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継承者の痣

第3話 第3話

第3話

第3話

門は、朝陽の中でさえ闇を湛えていた。

 崩落した斜面を登るのに半刻もかからなかった。昨夜降った霧雨で土砂が湿り、足場は悪かったが、リュカにとって裏山は庭のようなものだ。三年の間に踏まなかった場所はないと言ってよい。だが土砂に埋もれた針葉樹の根を越え、灰色の石壁の前に立ったとき、ここが知り尽くした山の一部だとはとても思えなかった。

 切石の壁面は苔も地衣類もまとっていなかった。千年の土の下にあったはずなのに、昨日削り出されたかのように角が鋭い。表面にはうっすらと文様が走り、それが朝の光を受けて鈍い銀色に沈んでいる。門の高さは人の背丈の三倍はあろうか。その内側は陽光が数歩先で呑まれ、奥は完全な暗闇だった。

 左手が脈打っている。昨夜よりも強く、はっきりと。呼びかけというよりも、もはや引力に近い。身体の内側から骨を掴まれ、ゆっくりと前に引かれているような感覚。

 入口だけだ——祖父との約束を胸の中で反芻する。リュカは腰の採集袋から火打ち石と松脂の棒を取り出し、簡素な松明をこしらえた。炎が門の縁を照らすと、壁面の文様が一瞬だけ揺らめくように見えた。

 一歩、踏み入れた。

 空気が変わった。外の湿った山の匂いが嘘のように消え、代わりに石と、乾いた埃と、もうひとつ——甘い腐敗にも似た、だが不快ではない奇妙な芳香が鼻腔を満たした。通路は門の幅のまま真っ直ぐに伸び、天井は高く、松明の灯りでは上部が見えない。壁の両面に紋章が刻まれていた。祖父が語った通りだ。連なる紋章の列が、通路の奥へ奥へと続いている。

 リュカは入口を振り返った。門の向こうに朝の光が四角く切り取られ、遠い世界のように見える。ここで引き返すべきだ。依頼は入口付近の目視確認まで。それ以上は求められていない。

 だが左手が、もう痛いほどに熱かった。紋様が光を放っている。手袋越しにもわかるほど明るく、壁に刻まれた紋章と同じ律動で明滅していた。壁の紋章もまた、淡く脈打ち始めている。リュカの左手に呼応するように、あるいはリュカの左手が壁に呼応するように。

 足が動いた。引き返すつもりだった。少なくとも頭ではそう思っていた。だが身体は前に進んでいる。一歩ごとに壁の紋章の光が強まり、松明が要らなくなった。通路全体が青白い燐光に包まれ、リュカの影が長く背後に伸びている。

 通路が下り坂に変わった。緩やかに、しかし確実に地の底へ向かっている。空気はさらに濃くなり、呼吸のたびに肺が重い。足音が反響し、どこか遠くでもうひとつの足音が返ってくるような錯覚があった。壁の紋章が左右で対になり、回廊はやがて螺旋を描き始めた。降りるたびに気温が下がるはずなのに、むしろ肌は熱を帯びていく。左手から広がる熱が、全身の血管を伝って身体の隅々にまで行き渡っていた。

 どれほど降りたか。時間の感覚が曖昧になった頃、通路がふいに途切れた。

 広間だった。

 螺旋の回廊を抜けた先に、天井の見えない巨大な空間が広がっていた。松明はとうに消えている。だが見えた。空間の全体が、床に刻まれた魔法陣の光で照らされていたからだ。

 それは、陣と呼ぶにはあまりに巨大だった。

 直径にして二十間はあろうか。幾重にも重なる円環と、その中を走る無数の直線、弧、文字のようなもの。線の一本一本が青白い光を湛え、全体がゆっくりと——まるで呼吸するように——明滅を繰り返している。その中心に、石棺があった。黒い石を削り出した長方形の棺が、魔法陣の中核に据えられ、表面には壁の紋章と同じ意匠が隙間なく刻まれている。

 リュカは広間の縁に立ち尽くした。畏怖が足を縫い止めていた。これは人の造ったものなのか。千年前の魔の時代に、誰が、何のためにこんなものを。

 だが畏怖よりも強いものがあった。

 左手が、魔法陣に向かって伸びていた。自分の意志ではなかった。紋様が灼けるように光り、掌から放たれた光の筋が、床の魔法陣の線と繋がった。瞬間、全身を電流のようなものが貫いた。膝が折れ、石の床に手をついた。その手が——左の掌が——魔法陣の線に直に触れた。

