第3話
第3話
光が、まだそこにあった。 朝の井戸は、昨夜とは違う姿を見せていた。水面の青い輝きは消えていたが、代わりに石組みの縁のあたりに、小さな光の粒が漂っていた。朝霧の中で、それはあまりにも淡くて、目の錯覚と区別がつかなかった。 ハルトは傾いた扉を開けて、朝の冷気に顔をしかめた。三日目の朝。背中の痛みには少しだけ慣れた。慣れたというより、気にする余裕がなくなっただけかもしれない。干し肉の残りを数えると、あと二日分。その先をどうするかは、相変わらず考えていなかった。考えようとすると、胸の奥に鈍い重さが広がるので、意識して避けていた。 井戸に近づいて、水を汲もうとした。 手が止まった。 井戸の縁に、何かがいた。手のひらほどの大きさの、光の塊。蛍のように明滅するのではなく、呼吸するようにゆっくりと膨らんだり縮んだりしている。薄い青緑色で、輪郭はぼんやりとしていた。朝の光の中で見ると、まるで水滴を集めて形にしたようだった。 ハルトは息を止めた。 錬金術師としての知識が、頭の中で高速に回り始めた。発光性の鉱物結晶ではない。生物発光の粘菌でもない。形が安定しすぎている。そもそも、浮いている。重力に逆らって、石の縁の上で静かに浮遊している。 精霊だ。 文献でしか読んだことがなかった。王都の書庫には、辺境の精霊に関する記録が数冊あった。だが薬務院では「未検証の民間伝承」として扱われていて、まともに研究した者はいなかった。ハルト自身も、半ば伝説の類だと思っていた。
光の塊が、ゆらりと揺れた。 そして、声がした。 「……みず」 声というにはあまりに微かで、耳で聞いたのか、頭の中で響いたのか判然としなかった。風が草を撫でるような、かすれた音。 「……きれい、みず」 ハルトは井戸の縁に手をついたまま、動けなかった。石の冷たさが掌に染みる。光の塊が——精霊が、こちらを向いた気がした。目があるわけではない。前も後ろもわからない、ただの光の塊だ。それなのに、視線のようなものを感じた。 「……おまえ、くさ、わかる?」 くさ。草。ハルトは口を開きかけ、閉じた。開いて、もう一度閉じた。自分が何に返事をしようとしているのか、整理がつかなかった。 「わかるか、と訊いているのか」 精霊がほんのわずかに明るくなった。肯定の意味なのだろうか。 「……わかる。薬草のことなら」 言ってから、また妙な気分になった。もう錬金術師ではないと、昨日まで思っていたのに。草のことがわかるかと訊かれて、反射的にそう答えた自分がいた。 精霊は光を震わせて、ふわりと浮き上がった。井戸の縁を離れ、ゆっくりと北のほうへ漂っていく。二歩ほど進んで、止まった。振り返るように、光がこちらを向いた。 「……こっち」 ついてこい、ということらしかった。 ハルトは少し迷った。見知らぬ光に導かれて山の中に入るのは、常識的に考えれば愚かなことだ。だが、常識的に考えるなら、崩れかけた小屋に寝泊まりして干し肉を齧っていること自体が、すでに愚かだった。 革鞄から調合ノートだけを抜き取り、腰の後ろに差した。乳鉢は重いので置いていく。それから、朽ちた棚の裏に落ちていた麻袋を拾い上げ、肩にかけた。薬草を入れるためではない。何となく、手ぶらで歩くのが落ち着かなかっただけだ。
精霊は、待っていた。ハルトが小屋を出ると、また北へ向かって漂い始めた。速くはない。人が歩くよりも少し遅いくらいで、低い草の上をすべるように進む。時折、朝露を纏った草の穂先に触れると、雫がぱちんと弾けて光の粒が散った。 小屋の裏手を抜けると、道らしい道はなくなった。斜面を縫うように獣道が伸びていて、その脇に背の低い灌木が茂っている。足元は柔らかい腐葉土で、踏むたびに湿った匂いが立ちのぼった。朝の空気はまだ冷たかったが、歩いているうちに体が温まってきた。上を見上げると、針葉樹の梢の間から朝の光が筋になって差し込んでいた。光の筋の中を、小さな虫が踊るように飛んでいる。 精霊が、止まった。 「……ここ」 灌木の根元を示している。