第1話
第1話
蛍光灯が一本、切れかけてジジジと鳴いている。午前三時のオフィスで、その音だけが俺の存在を証明していた。
佐伯透、三十八歳。勤続十五年。
画面に並ぶ数字の羅列をぼんやり眺めながら、今日が何曜日かを思い出せないことに気づいた。月曜も金曜も関係ない。始発で来て終電で帰る。その繰り返しが十五年。いや、最近は終電すら逃すことが増えた。
肩が軋む。首を回すと、乾いた音がぽきりと鳴った。目の奥が重い。画面の文字が二重に滲んで、瞬きをしても焦点が合うまでに数秒かかる。コーヒーはとっくに冷めていて、紙コップの底にこびりついた茶色い輪だけが残っていた。
「佐伯くん、これ明日の朝までに頼めるかな」
課長が机の端に書類の束を置いていったのは、昨日の夜十時だった。いつものことだ。断る選択肢があった時期が、たぶんあったはずだ。思い出せないだけで。
デスクの引き出しを開ける。カロリーメイトが二本。昼飯の残りだ。夕飯はまだ食べていない。封を切ると、ぼそぼそとした欠片が唇に触れた。咀嚼するたびに口の中の水分が奪われていく。味は——チーズ味のはずだが、段ボールを噛んでいるのと大差ない。
隣のデスクは空だ。田中が辞めたのは先月。山本が辞めたのは三ヶ月前。補充はない。十五年前は八人いた課が、今は三人。仕事量は増えた。空席のモニターには薄く埃が積もっていて、誰かがそこにいた痕跡すら消えかけている。
「お疲れさまです」
誰に言うでもなく呟いて、タクシーに乗る金もないから歩いて帰る。四月の夜風が冷たい。街灯の下を通るたびに自分の影が伸びて縮んで、まるで息をしているみたいだった。すれ違う人間はいない。この時間の住宅街は死んだように静かで、自分の革靴の音だけがアスファルトに反響している。コンビニの灯りだけが温かく見えるのは、たぶん疲れているせいだ。
ワンルームの鍵を開ける。六畳。風呂なし。築三十年。電気をつけると、昨日の——いや一昨日の弁当の空容器がそのまま転がっていた。かすかに酸っぱい匂いがする。換気扇を回す気力もない。
ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
カップ麺の蓋を剥がしながら、ふと思う。今日、俺は誰かと会話しただろうか。課長の「頼めるかな」と、自分の「お疲れさまです」。それだけだ。
——十五年、こんな感じだった。
友人と呼べる人間は、いつの間にかいなくなっていた。実家とは父の葬式以来、連絡を取っていない。同期は全員辞めた。飲み会に誘われたのは、最後がいつだったか。
湯を注ぐ。三分待つ。この三分間がたぶん、一日で一番穏やかな時間だ。ケトルの保温ランプがぼんやり光って、六畳間をオレンジ色に染めている。どこかの部屋から、くぐもったテレビの音が壁越しに聞こえる。隣人の生活の気配。それだけが、この建物に自分以外の人間が住んでいる証拠だった。
啜る。味がしない。いつからだろう、何を食べても味がしなくなったのは。
食べながらスマホを開く。ソシャゲのログインボーナスだけ回収して閉じる。かつては深夜のゲームが唯一の趣味だった。最近はログインするだけで精一杯だ。
カップ麺を半分残して、床に横になった。布団を敷く気力がない。明日も始発だ。目覚ましは——
——セットし忘れたな、と思った瞬間、視界が暗転した。
あ、これ。
死ぬやつだ。
驚くほど冷静にそう思った。心臓が妙な跳ね方をして、指先がしびれていく。息が吸えない。天井の染みが視界の端でぐるぐる回って、蛍光灯の白い光が水の底から見上げたみたいに揺らいでいる。携帯に手を伸ばそうとして、そもそも救急に電話して誰かが来る頃にはもう遅いだろうと思った。
最後に見えたのは、食べかけのカップ麺だった。
まあ、そんなもんか。
十五年働いて、最期に残ったのがカップ麺の食べ残し。笑えない冗談だ。
——誰にも、気づかれないんだろうな。
意識が浮上したとき、最初に感じたのは床の硬さだった。
いや——硬さというか、温度がない。冷たくも温かくもない。無機質な白。見渡す限りの白い空間に、俺は一人で立っていた。