 世界が、白く弾けた。

 音が消えた。視界が消えた。あるのは光だけだった。左手から流れ込んでくる奔流——それを魔力と呼ぶのだと、リュカは知識ではなく身体で理解した。血管の中を溶けた鉄が流れるような灼熱。骨が軋み、筋が引き裂かれるような痛み。叫ぼうとしたが声が出ない。身体が器であり、今その器に注がれているものは、器の容量を遥かに超えていた。

 魔法陣の光が青白から赤へ、赤から紫へと変わっていく。石棺の表面に亀裂が走った。一筋、二筋、やがて蜘蛛の巣のように全面に広がり、紋章が砕ける。封じていたものが、内側から押し開こうとしている。

 石棺が割れた。

 噴き出したのは、闇そのものだった。漆黒の瘴気が間欠泉のように噴出し、天井へ向かって渦を巻きながら立ち昇る。広間の空気が一変した。青白い燐光が瘴気に呑まれ、暗黒の中に紫の稲妻だけが断続的に走る。瘴気は意志を持つかのようにリュカの身体を包み込み、肌に触れた箇所から氷の針を刺すような冷たさが侵入してきた。

 灼熱と極寒が同時に身体を引き裂こうとしている。意識が白濁していく。最後に見えたのは、砕けた石棺の内側に横たわる——何もない空洞と、その底に刻まれた、左手の紋様と寸分違わぬ紋章だった。

 それが意味するものを理解する前に、リュカの意識は途絶えた。

 ——目を開けると、空が見えた。

 だが、それはリュカの知る空ではなかった。

 蒼穹が、薄い紫を帯びている。陽光は白ではなく淡い琥珀色で、雲の縁が仄かに赤みを含んでいた。まるで朝焼けと夕暮れが同時に訪れたような、見たことのない色彩。空気の匂いも違う。山の冷たさはあるが、その奥に甘く焦げたような——遺跡の広間で嗅いだあの芳香の残滓が混じっていた。

「……リュカ」

 祖父の声だった。掠れて、震えて、それでも確かにザールの声だった。

 リュカは自分が仰向けに寝かされていることに気づいた。背中に感じるのは土と草の感触。頭の下に、硬い膝がある。見上げると、祖父の顔があった。泥と汗にまみれ、頬に擦り傷があり、目の縁が赤く腫れている。泣いたのか。この祖父が。

「じい……ちゃん」

 声が掠れた。喉の奥が焼けたように痛い。身体を起こそうとして、全身の筋が悲鳴を上げた。指一本動かすたびに鋭い痛みが走り、ようやく首だけを巡らせると、遺跡の門が見えた。十間ほど離れた斜面の上に、灰色の石壁がある。門の内側から、まだ薄い煙のようなものが漂い出ていた。

「わしが入った時には、お前は奥の広間で倒れていた」

 ザールの声は低く、怒りとも安堵ともつかない響きだった。

「入口だけだと——言ったはずだ」

「……ごめん」

 それしか言えなかった。言い訳は何もない。祖父との約束を破った。自分の意志で足を踏み入れ、引き返せなくなった。あるいは——引き返す気がなかったのかもしれない。

「どのくらい、気を失ってた」

「丸一日だ。昨日の朝に入って、今は翌日の昼過ぎだ」

 丸一日。あの広間での出来事が、ほんの数分の記憶しかないのに。リュカは左手を持ち上げた。手袋は失われていた。露わになった掌の紋様は——変わっていた。手首から指の付け根までだったはずの文様が、前腕の半ばまで伸びている。線はより細密になり、新たな紋章が幾重にも重なり、脈動するような光はもう消えていたが、皮膚の下に沈んだ紋様そのものが以前とは比較にならない密度で腕を覆っていた。

「じいちゃん。空の色が——」

「ああ」

 ザールは紫がかった空を見上げ、長い息を吐いた。

「お前が遺跡に入った日の夕方から、こうなった。ハルトだけじゃない。見える限りの空が、全部だ」

 風が吹いた。山を越えてくる北風。だがその風にも、甘く焦げた匂いが混じっている。遺跡から漏れ出した瘴気の残り香なのか、それとも——もっと広い範囲で、何かが変わってしまったのか。

 リュカは腕で顔を覆った。紋様が広がった左腕が、視界を塞ぐ。あの石棺の中は空だった。封じられていたものは、もうそこにはなかった。ならば——砕けた封印の中身は、どこへ行ったのか。

 答えを求めるように、左腕の紋様が微かに熱を帯びた。

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