Novelis
← 目次

錬金厨房、静かな村の片隅で

第3話 第3話

第3話

第3話

椀を置いた手が、少しだけ強張った。

慎重な足音は二つ。片方はわずかに引きずるような重さがあり、もう片方はそれを気遣うように半歩遅れて続いている。扉の外で止まった。息遣いまでは聞こえない。けれど、小屋の敷居の向こうに誰かが立っている気配は、朝の光そのものの質が変わったことで分かった。差し込む日差しに、人影が二つ、長く伸びて板の上に重なっていた。

しばらく待った。声をかけるべきか、こちらから名乗るべきか、それすらも分からなかった。前世では、客が来るといえば宅配便の人か、年に一度の実家の母くらいで、その二人にすら「はい」と短く応じるだけだった。見知らぬ人を迎えるときの言葉というものを、自分はひとつも持ち合わせていない。

やがて、影の片方が膝を折って身を屈めるのが見え、低いしわがれた声がした。

「……どなたか、おられるかね」

老いた声だった。年齢の深さが、ゆっくりとした一音一音のあいだに滲んでいた。

「甘い匂いが、森の方まで流れてきたもんでな。この小屋は、もう長いこと空き家のはずだったが」

答えようとして、喉が一度詰まった。前世では会議の冒頭に挨拶を省いた同僚を小さく叱った覚えがあるのに、今はその自分が、たった三文字の「はい」すら口に出せない。月露草の蒸気がまだ室内に漂っていて、その甘い青さを、外の二人も確かに嗅いでいるはずだった。

「——います」

ようやく声が出た。自分の声なのに、久しぶりに聞いた他人のもののように、か細かった。

傾いた扉の隙間から、白髪の老夫が顔を覗かせた。日に焼けた浅黒い肌、深い皺の奥で細められた茶色い瞳。その後ろから、小柄な老婦がそっと肩を寄せる。二人とも粗い麻の上着を着て、袖口が擦り切れていた。老婦の左手には、蕪らしき根菜を二つ、布で包んで抱えている。

「お若いの、顔色がまだ青い。昨日来られたばかりかね」

老夫の声は、相手を警戒させないための柔らかさを身につけた声だった。長く他人と暮らしてきた者の声。扉の向こうから二人分の匂いが届いた——薪の匂いと、干した薬草の匂いと、それから煮物の残り香のような、どこか懐かしい暮らしの匂い。

「……この小屋に、昨夕、ですが」

短く答えると、老婦が目尻に優しい皺を寄せた。

「匂いに引かれちまってね。畑の支度の途中で、主人がどうしても確かめに行くと聞かなくて」

頷きながら、体が勝手に動いた。鍋にはまだ湯が残っている。鉄鍋を軽く揺すって量を確かめ、椀をもう二つ探した。寝台の下と、竈の脇にひとつずつ、縁の欠けた木椀が転がっていた。袖で拭い、湯気の中でもう一度すすいだ。

この時、頭の芯で、また細い音が鳴った。

月露草の葉束をもう一握り、鍋に足した。湯が再び青みを帯びるのを見ながら、指先が勝手に、竈の脇に落ちていた根に近い茎の白い部分を拾い上げていた。前世の知識が、動作のほうから先に蘇ってくる。香気の主成分は葉先に、苦味を和らげる糖は茎の下部に、腹を温める辛味は根に寄る。粉砕して、加熱して、抽出する時間を分けてやる。それは論文ではなく、台所で繰り返されるべき手順だった。

指先が茎をちぎり、湯に沈める。と、またあの静かな流れが腕を遡ってきた。情報が、今度は素材の「扱い方」として降りてくる——茎は七呼吸、葉は三呼吸。先に茎、後から葉。それ以上煮ると甘露が壊れる。

言葉にすれば呪文めいて聞こえるその指示を、体は素直に受け取った。心のどこかで、前世の自分が苦笑したかもしれない。検証手順も、有意差もない、こんな勘のような作業に身を委ねるなど、かつての自分なら絶対にしなかった。けれど、茎の白さが湯の中でほどけていく様子を見ていると、不思議と揺るがなかった。この湯は、ちゃんと正しい方へ進んでいる。

老夫婦は扉の前に立ったまま、部屋に入ろうとはしなかった。踏み込めば押し売りになる、とでも考えているふうだった。老婦が抱えていた蕪を布ごと敷居の内に置き、「使ってくだされば」と小声で言う。受け取る前に、こちらが先に手を動かしていた。

「……よければ、これを」

椀に新しい湯を注いだ。青い甘さに、茎の白い澄みが加わって、色がひとつ深くなっている。湯気が立ちのぼる。二人に、椀をひとつずつ差し出した。老夫は最初、受け取ることを躊躇った。指先が空中で止まり、目がこちらの顔を窺った。無償でこれを差し出すのかと、疑っているのではなく、その意味を計りかねている顔だった。老婦の方が先に両手で椀を受け取り、「……ありがとう」と、ほとんど声にならない声で言った。