足元を見る。影がない。光源がどこにもないのに明るい。地面は白いが、素材がわからない。タイルでも石でもない。踏んでも音がしない。空気も無臭で、耳鳴りすらしない。完全な無音。十五年聞き続けたオフィスの空調音も、蛍光灯の唸りも、革靴がリノリウムを叩く音もない。
死後の世界、にしては殺風景だな。そんなことをぼんやり考えていると、声が降ってきた。
「起きた? よかったー」
振り返ると、少女がいた。見た目は十五、六歳。白いワンピースに銀色の髪。浮世離れした容姿だが、口調は驚くほど軽い。
「……ここは」 「んー、強いて言えば世界の狭間? あ、自己紹介するね。私、創世神のリル。この世界を作った——まあ、管理人みたいなもの」
創世神。管理人。
普通なら笑い飛ばすところだが、現状を説明できる合理的な仮説が他にない。それに、十五年の社畜生活で培った処世術がある。上司が理不尽なことを言ったら、まず受け入れろ。
「状況を整理させてくれ。俺は死んだ。で、ここにいる。あんたは神」 「うん、正解。で、ごめん。本当はもうちょっと長く生きるはずだったんだけど、システムのバグで寿命が縮んじゃって。お詫びに、異世界に転生させてあげる。スキル一つおまけつきで」
バグで死んだ。
十五年の人生が、バグ。
怒りが湧くかと思ったが、不思議と何も感じなかった。むしろ腑に落ちた。あの人生がバグだったと言われた方が、まだ救いがある。
「スキルは好きなものを選んでいいの?」 「うん。一つだけね。何がいい?」
考える。ゲーム知識が脳内を駆け巡る。攻撃系? いや、社畜に戦闘センスがあるとは思えない。回復? 地味だ。
——収納系。
あらゆるアイテムを無限に格納できるインベントリ。ゲームでは地味な部類だが、実用性は随一だ。戦闘にも生活にも困らない。何より、一人で生きていくのに向いている。
「無限収納——インベントリで頼む」 「おっけー。じゃあ付与するね——」
リルが手をかざした。光が俺の胸に吸い込まれる。
温かい。
十五年ぶりに感じる温度だった。ケトルの湯でも暖房でもない、体の内側から湧き上がるような——
刹那、光が爆ぜた。
白い空間が一瞬、漆黒に染まる。リルが目を見開いた。その表情が凍りつくのを、俺はスローモーションのように見ていた。
「え——」
彼女の声が、初めて揺れた。軽かった口調から、一切のふざけた色が消える。
「ちょ、待って。なにこれ」 「……何か問題が?」 「問題っていうか——」
リルが俺の胸元を凝視する。そこには、さっきの光とは明らかに異質な紋様が浮かび上がっていた。見たこともない幾何学模様が、脈打つように明滅している。
「あなたに渡したのは『無限収納』。でもこれ——これは違う。私が渡したものじゃない」
神を名乗る少女の顔から、完全に血の気が引いていた。
「なんで——なんでこれが、発現してるの」
答えを待たず、リルが虚空に向かって何かの画面を呼び出す。流れていく文字列は読めない。だが彼女の表情だけで、事態が想定外だということは十分に伝わった。
「スキル名、出てる。『万象庫(パンテオン)』——これ、私のデータベースにない。ないはずなのに」
万象庫。
パンテオン。
聞いたことのない名前だ。だが胸の奥で、何かが脈動している。収納とは次元が違う、もっと根源的な何かが、目を覚まそうとしている感覚。紋様が明滅するたびに、視界の端に見えない情報が流れ込んでくる。白い空間を構成する要素の一つ一つが——光も、空気も、足元の感触すらも——名前を持っているかのように、知覚の輪郭が鋭くなっていく。
リルが深呼吸をして、俺を見た。さっきまでの軽い少女ではない。神の目だった。
「——聞いて。あなたに宿ったスキルは、たぶん私の権限を超えてる。取り消せない。説明もできない。ただ一つだけ分かるのは」
彼女の声が、震えていた。
「それは『収納』なんてものじゃない。あなたは空間だけじゃなく——スキルも、魔法も、現象そのものも、"呑み込める"」
沈黙が落ちた。
白い空間に、俺とリルだけが立っている。胸の紋様が静かに明滅を続ける。
呑み込める。スキルを。魔法を。現象を。
それが何を意味するのか、まだ理解が追いつかない。ただ、社畜の勘が一つだけ告げていた。
——これは、残業では済まない案件だ。