ハルトはしゃがんで、枝をかき分けた。 湿った土の中に、肉厚の葉が広がっていた。深い緑色で、裏側が銀色にうっすらと光っている。葉脈が赤く浮き出ていて、茎は太く、しっかりと地面に根を張っている。 「ニガナグサ」 声が自然に出た。鎮痛と解熱を兼ねる薬草で、栽培は難しいが野生のものは効能が高い。薬務院では乾燥させたものを取り寄せていたが、生のニガナグサを見たのは初めてだった。葉に触れると、指先にかすかな苦味が移った。土の湿り気と混ざった、鮮烈な青さだった。 精霊が、もう少し先へ漂っていった。 「……もっと」 次の場所は、苔むした岩の陰だった。そこには、細い茎に小さな鈴のような花をつけた草が群生していた。スズシロバナだ。止血に使う。花弁が朝露に濡れて、白い花が透き通って見えた。 さらに歩いた。渓流の音が近づいてきて、水辺の湿った斜面に出た。そこには見たことのない草が生えていた。太い地下茎から鮮やかな黄緑の葉を出し、茎の節ごとに小さな紫の斑点がある。 「……これ、いい」 精霊の声には、どこか誇らしげな響きがあった。 ハルトはしゃがんで葉を手に取り、匂いを嗅いだ。清涼感のある、だが奥に甘さを含んだ香り。文献で読んだことがある。ミナヅキソウ——消炎と組織修復の両方に効くとされる薬草で、群生地は限られ、王都では高値で取引されていた。 「こんなところに生えているのか」 精霊がくるくると回った。嬉しいのか、ただそういう動きをしただけなのか、わからなかった。
ハルトは三種の薬草を丁寧に摘み、麻袋に入れた。根を傷めないように、必要な分だけ。指先が覚えている摘み方だった。茎の節の少し上を、爪で切るのではなく、折るようにして分ける。薬務院で最初に教わった技術で、それだけは体が忘れていなかった。 摘みながら、頭の中で勝手に調合が組み上がっていく。ニガナグサの葉を乳鉢で擂り潰し、スズシロバナの花弁から抽出した液で練り合わせれば、基本的な傷薬になる。ミナヅキソウを加えれば、消炎効果が上乗せされる。配合の比率も、乾燥の手順も、手が覚えている。 やめろ、と自分に言い聞かせた。誰のためにも調合しなくていいと、あの夜に決めたはずだ。 だが指先は、薬草の茎の太さを測り、葉の弾力を確かめ、最適な採取部位を見極めている。十年の習慣は、たった三日では消えなかった。それが腹立たしくもあり、同時に、どこか安堵に似た感覚がわずかに胸をよぎった。 麻袋の中で、三種の薬草がかすかに香りを放っていた。混ざり合った匂いは、薬務院の調合室を思い出させるものとは違っていた。もっと生々しく、青臭く、土の匂いが混じっている。乾燥した標本ではなく、ついさっきまで地面に根を張っていたものの匂い。 ハルトは立ち上がり、来た道を振り返った。斜面の向こうに、小屋の屋根がかろうじて見える。思ったほど遠くまで来ていなかった。精霊が案内した場所は、すべて小屋から歩いて行ける範囲だった。まるで最初から、この距離の中にあるものだけを示したかのように。 歩き出した。朝の光が木々の間を通り抜けて、足元の腐葉土をまだらに照らしている。麻袋の重みが肩にかかる。わずかな重みだったが、革鞄ひとつで歩いていた昨日までとは、何かが違った。 ふと、気配を感じて振り返った。 精霊が、三歩ほど後ろを漂っていた。 案内は終わったはずだった。井戸のそばにいた精霊が薬草の場所を教え、それで用は済んだはずだ。なのに、帰る様子がない。ハルトが立ち止まると精霊も止まり、歩き出すとまたついてくる。まるで、そうすることが最初から決まっていたかのように、当然の顔で——顔はないが——ついてくる。 「……帰らないのか」 精霊は答えなかった。ただ淡い光を揺らしながら、ハルトの後をゆっくりと漂っていた。朝の光に溶けそうなほど薄い輝きが、木漏れ日の中を静かに泳いでいる。 ハルトは前を向き直し、また歩き始めた。追い払う理由もなかった。小屋に着く頃には、麻袋の薬草の香りと、背中に感じるかすかな温もりに、どちらも慣れ始めている自分がいた。