第3話
第3話
霧が薄れかけた森の奥、薬草の群生地に着いたとき、レンは空気の匂いが変わったと気づいた。 濡れた土と苔の匂いに、一筋、獣の脂の匂いが混じっている。古い血の臭いも滲んでいた。月牙草の銀緑が下草の間に点々と光っていたが、どの株も根元が踏み荒らされ、群生の中央に獣道のような押し倒された痕が走っていた。 ——魔獣の縄張りだ。 レンは杖の握りを一度、持ち替えた。初期装備の木の杖は、魔力伝導率がDランク相当。上位魔法を通せば逆に爆ぜる恐れがある。三重結界は張れる。四重は、昨夜の疲労が抜けきっていない今の自分には厳しい。 背後の足音が、先ほどから消えている。 森の入口から気配を探っていた何者かは、薬草地の手前で追跡を止めたらしかった。代わりに、別の気配がある。もっと低く、もっと重く、下草の奥で呼吸を殺している類の気配だった。 レンは採取袋を腰から外さず、杖を構えたまま、しゃがんだ。月牙草を一本、根から引き抜く。袋に入れる。二本目。三本目。指は動かしながら、視線は群生地の向こう側の茂みに固定していた。 依頼は二十本。それだけ抜けば銅貨三十枚。途中放棄すればギルドの信用が落ちる。信用が落ちれば、次の依頼が受けられない。 ——それだけだ。 単純な理屈しか、今の自分には残っていない。 八本目を抜いた瞬間、茂みが、震えた。
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下草が一気に割れた。 飛び出してきたのは、黒い毛並みの四足獣だった。体高はレンの胸ほど。背中から首筋にかけて鉄片のような鱗が並び、牙は人の腕ほどの長さに伸びている。『影牙狼(シャドウファング)』——ギルド図鑑でBランクに分類される、単独行動型の捕食者。 レンは即座に結界を展開した。 「——三重盾(トリプルバリア)!」 杖の先端が鈍く光る。薄青い膜が三層、身体の前方に重なった。影牙狼が跳躍し、そのまま結界に牙を突き立てる。一層目が砕ける音が、ガラスを殴る音に似ていた。二層目に牙が食い込む。ぎ、と歯車の軋みに似た音を立てて、二層目も罅割れた。 ——速い。Aランク魔獣並みの膂力だ。 三層目で辛うじて牙を受け止めた。影牙狼は一度跳び退き、低い姿勢で地を滑るように回り込んでくる。獣の姿が、霧の中に溶けたように見えた。影の中を縫う体術——図鑑の記述通りの特性だった。 レンは後方へ三歩、飛び退いた。背中が大木の幹にぶつかる。逃げ道が塞がれる。樹皮の湿った冷たさが、麻のシャツ越しに背中へ染みた。心臓が肋骨を内側から殴っていた。 影牙狼が、二度目の突進に入った。 レンは右手の杖に魔力を流し込んだ。掌に痺れが走る。杖が軋む。魔力伝導率の低い木が、レンの出力に耐えかねて内側から熱を持ち始めていた。木目に沿って、焦げ臭い匂いが立ち昇る。 「——結界、強化!」 薄青い膜が四層、重なった。四層目を編み上げた瞬間、こめかみの奥で視界が白く飛んだ。魔力が急速に抜けていく。足元が揺れる。 影牙狼の牙が、四層目にぶち当たった。 砕けたのは、結界ではなく、杖だった。 乾いた破裂音と共に、レンの右手の中で木の杖が真っ二つに折れた。熱を帯びた破片が掌を裂き、血が手首を伝って滴る。四層結界は、杖を失った瞬間に霧散した。 影牙狼が、三層目の結界を砕いた。 二層目を砕いた。 一層目に牙が届く距離まで、二秒もかからなかった。 レンは膝をついた。 魔力は、底を突いていた。 折れた杖の柄を握り直す。杖の形を失った木片は、もう魔力伝導体として機能しない。ただの枝と同じだった。三年、この杖一本で食いつないできた。折れる瞬間など、想像したこともなかった。 影牙狼の鼻先が、目の前にあった。 牙の隙間から、生温い息が顔に吹き付ける。腐った肉の臭いが鼻腔を灼いた。獣の瞳孔は縦に裂け、深い琥珀色の奥で赤い火が揺れている。牙の付け根には、前の獲物らしき布地の切れ端が絡みついていた。乾いた黒褐色の染みが、それが何であったかを雄弁に語っていた。 ——ここで死ぬのか。 そう思ったのと、ほとんど同時に、胸の奥で何かが軋んだ。
