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万象庫の社畜転生

第2話 第2話

第2話

第2話

リルが虚空に浮かべた画面を、ものすごい速さで操作している。指先が光の文字列を弾くたびに、白い空間がかすかに揺れた。

「……だめだ。ログにも残ってない。スキル付与の履歴には『無限収納』って書いてあるのに、実体が完全に書き換わってる」

独り言のように呟きながら、リルは画面を次々に切り替えていく。その横顔から、さっきまでの暢気さは綺麗に消えていた。

「あの、説明してもらっていいか」 「——うん。ごめん、ちょっと待って」

リルが画面を閉じ、こちらを向いた。銀色の瞳が真っ直ぐに俺を捉える。

「整理する。あなたに渡したのは『無限収納』。空間にアイテムを格納するだけの、まあ便利スキル。でも実際にあなたに宿ったのは『万象庫(パンテオン)』。これは——」

言葉を探すように、リルが宙を見上げた。

「——この世界のあらゆる"存在"を、呑み込んで、吐き出せるスキル」 「あらゆる存在?」 「物質、エネルギー、魔法、スキル、現象。理論上は——概念すら」

概念。

意味が分からない。分からないが、胸の紋様がまた一つ脈動して、白い空間の構成要素が視界の端でちらつく。この空間を形作っている"何か"の輪郭が、なぜか感じ取れる。

「なんでそんなものが俺に?」 「分からない。本当に分からない。私の権能で付与できるスキルのリストに、これは存在しない。あなたが『収納系』を望んだことがトリガーになって、世界の深層から引きずり出された——としか説明できない」

リルの声には焦りがあった。神を名乗る存在が焦っている。その事実だけで、事態の異常さは十分に伝わる。

「取り消しは」 「できない。試した。三回」 「制限は」 「たぶんある。でも私には観測できない。使いながら自分で探るしかない」

使いながら探れ。新人にマニュアルなしで現場に放り込む、うちの会社と同じ方針だ。

「一つだけ言えるのは」とリルが続けた。「容量に上限があるはず。無限なんてものはこの世界にも存在しない。それと——身体にかかる負荷。器はあくまで人間だから」

上限と負荷。覚えた。

「……転生は予定通りやるのか」 「やる。というか、やるしかない。あなたの魂はもう元の世界には戻せない。肉体がないから」

そうだった。俺は死んだんだった。食べかけのカップ麺を残して。

「転生先は辺境の森の近く。人里までは歩いて半日くらい。最低限の言語理解は付与するから、会話には困らないはず。あと——」

リルが一瞬、言い淀んだ。

「ごめんね。本当にごめん。バグで寿命を縮めた上に、よく分からないスキルまで背負わせて」

銀色の瞳が、年相応の少女のように揺れていた。神の目から、ただの子供の目に戻っている。

「謝るな。バグだったんだろう。なら誰のせいでもない」

十五年間、誰のせいでもない理不尽に耐え続けてきた。今さら神を責めたところで何も変わらない。それより——

「一つだけ聞いていいか。異世界に飯はあるか」 「……え? うん、あるけど」 「なら十分だ」

リルが目を丸くした。それから、泣き笑いのような表情を浮かべる。

「——変な人」 「十五年社畜やるとこうなる」

白い空間が、足元から光に溶け始めた。転生が始まるらしい。

「最後に」リルの声が遠のいていく。「万象庫の起動は意識に連動するから。『収納』と念じれば——たぶん動く。たぶん」

たぶん。神がたぶんって言うな。

視界が光に呑まれた。

最初に感じたのは、匂いだった。

土と、草と、湿った木の皮。鼻腔を埋め尽くす生の匂い。十五年間、コンクリートとコピー用紙とコンビニ弁当の匂いしか知らなかった嗅覚が、悲鳴を上げるほどの情報量。

目を開ける。

緑だった。

見渡す限りの木々。高い。とてつもなく高い。見上げると、樹冠の隙間から青空が覗いている。空の色が違う。東京の空より二段階くらい青い。雲が白すぎる。太陽は——二つはない。一つだ。少し安心した。

仰向けに倒れていたらしい。背中の下に落ち葉が積もっていて、起き上がるとぱらぱらと散った。手のひらで地面に触れる。土だ。冷たくて、湿っていて、指の間から細い根が覗いている。触覚が鮮明すぎる。六畳のフローリングとは全く違う手触りに、脳がまだ追いつかない。

立ち上がる。足元がふらつく。

身体が軽い。三十八歳の、運動不足で肩こりと腰痛を抱えた体ではない。見下ろすと——若い。手が若い。シワも染みもない、二十代前半の手だ。

「……マジか」

自分の声に驚いた。低い。が、以前より通りがいい。喉の奥に常駐していた疲労感がない。肩を回しても、首を回しても、あの乾いた音がしない。十五年ぶりに、体が"生きている"感じがする。

