第1話
第1話
夜明けまで、あと三刻。
カイは宿舎の地下工房で、四人分の装備を並べていた。ガルドの大剣は刃こぼれが三箇所。ミレーヌの短剣は柄の革が汗で緩んでいる。前衛二人の胸当ては魔獣の体液で防護紋が半分溶けかけていた。
「……また誰も言わなかったな」
独り言は工房の石壁に吸い込まれて消える。五年間、ずっとこうだ。迷宮から帰還すると全員が酒場に直行し、カイだけがここに残る。装備修繕。結界座標の再計算。翌日の魔力供給に備えた自己回復。パーティ「鉄壁の剣」がAランクを維持できている理由は、この地下室にある。
だが、誰も知らない。
魔力を指先に灯し、ガルドの大剣に修復術式を流し込む。刃こぼれが塞がり、鋼の粒子が再結合していく。支援魔導士の仕事だ。鑑定石に映るステータスは攻撃力E。それがカイという人間の全評価だった。
胸当ての防護紋を書き直しながら、明日の攻略ルートを頭の中で組み立てる。十層の罠回廊。魔力感知型の落とし穴が六箇所、状態異常を撒く胞子トラップが二箇所。前回の攻略時に記録した座標を元に、結界の展開タイミングを秒単位で設計する。
この作業を、パーティの誰かに説明したことは一度もない。説明しても理解されないと知っていたからだ。ガルドにとって支援魔導士とは「後ろで突っ立っている奴」でしかない。
最後の胸当てに防護紋を刻み終えたとき、東の窓から薄明が差し込んだ。
三刻。今日も眠れなかった。
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朝の酒場は喧騒に包まれていた。冒険者たちが依頼書を奪い合い、給仕が皿を運び、どこかのテーブルで昨夜の戦果を自慢する声が響く。
カイは隅の席で干し肉を齧りながら、パーティの到着を待っていた。修繕した装備は全員の部屋の前に置いてある。礼を言われたことはない。気づかれてすらいないかもしれない。
「おう、カイ。今日は迷宮じゃねえ。ギルド本部に集合だ」
ガルドが酒場の入り口から声を投げた。Aランク冒険者にふさわしい体躯と、それ以上に大きな声。周囲の視線が自然と集まる。
「昇格審査の件で査定会議がある。全員来い」
昇格審査。Aランクからの昇格となれば、Sランクだ。カイは干し肉を飲み込み、席を立った。
ギルド本部の会議室は磨かれた石造りで、壁には歴代のSランクパーティの名が刻まれた銘板が並んでいる。長テーブルの上座にガルドが座り、右にミレーヌ、左に前衛のドルクとベイン。カイは末席だった。いつも通りの配置。
「単刀直入に言う」
ガルドが腕を組んだ。
「Sランク昇格審査に向けて、パーティ編成を見直す。具体的には——非戦闘員の整理だ」
空気が変わった。ドルクとベインが目を見開く。ミレーヌは視線を落とした。
「カイ、お前のことだ」
分かっていた。分かっていたはずだ。五年間、この瞬間がいつか来ることを。
「攻撃力E。五年経っても変わらない。Sランク審査に支援特化の荷物を連れていく余裕はねえんだよ」
「支援の代替は」
カイは静かに訊いた。声は震えていない。
「もう当たりをつけてある。聖都から来た回復術士だ。攻撃もできる万能型。お前の十倍は使える」
嘘だ、とカイは思った。結界維持と状態異常解除と魔力供給を同時にこなせる術士は大陸に五人といない。だがそれを証明する手段がない。鑑定石はカイの支援能力を数値化しない。映るのは攻撃力Eという烙印だけだ。
「お前の支援? 代わりはいくらでもいる」
ガルドが脱退届をテーブルに滑らせた。
カイはミレーヌを見た。五年間、唯一まともに会話をしてくれた相手。視線が一瞬だけ交差し——ミレーヌは目を逸らした。
それで十分だった。
ペンを取り、署名した。インクが羊皮紙に染みる音が、やけに大きく聞こえた。
「装備は部屋の前に置いてある。全部修繕済みだ」
それだけ言って、カイは席を立った。腰のポーチと、使い古した支援杖。身一つ。五年間の全てが、この二つに収まった。
酒場の扉に手をかけた瞬間、背後でガルドの笑い声が響いた。
「やっと荷物が減ったな」
ドルクとベインの追従する笑いが続く。ミレーヌの声だけがなかった。
扉を押し開けると、朝の陽光がカイの顔を打った。冷たい風が頬を撫でる。春先のはずなのに、肌寒い。
胸の奥で、何かが軋んだ。
鈍い痛みが一瞬走り、すぐに消える。カイは無意識に胸元を押さえたが、何も見つからない。古い火傷痕のような紋様が服の下にあることを、彼自身ほとんど忘れていた。幼い頃に刻まれたそれが何なのか、誰も教えてくれなかったから。
