第2話
第2話
街道を歩きながら、何度も自分の手を見た。
光はもう消えている。さっきまで指先を縁取っていた白い燐光は、焚き火の残り火のように薄れて、今は普通の手だ。日に焼けた、剣だこもろくにない十五歳の手。爪の間に泥が詰まっていて、小指の付け根にはいつ作ったか覚えていない古い切り傷の跡がある。何も特別じゃない。村の農家の息子の手だ。
だが——身体の内側が、違う。
うまく言葉にできない。血の流れが変わったとか、筋肉が増えたとか、そういう物理的な変化じゃない。もっと根本的な何かだ。身体の奥に、底なしの井戸ができた。覗き込もうとすると暗くて何も見えないのに、そこから途方もない量の水が湧き上がってくる感覚。息を深く吸うだけで、肺の隅々にまでその「水」が行き渡るような——全身の輪郭が内側から押し広げられるような、奇妙な充溢感があった。
——万能の加護。
あの女神が言った言葉を反芻する。万能。冗談みたいな響きだ。ついさっきまで「スキルなし」だった人間に、万能ときた。
遠吠えが、また聞こえた。
足を止める。さっきより近い。森の奥からではなく、街道の左手——雑木林の向こうから響いてくる。太く、低く、腹の底を揺さぶる咆哮。シャドウファングとは格が違う。空気そのものが震えている。地面を伝って足裏にまで振動が来た。夜露に濡れた草が、音の余波でかすかに揺れた。
冒険者教本の知識が頭をよぎる。この街道沿いで、あの声量で鳴く夜行性の魔獣。該当するのはグレイプレデター。Cランク。単独行動型だが、牙に麻痺毒を持つ厄介な相手だ。Dランクパーティでは避けて通れと書いてあった。
——逃げるか。
身体が動かなかった。恐怖ではない。足がすくんでいるのとも違う。身体の奥の「井戸」が、ざわついている。何かが反応している。井戸の水面が波立つように、内側から押し返してくる力があった。逃げろという本能と、立ち向かえと叫ぶ未知の衝動が、胸の真ん中でぶつかり合っている。
雑木林の茂みが裂けた。
月明かりの下に現れたのは、灰色の毛並みをした狼型の魔獣だった。シャドウファングより二回りは大きい。肩の高さは俺の腰を超えている。黄色い瞳がこちらを捉え、低く唸った。唸り声は喉の奥から地鳴りのように連続していて、腐肉と獣脂の混じった生臭い息が、三歩先からでも鼻をつく。月光に照らされた毛並みの下で、筋肉が波のようにうねっている。一目で分かった。こいつは、殺し慣れている。
短剣を抜いた。さっきと同じ、親父の錆びた短剣。だが握った瞬間、手のひらに熱が走った。
——なんだ、これ。
熱が指から刃に伝わる。短剣の表面を、薄い光の膜が覆った。白ではない。青白い、冷たい光。刃が——震えている。まるで共鳴するみたいに、細かく振動している。柄を通じて腕の骨に振動が伝わってくる。心臓の鼓動と、刃の震えが、少しずつ同期していく。
グレイプレデターが跳んだ。
速い。だが——見える。
動体視力が変わったのか、時間の流れが遅くなったのか。灰色の巨体が空中に浮かんでいるように見えた。牙の先端まで、はっきりと。開いた顎の奥に並ぶ犬歯の一本一本が見える。牙の表面を伝う唾液が、月光を反射してきらりと光った。麻痺毒を含んだ唾液だ。あれに噛まれたら終わりだと、頭の冷静な部分が告げている。
身体が勝手に動いた。
右に半歩ずれて牙をかわし、短剣を振り下ろす。風が頬を撫でた——グレイプレデターの体毛が顔をかすめたのだ。獣の体臭が一瞬だけ鼻腔を満たす。光を纏った刃がグレイプレデターの脇腹を裂いた。手応えは——ほとんどなかった。豆腐を切ったような、抵抗のない感触。Cランクの魔獣の毛皮は鉄の鎧に匹敵すると教本に書いてあった。それが、これだ。
グレイプレデターが地面に着地し、たたらを踏んだ。脇腹から血が流れている。浅くない。だがまだ動ける。黄色い瞳に怒りが灯り、二度目の突進が来た。
今度は正面から。
避けられる。そう判断した瞬間、身体の奥の井戸から何かがせり上がってきた。
