Novelis
← 目次

万象庫の社畜転生

第3話 第3話

第3話

第3話

三度目の咆哮が来る前に、俺は焚き火を蹴り散らした。

火の粉が弾けて宙を舞い、一瞬だけ周囲の木々を橙色に染める。すぐに闇が戻った。暗闘に目が慣れるまで数秒。その数秒が途方もなく長い。心臓が喉元まで迫り上がって、呼吸のたびに冷たい空気が肺を刺す。月明かりが木々の隙間から差し込んで、森の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。音の方角は——北東。距離は百メートルもない。地面を伝わる振動が足裏に来る。何かが走っている。複数。

茂みが揺れた。

出てきたのは、犬だった。いや、犬に似た何か。体高は腰くらい。灰緑色の体毛は短く密で、月光の下では苔むした岩のように見える。目が三つある。二つは通常の位置、三つ目が額の中央にあり、他の二つとは微妙に違う方向を見ている。死角がないということだ。耳が異様に長くて、蝙蝠の翼みたいに薄い膜が張っている。風が吹くたびにその膜がぴくりと動く——音を拾っているのだ。口元から涎が垂れて、焚き火の残り火を反射してぬらりと光った。獣の匂い。雨に濡れた毛皮と、生肉の腐りかけた甘ったるさが混じった臭気が、風に乗って鼻を突く。

一匹。二匹。三——四匹。

半円を描くように、俺を囲み始めている。連携が取れている。後方の逃げ道だけが開いているのは、追い込み漁の形だ。逃げた獲物を追う役がいるのかもしれない。

「……群れか」

声が震えた。情けない。だが認めよう、怖い。心拍が耳の奥で打楽器のように鳴っている。

ゲームなら最序盤のザコ敵だろう。だが俺にはレベルも武器もない。あるのは万象庫だけ。実戦経験ゼロ。テストは石と木の実と摩擦熱の三回だけ。

足元を探る。さっき火起こしに使った拳大の石がある。拾い上げた。手のひらに伝わるひんやりした重みが、唯一の安心材料だった。

先頭の一匹が低く唸り、地面を蹴った。

速い。思ったより遥かに速い。ゲームみたいにターン制じゃない。当たり前だ。爪が月光を弾いて、俺の腹を狙って弧を描く。風圧が肌を掠める。あと十センチ内側だったら腸が出ていた。

横に跳んだ。木の根に足を取られて転がる。背中に落ち葉と枝が突き刺さる痛み。肩甲骨のあたりに何か尖ったものが食い込んで、反射的に歯を食いしばる。痛覚が鮮明すぎる。こんなに体が軽いのに、反応が追いつかない。身体能力が上がっても、動かす人間の経験値がゼロだとこうなる。脳が出す指令と筋肉の反応に致命的なタイムラグがある。まるで他人の体を遠隔操作しているような感覚だ。

石を握り直す。二匹目が右から来た。

投げた。外れた。

「——くそ」

石は闇の中に消え、木の幹にぶつかる乾いた音だけが返ってくる。戦闘センスがないのは自覚していた。十五年間マウスしか握っていない手で、走る的に石を当てられるわけがない。投球フォームなんて体育の授業以来だ。あの頃ですら下手だった。

三匹目が正面から跳んだ。避けきれない。咄嗟に腕を上げた。

牙が前腕に食い込んだ。

痛い。シンプルに痛い。肉を抉るような鋭さが腕を走り、温かい液体が袖を伝う。じわりと広がる濡れた感触が気持ち悪い。自分の血がこんなに温かいということを、三十八年間で初めて知った。噛みついた魔獣の顔が目の前にある。三つの目が、至近距離で俺を見ている。瞳孔が縦に裂けていて、その奥に焚き火の残り火が映っている。涎と血の混じった匂いが鼻を突く。顎の力が凄まじい。万力で締め上げられているようで、骨が軋む音が体の内側から聞こえる。

だが——至近距離。

触れている。

『収納』。

牙が消えた。顎が消えた。頭部ごと——いや、魔獣一匹が丸ごと消えた。

腕に噛みついていた圧力がゼロになり、血だけが残る。脳の片隅に、石や熱と同じように魔獣が「在る」感覚が加わった。重い。石や熱とは比べものにならない存在感が、頭蓋の内側を圧迫する。生き物特有の脈動のようなものが意識の底で蠢いている。気味が悪い。

残り三匹が一瞬、動きを止めた。群れの一匹が目の前で消えたのだ。混乱しているらしい。耳の膜がひくひくと震えて、互いに短い鳴き声を交わしている。「キュウ」という、犬の鳴き声とは似ても似つかない金属質の音だった。