──別に構わない。
足を踏み出す。ギルドの掲示板の前を通り過ぎるとき、低階層迷宮の討伐依頼が目に入った。報酬は雀の涙。だが今のカイには、それしかない。
──五年間、あいつらの命を守ってきた手だ。自分一人くらい食わせられる。
依頼書を一枚剥がし取り、カイは冒険者通りを歩き始めた。振り返らなかった。
背後のギルド本部では、ガルドが上機嫌で昇格審査の書類を広げている。その書類の隅に記された注意書き——「パーティ支援力の数値低下が認められた場合、審査は即時中断される」——を、誰も読んでいなかった。
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翌朝、カイは迷宮の入口に立っていた。
低階層用の第三坑道。壁面に苔が光り、湿った空気が肺を満たす。かつてはパーティの後衛として結界を張る側だった。今は一人で、前も後ろもない。
支援杖を握り直す。攻撃魔法は使えない。だが、支援魔法を転用した戦い方なら五年間で嫌というほど磨いてきた。
一層の岩蜥蜴を結界の圧縮で押し潰し、二層の毒蛾の群れを状態異常反転で自滅させる。支援魔導士の教科書にない戦術。正規の冒険者が見たら眉をひそめるだろう。だが、動く。確実に動く。
二層を抜け、三層への階段を降りた瞬間——空気が変わった。
魔力の密度が跳ね上がっている。この階層にあるべき濃度じゃない。カイの肌が粟立った。支援魔導士として五年間培った魔力感知が、明確な警告を発している。
階段の先の広間に、それはいた。
体長四メートル超の甲殻魔獣。背中の装甲が暗紫色に脈動し、六本の脚が石床を抉っている。B級災獣——本来なら七層以深にしか出現しない個体だ。
逃げるべきだ。支援魔導士一人で相手にできる存在じゃない。
だが退路は、ない。魔獣がこちらに気づいた。
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甲殻が軋む音と共に、魔獣が突進した。
カイは結界を展開——砕かれた。一撃で。Aランクパーティの全攻撃を受け止めてきた結界が、紙のように破れた。
衝撃波がカイの体を壁に叩きつける。背中に激痛が走り、視界が白く弾けた。
そのとき、胸が灼けた。
服の下の紋様が赤熱し、亀裂が入る音がした。骨が砕けるような、それでいて何かが解き放たれるような——
封印紋が、砕けた。
洞窟全体が震えた。カイの体から溢れ出した魔力が空気を歪ませ、壁面の苔が一瞬で灰になる。指先が光を帯びた。見たことのない光だ。自分の魔力のはずなのに、全く別の何かが目を覚ましたような感覚。
魔獣が二撃目を繰り出す。
カイは反射的に手をかざした。
指先から放たれた力が、魔獣の甲殻に触れた瞬間——甲殻が分解された。分子の結合が解け、構成要素がバラバラに崩壊していく。甲殻だけじゃない。筋繊維、骨格、魔力核。全てが「要素」に還元され、空気中に溶けるように消滅した。
B級災獣が、跡形もなく消えた。
静寂が戻った洞窟で、カイは自分の手を見つめていた。指先がまだ淡く光っている。この力を、知っている。名前は思い出せない。だが体が覚えている。幼い頃、白衣の老人が泣きながらこの力を封じた記憶が、霧の奥から浮かび上がる。
「——万象操作」
声に出した瞬間、名前が確かなものになった。物質を、魔力を、構成要素の水準で操る始原の術式。封じられていた。ずっと、封じられていた。
「見事だな」
背後から声がした。振り向くと、広間の入口に一人の男が立っていた。軽装の革鎧に、腰には何の飾りもない剣が一本。だが纏う魔力の質が違う。カイの感知が即座に判定する——Sランク。
「エルダ。しがない迷宮巡回員だ」
男は名乗り、カイの胸元——砕けた封印紋の痕跡——に視線を落とした。
「その力、ギルド長に報告していいか」
カイは数秒、黙った。昨日まで自分は「荷物持ち兼雑用」だった。誰かに報告され、誰かの都合で使われ、誰かの判断で捨てられる。それが五年間の全てだった。
「好きにしろ。ただし——」
まだ光の残る指先を握り込んだ。
「俺はもう、誰かの駒じゃない」
エルダが口の端を上げた。「面白い」とだけ呟き、踵を返す。その足取りに迷いはなかった。
カイは洞窟の天井を見上げた。砕けた封印紋の残滓が、胸の奥でまだ熱を持っている。この力が何なのか。なぜ封じられていたのか。答えは何一つない。
だが、一つだけ確かなことがある。
もう二度と、末席には座らない。