振り、匙を握った。今は、考える時じゃない。目の前の湯気の向こうに、初めて対等な顔が並んでいる。それだけで、胸の熱は少しだけ和らいだ。

酒場を出る頃、空は群青に沈んでいた。路地の石畳を歩きながら、カイは懐の支援杖を握り直す。

ギルドの掲示板の方向から、風が吹いてきた。

その風に、微かに血の匂いが混じっていた——まだ、誰も知らないどこかの十層から、流れてきた匂いだ。

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