二人が口をつけるのを、板の上に腰を下ろして見ていた。

老婦が、まず一口。湯を舌に乗せて、喉へ送った。それから、二口目の前で、小さく息を止めた。胸の奥でひとつ、何かが震えるのが、椀を持つ指の先に伝わって見えた。指の節は長年の畑仕事で太く、爪のあいだには洗い切れない土が薄く残っていた。その指が、椀の縁を、まるで割れ物の卵を支えるように細心に握り直す。もう一口。彼女は目を閉じた。瞼の縁に、水が溜まっていくのが分かった。閉じた瞼の下で、眼球がわずかに動いていた。何か遠い記憶を、湯の温度が呼び起こしているのかもしれなかった。喉が小さく上下するたび、首筋に浮いた細い筋が、ゆっくりと緩んでいくのが見えた。

老夫は、湯気の向こうで瞼を細め、口をつけるまでに長い間があった。一口、含んだ。ゆっくり噛むように舌の上で転がし、飲み下す。喉仏が上下した。その動きのあと、彼は椀を両手で包むようにして、じっと膝の上で見つめていた。肩が、わずかに震えていた。震えは肩から肘へ、肘から手首へと伝わり、椀の中の湯面に、ごく小さな波紋が幾度も走った。波紋は青い水面に光の輪を描いては消え、また描いては消えた。彼の呼吸が、深く、長くなっていくのが、麻の上着の胸元の上下から見て取れた。

「……こんなに、美味しいものは」

老婦が、指の甲でそっと目尻を押さえた。

「初めてでございます。こんなに、腹の底まで、温かくなるものは」

老夫は何も言わなかった。ただ、椀の縁を指で撫でて、もう一口含んで、顎の下で止まったまま、しばらく動かなかった。乾いた頬を、一筋だけ、透明なものが降りた。それを拭おうともしなかった。皺の谷を辿って、ゆっくりと、雫は顎の先まで降りていき、そこで一度、光の粒となって留まった。やがて、ぽつりと膝の麻布に落ちて、小さな黒い染みになった。彼はそれにも気づかぬふうで、ただ椀の中の青い湯を、初めて見るもののように覗き込んでいた。

こちらの胸の奥で、錆びついた何かが、ほどけていく音がした。

前世で、品質試験の合格印を押された製剤を誰かに渡したことは何千回もあった。けれど、それを受け取った人の顔を、自分は一度も見たことがなかった。薬は流通網の先で溶けていき、飲んだ人の体にも、自分にも、何も残らなかった。この一杯は違った。差し出した湯が、目の前で、二人の体の中に入っていく。そして二人の頬を、見たこともない速さで緩めていく。それは、自分が作ったものが初めて誰かに届いた瞬間であり、届く、ということが何なのかを、今ようやく教えられた瞬間でもあった。

頬を伝う前に、手の甲で急いで拭った。気づかれたくなかったわけではなく、この時間に自分の感情を混ぜたくなかった。二人が味わっているものを、ただ、邪魔したくなかった。

老夫が、椀を胸の高さまで持ち上げて、長く息を吐いた。吐かれた息は湯気と混じり合い、朝の光の中で一度白く渦を巻いてから、ゆっくりと天井のほうへ昇っていった。

「お若いの。この草は、この辺りでは見たことがない」

問うてはいない。確かめる声だった。

「小屋の裏手に、群生が」

答えると、二人は顔を見合わせた。言葉のない会話が、夫婦のあいだを一度だけ往復した。視線の交差には、長い年月をかけて育てられた信頼の重さがあった。老婦が、椀の底に残った最後の一口を大切に飲み干して、それから敷居の内側に置き直した蕪の包みを、両手でそっとこちらへ押し出した。布の結び目は不器用に、けれど何度も結び直された跡があり、彼女がこの蕪を手放すまでに少しの逡巡があったことを物語っていた。

「明日、もう少し、持ってきてもようございますか」

声が、さっきよりほんの少しだけ、張りを取り戻していた。

頷いた。何度も頷いた。言葉を選ぼうとして、選び切れないまま、ただ頷いていた。

二人が立ち去ったあと、扉の向こうに残された足音が、来たときよりも軽くなっているのが分かった。引きずるような重さは、まだ完全には消えていないけれど、朝露を踏む音のあいだに、どこか弾むものが混じっていた。

板の上に、老婦が置いていった蕪がふたつ、布に包まれたまま、朝日を浴びて静かに光っていた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 錬金厨房、静かな村の片隅で | Novelis