この隙に。

足元の石を拾う。今度は投げない。

左手に石を握り、右手を正面に向ける。正面の一匹に狙いを定めて——

『取り出し』。

さっき収納した魔獣が、正面の一匹に向かって射出された。

生き物を弾丸代わりにするという倫理観の崩壊は後で反省する。収納した魔獣は動きが止まっている——死んではいないが、仮死状態のようなものらしい。それが時速何キロかは分からないが、かなりの勢いで同族に激突した。

鈍い衝突音と骨が折れる音が重なった。二匹がまとめて吹き飛び、木の幹に叩きつけられる。幹が揺れて枯れ葉がばらばらと降る。片方はそのまま動かなくなった。

残り二匹。うち一匹は激突で動けない。地面で痙攣している。

最後の一匹が、尻尾を丸めて後退り始めた。三つ目が忙しなく左右に動いて、逃げ道を探している。低い唸り声はもう威嚇ではなく、怯えの音だった。

逃がすか追うか。一瞬だけ考えて——逃がした。

わざわざ追い討ちをかける趣味はない。それに、噛まれた腕が熱を持ち始めている。出血は止まっていない。脈に合わせてずきずきと痛む。

魔獣が闇に消えるのを見届けてから、俺はその場にしゃがみ込んだ。膝が震えている。戦闘中は気づかなかったが、全身に汗をかいていた。夜風が肌に張りついた汗を冷やして、一気に寒気が来た。

「……なるほど」

分かったことが幾つかある。整理する。社畜の基本はホウレンソウと振り返りだ。最悪の状況でも報告書のフォーマットが頭に浮かぶあたり、企業戦士の魂は異世界でも健在らしい。

一つ。万象庫は触れるか、極めて近い距離でないと発動しない。石を遠距離で収納しようとしたが、反応すらなかった。射程は腕の届く範囲——せいぜい二メートル。

二つ。生物も収納できる。ただし頭への負荷が段違いに大きい。石や熱は羽毛みたいに軽かったが、魔獣一匹で頭蓋の中に鉛を流し込まれた感覚がある。今も鈍い頭痛が残っている。容量に上限がある、というリルの推測は正しい。

三つ。収納したものは任意の方向に取り出せる。速度は——出す時の意識で変わるかもしれない。要検証。

四つ。俺の戦闘能力は絶望的に低い。身体は若返っても、中身は三十八年間ろくに運動していないデスクワーカーだ。逃げ足だけは速かったが、それは恐怖のおかげであって技術じゃない。

腕の傷を見る。深くはないが、放置すれば化膿するだろう。牙の跡が二列、前腕の内側に刻まれている。服の裾を裂いて簡易的に巻く。布が血を吸って、すぐに暗い色に変わった。止血はできたが、治療は素人の限界を超えている。

人里に急ぐ必要がある。

焚き火の残り火を万象庫に収納し、暗闇の中を歩き始めた。方角は——水音がする方だ。川があれば下流に集落がある。ゲーム知識だが、地理の基本でもあるはずだ。

夜明けまで歩いた。

何度か足を止めて耳を澄ませた。あの金属質の鳴き声が聞こえないか確認するために。幸い、森は静かだった。虫の声と梟らしき鳥の鳴き声だけが暗闇を満たしている。腕の痛みが歩くリズムに合わせて脈打つ。熱い。傷口が炎症を起こし始めているのかもしれない。

森が徐々に薄くなり、木々の間隔が広がっていく。足元が落ち葉から土に、土から踏み固められた道に変わった。轍の跡がある。馬車が通る道だ。

街道に出た。

東の空が白み始めて、霧の向こうに輪郭が浮かぶ。

城壁だ。

灰色の石壁が、朝靄の中にぼんやりと聳えている。高さは十メートルくらいか。所々に見張り台があり、旗が風に揺れている。壁の手前には畑が広がっていて、早起きの農民らしき人影がちらほら見える。遠くで牛の鳴き声がした。

文明だ。人がいる。飯がある。たぶん。

安堵で膝が緩みそうになるのを堪えて、街道を歩く。門が見えた。木と鉄で補強された二重門。その前に——衛兵。槍を持った二人組が、朝の冷気の中で欠伸を噛み殺している。

門の前に辿り着くと、衛兵の一人が気怠そうに視線を向けた。俺の姿を上から下まで見て——麻の服、血に染まった袖、汚れた靴——眉をひそめる。

「入街希望か」 「ああ」 「ギルド証か身分証を提示しろ」

無一文。無装備。そして——無身分。

ポケットの中身はゼロだと、さっき確認したばかりだ。

「……持ってない」

衛兵の目が冷たくなった。もう一人が槍の柄を地面に突いて、こちらに向き直る。

「身分を証明できないものは通せない。規則だ」

城壁の向こうから、パンの焼ける匂いがした。小麦と酵母の、あの素朴で暴力的なまでに食欲を刺激する香り。空っぽの胃が痛いほど収縮した。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!