鳥の声が降ってくる。聞いたことのない鳴き声だ。虫の羽音。風が枝を揺らす音。遠くで水が流れている。情報量が多すぎて、耳が忙しい。

深呼吸をした。

肺に入ってきた空気が甘い。酸素濃度が違うのか、それともただ空気が綺麗なだけなのか。どちらでもいい。こんなに美味い空気を吸ったのは生まれて初めてだ。

とりあえず、状況を確認する。森の中。周囲に人の気配はない。装備は——何もない。リルの奴、服だけは着せてくれたらしい。麻っぽい上下。靴は革製で、最低限歩ける程度のもの。ポケットの中身はゼロ。

無一文、無装備、無身分。

「……社畜時代とあまり変わらないな」

自虐が口をついた。が、あの頃と決定的に違うことが一つある。

胸に手を当てる。紋様はもう見えないが、奥で何かが脈動しているのは分かる。万象庫。試してみるか。

足元の石を拾い上げた。拳より一回り小さい、灰色の河原石。

『収納』。

念じた瞬間、手の中の石が消えた。音もなく、光もなく。指が空を握る感覚だけが残る。

——入った。

脳の片隅に、石が"在る"という感覚がある。位置も重さも形状も、目を閉じれば手に取るように分かる。

『取り出し』。

石が手の中に現れた。温度も重さも同じ。変質していない。

「なるほど」

基本動作は確認できた。だが今は実験より先にやることがある。日が傾き始めている。リルは人里まで半日と言った。今から歩いても夜になる。

野営だ。

ゲームのサバイバル知識しかないが、やることは単純だ。寝場所を確保して、火を起こして、可能なら水と食料。

大木の根元に落ち葉を集めて寝床を作る。乾いた枝を拾い集める。火起こしは——摩擦式を三十分試して、掌が赤くなっただけで諦めかけた。

ふと思いつく。

摩擦熱。現象。リルは「現象も呑み込める」と言った。逆に、取り出すこともできるのか。

枝と枝を擦り合わせる。わずかに温もりが生まれた瞬間、その「熱」に集中する。

『収納』。

手の中から、温もりが消えた。

枝先が冷たくなっている。熱を——摩擦で生じた熱を、奪った。脳の片隅に、さっきの石と同じように「熱」が在る感覚。

落ち葉の山に枝を差し込み、先端に意識を向ける。

『取り出し』。

ぼっ、と音を立てて枝先が燃えた。

「……これは」

収納したものは、好きな場所に取り出せる。物質だけじゃなく、現象も。つまりこのスキルは——使い方次第で何にでもなる。

火が安定するまで枝を足し、焚き火の形にする。炎の揺らめきが木々の幹をオレンジ色に染めて、森の闇と境界線を引いた。パチパチと爆ぜる音が心地いい。暖かい。この暖かさには源がある。画面の光でも蛍光灯でもない、ちゃんと燃えている火の温度。

近くの茂みで見つけた木の実を幾つか収納して、安全そうなものだけ取り出した。毒があるかは正直分からない。が、万象庫に入れた瞬間、微かに「組成」のようなものが感じ取れた気がした。気のせいかもしれない。検証は明日以降だ。

硬い木の実を石で割り、焚き火に炙る。

食べた。

味がした。

苦くて、渋くて、ほんの少しだけ甘い。お世辞にも美味くはない。だが——味がする。カップ麺では感じられなくなっていた、舌の上の確かな感覚。

咀嚼しながら、火を見つめる。

異世界の夜空は暗い。街灯がないから当たり前だが、その分だけ星が多い。見たことのない星座が、手が届きそうなほど近くに瞬いている。東京では見えなかった天の川らしきものが、空を横切って白く流れていた。

ここには俺しかいない。

森の中で一人、焚き火を囲んで飯を食っている。状況だけ見れば孤独の極みだ。でも不思議と、あの六畳間で食べるカップ麺よりずっとましだった。あの部屋には何もなかった。味も、匂いも、温度も。ここには全部ある。

木の実を齧りながら、口が勝手に動いた。

「——今度こそ、誰かと」

食いたいな。こういう飯を。

言葉が焚き火の音にまぎれて消える。星だけが聞いていた。

炎が爆ぜて、火の粉が数粒、夜空に吸い込まれた。目で追いかけて——その視線が、森の奥の闇で止まった。

音がした。

低く、重く、腹の底を震わせる咆哮。

焚き火の炎が、風もないのに横に揺れた。木の実を持つ手が止まる。社畜の勘ではない。本能が告げている。あの闇の向こうにいるものは、木の実を齧る側ではない。

——木の実を齧る側を、喰う側だ。

二度目の咆哮。さっきより近い。

俺は木の実を万象庫に放り込み、腰を上げた。

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