第3話
第3話
雨は王都の石畳を黒く濡らし続けていた。
リュートは路地を一つ折れ、また一つ折れた。目的地はない。ただ、人通りの多い大通りから遠ざかる方へ、体が自然に向かっていく。大通りでは、仲間だった三人の誰かとすれ違うかもしれなかった。それが一番、避けたかった。肌着の襟から伝い落ちる雨の冷たさより、視線が合ってしまうことの方が、いまは遙かに寒い。
左腕の紋様は、さっきから一定の拍で疼いていた。心臓の鼓動とは別の、もう一つの脈。それが雨粒の落ちる速度と奇妙に噛み合い、皮膚の内側で小さく波打つ。右手の指先でなぞると、紋様の走る線の上だけ、皮膚がわずかに熱い。三年間、少しずつ溜まり続けた他人の呪毒。昨夜、一晩かけて中和しきれなかった分が、雨に呼ばれて形を取り直しているのが分かった。
裏路地の突き当たりに、古い酒場の裏口があった。庇が石壁から二尺ほど突き出している。その下に、樽を重ねた小さな空間があった。リュートは身を屈めて入り込み、湿った木の壁に背中を預けた。麻の端切れを頭からかぶり直す。
膝を抱えて座る。爪先に水が溜まる。
肌着の胸元に、右手をそっと当てた。そこに杖はなかった。革鎧もなかった。三年間、自分の体の一部のようにしていた重みが、全部、さっきの机の上に置いてきた。胸元にあるのは、濡れた麻の布と、自分の鎖骨の骨の線だけだ。
——別に、構わない。
もう一度、そう唱えた。唱えれば唱えるほど、それが自分に言い聞かせている言葉だと分かった。だが、言い聞かせている相手が自分しかいないのだと気づくと、息が少しだけ楽になった。
雨の音が、屋根瓦の上で次第に細くなった。夜が近づいている。
樽の隙間から、酒場の厨房の匂いが漏れてきた。油で焼いた肉と、焦げた葱の匂い。腹は鳴らなかった。呪毒を引き受けた翌日は、いつもそうだ。胃の奥が鉛のように冷たくて、食欲が遠くに行ってしまう。代わりに、口の中に薄く鉄の味が残っていた。舌の奥を歯で軽く噛んで、リュートはそれを確かめた。
まだ生きている。そういう確かめ方しか、今夜の自分には残っていなかった。
やがて雨が止み、庇の縁から水滴だけが不規則に落ち続けた。一滴、間を置いて、二滴。リュートはその音を数えながら、浅い眠りに落ちた。
目を覚ましたのは、路地の東の空が鈍い鉛色に変わる頃だった。
石壁に凭れた背中が、芯まで冷えていた。首を回すと、骨が低く鳴った。膝を抱えた姿勢のまま眠ったせいで、両の太腿に感覚が戻らない。指で押すと、固くなった筋が鈍い痛みを返してくる。動かさないと、このまま石になってしまいそうな気がした。右手で左腕の紋様を確かめる。黒い線は、昨夜よりやや薄くなっていた。雨と、呪毒と、眠り。どれが効いたのかは分からない。
樽の隙間から外を見る。路地の奥で、掃除夫が石畳を箒で掃いていた。音が乾いている。雨は上がっていた。
リュートは立ち上がった。膝が笑い、壁に手をついてようやく体を支える。麻の端切れを肩にかけ直し、路地を抜けた。
冒険者ギルド王都本部の建物が、朝の光の中で鈍く白んでいた。正門の前にはもう人だかりがある。朝一番の掲示板更新を待つ冒険者たちだ。革鎧の擦れる音、鉄具の鳴る音、誰かが欠伸を噛み殺す声。それらの混ざった人いきれの中に、リュートは顔を伏せ、人混みの端に紛れ込んだ。誰の肩にも触れないよう、息さえ細くした。
「おい、見ろよ。『蒼雷の剣』のやつ」
誰かが声を上げた。リュートは目だけを上げた。
掲示板の中央に、大きく墨書された紙が貼られている。墨はまだ乾ききらず、紙の縁が朝の湿気で僅かに反り返っていた。
『勇者パーティ「蒼雷の剣」、紅蓮の迷宮最深部踏破——リーダー・グレンの蒼雷一閃、致死級呪毒を跳ね返して紅蓮獅子を断つ。王都冒険者の到達点、ここに極まれり』
致死級呪毒を、跳ね返して。
リュートは、自分の左腕の紋様に、反射的に右手をやった。袖はなかった。剥き出しの肌の上で、指先が黒い線の縁を探し当てた。指先の腹が、紋様の縁の僅かな段差を捉える。そこは皮膚が薄く盛り上がり、内側に何かが沈んでいるような触感があった。
跳ね返した、のか。