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昨夜、宿で感じた軋みとは違う。もっと大きく、もっと深く、骨の髄を割るような振動が、肋の内側から背骨を伝って頭蓋まで昇ってきた。歯の根が細かく鳴り、舌の奥に鉄の味が滲んだ。 頭蓋の奥で、鍵が外れる音がした。 視界が、反転した。いや——切り替わった、というべきだった。 影牙狼の黒い毛並みが、透けていた。皮の下、肉の下、骨の奥。獣の体内を走る魔力の線が、鮮明に光って見えた。青白い糸が背骨を縫い、四肢の筋肉に分岐し、牙の付け根で小さな渦を巻いている。渦の中心——喉元の下、心臓よりやや前方。そこに、太い魔力の結節が脈を打っていた。 魔力器官。獣を獣たらしめている、魔力の心臓。 ——そこだ。 視界の端に、銀の文字列が流れた。
【守護神の系譜・解放】 【魔力視認——対象の魔力構造を可視化】 【支援術式・単点解放——魔力供給経路を一点集中】
レンは自分が何を読んでいるのか、半分も理解していなかった。だが身体は動いていた。折れた杖の破片——その鋭く尖った断面を、左手で握り直した。右手を破片の先端に添え、絞り出すように残りの魔力を送り込む。 魔力が、通った。 伝導率最低の木片が、驚くほど素直にレンの魔力を受け取った。断面がほのかに白く光る。いや、光っているのは木ではなかった。自分の支援魔法を、自分自身の手の中の武器に通している。三年間、他人の剣と杖を強化し続けてきたその術式を、初めて、自分の武器にかけていた。指先から肘まで、細い電流に似た痺れが走り、それは痛みよりむしろ、長く凍えていた腕がようやく熱を取り戻したような感覚に近かった。 破片の先端が、青白く鋭く震えた。 「——貫け」 レンは呟いた。声に気負いはなかった。そこを突けば終わる、という事実だけが、視界の中で静かに光っていた。 影牙狼の牙が、最後の結界を砕き—— レンは、踏み込んだ。 地を蹴った足が、藁人形のように軽かった。疲労が抜けたわけではない。魔力が満ちたわけでもない。ただ、無駄な場所に流していた魔力が、一点に収束していた。それだけで、身体は嘘のように動いた。 破片の先端が、影牙狼の喉元に触れた。 触れた、だけだった。 触れた瞬間、獣の体内で青白い魔力の糸が、一斉に断線した。結節が、内側から破裂する音が、レンの掌に直接伝わった。ぶつ、ぶつ、ぶつ、と糸が引き千切れていく振動。獣の動きが、空中で止まった。 影牙狼は、声を上げなかった。 重さを失った身体が、横倒しに落ちた。地面に沈んだ黒い毛並みから、ゆるゆると魔力の霧が漏れ出し、朝の大気に溶けていく。牙はもう、動かなかった。 レンはその場に膝をついた。 右手から、折れた杖の破片が転がり落ちる。破片の先端に、血は付いていなかった。皮膚を切り裂いた傷跡すらない。獣の内側を、魔力だけで砕いた証だった。 視界の銀の文字列が、ゆっくりと薄れていく。 胸の奥の軋みは、すでに鎮まっている。何かが起きた、という感覚だけが、指先に余韻として残っていた。自分の手でありながら、自分の手ではないような、奇妙な距離が掌と意識の間に横たわっていた。 ——今の、は。 自問に、答えは返らなかった。
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森の奥から、駆けてくる足音が幾つか重なった。 四人。重装の気配、軽装の気配、足運びから斥候一、術師一。レンは振り返らなかった。振り返る余力がなかった。 茂みを割って姿を現したのは、大柄な男だった。亜麻色の短髪に日焼けした肌、肩に背負った大剣には鎖の紋章が刻まれている。リグレスでその紋章を知らない冒険者はいない。Aランクパーティ『鉄の誓約』のリーダー、マルクス。 マルクスは倒れ伏した影牙狼を一瞥し、それから、レンの右手に転がった折れた杖の破片に視線を落とした。視線がもう一度、獣の喉元に戻る。そこに外傷がないことを確かめたらしい。 息を、呑む音がした。 「——おい」 声は低く、掠れていた。 「今のは、何だ」 レンが口を開く前に、マルクスは一歩、踏み出した。 「お前、自分が何をやったか、わかっているのか」 返事はできなかった。 マルクスの唇が、ゆっくりと動いた。 「——神代支援術だ。五百年前に失われたはずの」 霧が、ひとひら、薄れた。