左手を前に突き出していた。意図していない。だが手のひらから——光が弾けた。
白い衝撃波。空気を叩くような破裂音と共に、グレイプレデターの巨体が横に吹き飛んだ。五メートルは飛んだ。木の幹にぶつかり、枝が折れる音がして、灰色の獣は地面に転がった。衝撃波が通り抜けた跡に、焼け焦げたような匂いが漂う。街道の砂利が放射状に弾け飛び、足元に小さなクレーターができていた。
動かない。気絶したのか、あるいは——。
俺は突き出した左手を見た。震えている。手のひらが熱い。何をした。何を撃った。皮膚が赤く染まっていて、指の一本一本が痺れるように疼いている。
あの衝撃波を放った感覚を思い出す。井戸の底から水が噴き上がるような、制御不能な奔流。意識したのは「止めたい」という一念だけで、あとは勝手に出た。
——これが、加護。
呼吸が荒い。膝が笑っている。身体は無事だが、内側がごっそり持っていかれた感覚がある。井戸の水位が一段下がったような消耗感。さっきまで全身に満ちていた充溢感が嘘のように薄れ、代わりに骨の芯まで染み込むような倦怠が押し寄せてくる。
グレイプレデターは痙攣を一度して、そのまま動かなくなった。
「……勝った、のか」
声に出してみても実感がない。Cランクの魔獣を。スキルなしの俺が。錆びた短剣と、よく分からない力で。
短剣を見る。光の膜はもう消えていた。刃に血がこびりついている。ただの古い鉄だ。さっきの輝きが嘘みたいに。血は黒っぽい紫色をしていて、鉄錆とは違う甘ったるい臭いがした。魔獣の血だ。拭おうにも布がない。仕方なく草で刃を拭い、鞘に戻した。
身体の中に意識を向けてみる。井戸は、まだある。水位は下がったが、底はまだ見えない。あの衝撃波を撃ったのは、この中のほんの一部だったのか。
——制御できていない。
冷静にそう思った。さっきの戦いを振り返れば明らかだ。短剣に光を纏わせたのも、衝撃波を撃ったのも、全部「勝手に出た」だけだ。俺の意思で起動したものは一つもない。身体が危機を感じて、勝手にスイッチが入った。それだけ。
もしあの衝撃波が味方に向いていたら。もし街中で暴発したら。
背筋が冷えた。この力は——底が見えないだけに、怖い。
グレイプレデターの死体から離れ、街道に戻った。月が高い。まだ夜明けには遠いが、街の灯りは確実に近づいている。
歩きながら、あの白い空間の女神の言葉を思い返す。
『世界の均衡が崩れている』
意味は分からない。だが、女神がわざわざ俺を選んだ理由がそこにあるなら——この力は、ただの幸運じゃない。対価がある。もしくは、目的がある。
考えても答えは出ない。今の俺に分かっているのは三つだけだ。
一つ、身体の中にとんでもない力が眠っている。
二つ、それを制御する術を俺は持っていない。
三つ——制御できないまま放置すれば、誰かを傷つける。
街の灯りが大きくなってきた。城壁の輪郭が月明かりに浮かんでいる。門の前に衛兵の松明が見えた。
たどり着いたとき、東の空がうっすらと白んでいた。門番の衛兵が怪訝そうな顔でこちらを見る。
「夜通し歩いてきたのか、坊主。商人か?」 「——冒険者志望です」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。だが、撤回する気にはならなかった。この力を理解するには、使うしかない。使い方を覚えるには、戦うしかない。
衛兵が鼻で笑った。
「ギルドは中央通り沿いだ。ま、その装備じゃ受付で追い返されるかもな」
錆びた短剣と、汚れた旅装。確かに冒険者には見えないだろう。
門をくぐった。石畳の街路に朝の空気が漂っている。パン屋の窯の匂い。荷車の車輪が石を踏む音。人の気配。生活の音。
村とは比べものにならない規模の街だった。だが今はそれを眺めている余裕はない。
視界の端で、路地裏に何かが動いた気がした。人影か、気のせいか。
——まずは、ギルドだ。
中央通りを目指して歩き出す。身体の奥の井戸が、微かに脈打っていた。まるで、この街で何かが始まると告げるように。