跳ね返したのではない。引き受けたのだ。三年間、毎度毎度、自分が——。喉の奥でその言葉が膨らんで、やがて、出口を見つけられずに静かに沈んだ。誰に言うでもない言葉は、口の中で鉄の味と混ざって消えた。
酔客のざわめきのような笑い声が、掲示板の周りから上がった。「さすがグレンだな」「Bランクの神官、明日入るらしいぜ」「Cランクの回復術師、いい加減切ったって話だろ」——言葉は、次々に耳を滑り、どれも皮膚の一枚下には届かなかった。ただ一つ、「切った」という短い動詞だけが、左腕の紋様の上に薄く貼りついた。
リュートは掲示板から目を外した。
もう、この街には居場所がなかった。抜けたのではなく、切られた。その言い方が正しいのだと、掲示板の前で初めて腑に落ちた。腑に落ちた瞬間、胸の内側が、ふっと軽くなった。
それは、希望とは違った。荷を下ろしたというより、荷ごと自分の半身が削げ落ちたあとの、奇妙な軽さだった。
——遠くへ行こう。
昨夜の雨の中で決めたことを、もう一度、口の中で確かめた。今度は、さっきよりはっきりした声で。
人混みを抜ける。石畳の上で踵が乾いた音を立てた。靴の中の水は、一晩で冷え切った体温とほとんど同じ温度になっていた。
王都の西門に向かって歩いた。荷馬車が集まる場所だ。辺境や地方の町へ向かう隊商が、朝の早い時間に列をなして出発する。
門の手前に、荷馬車が三台停まっていた。二台は鉱石らしい荷を積み、屈強な護衛が数人、馬車の傍で煙草を燻らせている。話しかける隙はなさそうだった。煙草の煙が朝の冷気の中で白く立ち上り、護衛の一人がリュートの方を一瞥して、すぐに興味をなくしたように顔を背けた。
三台目は、一番小さな幌馬車だった。幌布は色褪せ、車輪の木が所々すり減っている。馬は年老いた栗毛で、口の周りに白い毛が混じっていた。御者台には、肩に薄い毛織を巻いた老婆が一人、手綱を膝に載せて座っている。
リュートは近づき、立ち止まった。
「すみません」
声が掠れた。老婆は首だけ回した。深い皺に囲まれた目が、リュートの全身をゆっくりなぞった。肌着、剥き出しの腕、足元の濡れた靴、肩にかけた薄い麻布。それから、左腕の黒い紋様。
老婆の視線が、紋様の上で一瞬だけ留まった。だが何も言わなかった。驚きも、憐れみも、目の奥に浮かべなかった。ただ、見たものを見たままに収めた、という顔をしていた。リュートはその顔に、なぜか少しだけ救われた。
「辺境の方へ行かれるなら……乗せていただけませんか。金は、ありません」
言い終えてから、自分の声の薄さに気づいた。頼むというより、ただの自白に近い声だった。
老婆は、ふっと息だけで笑った。
「兄さん、何もないね」
「はい」
「装備どころか、靴までずぶ濡れだ」
「はい」
老婆は手綱を膝の上で小さく動かしてから、御者台の隣を顎で示した。
「乗んな。辺境はね、どこもかしこも人手不足だよ。手が二本あれば、食うには困らない」
リュートは顔を上げた。老婆は既にこちらを見ていなかった。前を向き、馬の耳の動きを追っている。
「ただし一つだけ約束しな」
「……はい」
「その左腕のこと、あたしには隠さなくていい。隠すなら他のやつにも隠し通しな。中途半端が一番、兄さん自身を壊すよ」
リュートは返事ができなかった。代わりに頷いた。喉の奥で、何か熱いものが一度だけ上がってきて、また静かに沈んだ。泣くには、体の水分が足りなかった。
御者台の隣の板に、片手をかけて体を引き上げる。尻の下の木は乾いていて、雨の残りはどこにもなかった。掌に伝わる木の温度は、夜のあいだに陽の名残を細々と蓄えていたらしく、ほんの微かに、生き物の体温に似ていた。
老婆が舌を鳴らすと、老いた栗毛が一歩、踏み出した。車輪がゆっくり回り始め、王都の西門が、肩越しに遠ざかっていく。
リュートは一度だけ振り返った。雨の上がった王都の空に、昨日までの自分が残っているような気がした。掲示板の前に立ち尽くしていた、薄い影のような自分が。
だが、振り返ったのはその一度きりだった。
左腕の紋様が、馬車の揺れに合わせて、今度はゆっくりと、静かに脈を打っていた。