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古代文字の魔導師

第3話 第3話

第3話

第3話

異変は三日のあいだ続いた。

 学院地下からの魔力振動は、あの夜を境に断続的に繰り返されるようになっていた。昼間は感じ取れないほど微かだが、深夜になると床石を伝わって足の裏を痺れさせる。寮生の大半は気づいていない。魔力感知に長けた上位の学生でさえ、「少し揺れた気がする」程度の認識だった。

 だがカイには分かっていた。振動のたびに、波形が変わっている。最初の夜に感じた規則的な脈動は、二日目には乱れを含むようになり、三日目の今夜は——不規則に痙攣するような、荒い波になっていた。

 何かが崩れかけている。

 カイは寮の窓辺に座り、膝の上で指を動かしていた。古式術の語根を空書きする癖が、この三日ですっかり身についてしまった。師匠リヴェルの書庫にも行けていない。地下への立入禁止令が出てから、学院全体の夜間巡回が強化され、門限破りは即座に処分すると通達されていた。

 四度目の振動が来た。今度は床だけでなく壁も震え、寮の廊下で誰かが悲鳴を上げた。

 そして——轟音。

 学院の中心、本館の方角から地鳴りのような音が響いた。窓から見ると、本館の屋根の向こうに青白い光が柱のように立ち昇っていた。光は明滅を繰り返し、そのたびに空気が軋んだ。カイの肌が総毛立った。魔力の奔流だ。微弱どころではない。学院の結界石を通り越して、剥き出しの魔力が噴き上がっている。

 廊下を走る足音が幾重にも重なった。教導師たちの怒号、寮生たちの混乱した声。カイは部屋を飛び出した。

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 学院の中庭に出たとき、そこはすでに戦場だった。

 本館の東側——地下への階段がある区画の床石が、内側から押し上げられるように隆起していた。石畳の隙間から青白い光が漏れ、割れ目ごとに魔力の奔流が吹き上がっている。空気中に漂う魔力の密度が高すぎて、息を吸うだけで肺が焼けるような錯覚があった。

 教導師が七人、隆起した床石を囲むように陣形を組んでいた。先頭に立つのはベルク教導師だ。実技試験で朗々と声を張り上げていた壮年の魔導師が、今は汗に顔を濡らし、声を絞り出すように詠唱を紡いでいた。

「第三系統封印術式、重ねがけ——」

 七人の教導師の手から、橙、青、緑——属性ごとに異なる色の光が伸び、隆起した石畳の上で格子状に交差した。封印術式だ。学院の地下を封じていた結界と同系統の、力で押さえ込む術。光の格子が床石の割れ目を覆い、一瞬、青白い噴出が弱まった。

 だが次の瞬間、格子が弾けた。

 ベルク教導師が体ごと後方に吹き飛ばされ、石畳に叩きつけられた。他の教導師たちも膝をつき、あるいは詠唱を中断して咳き込んだ。封印術式は砕かれ、青白い光がより激しく噴き上がる。

「封印が保たない——属性が噛み合わん。この暴走は通常の魔力ではない」

 起き上がったベルクが叫んだ。紺のローブの袖が焦げている。

 学院長ドルヴァンが本館から姿を現した。銀縁のローブの裾を翻し、中庭を横切ってくる。その背後から副学院長と上級教導師が続いた。

「避難命令を出せ。全寮生を南門から学院外へ退避させろ。教導師は封印の維持に当たれ——術式を第五系統に切り替える」

 ドルヴァンの声は冷静だったが、カイはその目の奥に動揺を見た。学院長とて、この規模の暴走は想定外なのだ。

 避難の号令が飛び、寮生たちが南門へ走り始めた。カイも人波に押されて動きかけた。だが足が止まった。

 隆起した床石の向こう——崩れた壁の隙間から、光が漏れていた。青白い魔力の奔流とは違う、もっと静かな、墨色に近い光。カイの目はその光に釘付けになった。

 割れた壁の断面に、文字が浮かんでいた。

 墨色の字形が、石の表面に刻まれている。魔力の奔流に照らされて明滅するその文字は——カイが見覚えのあるものだった。黒い革表紙の魔導書。あの頁を埋め尽くしていた未知の文字と、同じ字形だ。

 人波が流れてゆく。教導師たちが第五系統の封印術式を試みている。ドルヴァンが詠唱の指揮を取り、複数の属性光が再び格子を編もうとしている。だがカイの耳には、そのどれもが遠かった。

 壁の隙間に浮かぶ文字列を、カイは読んでいた。読めるはずのない文字を、しかし読んでいた。三日前にリヴェルが教えてくれた語根——「力の方向」「変換の様態」「終端」。その構造が、壁の文字列の中に見える。断片的だが、確かにある。そして文字列の配置には、あの魔導書と同じ等比の間隔が刻まれていた。

 ——これは封印術式だ。

 カイの頭の中で、断片が繋がった。壁に刻まれた古代文字は、地下を封じていた本来の封印術式の一部だ。現代の教導師たちが上から重ねた属性魔法の封印ではなく、八百年前の古式術による——文字そのものが封印として機能する術式。それが何らかの理由で綻び、魔力が暴走している。

 教導師たちの封印が、また弾けた。今度は轟音とともに床石の一部が完全に崩落し、地下へ続く暗い穴が口を開けた。青白い光が間欠泉のように噴き上がり、中庭の石畳を揺るがせた。

「第五系統も駄目か——」

 ドルヴァンの声に、初めて焦りが混じった。

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 カイは人波に逆らって歩いていた。

 南門へ向かう寮生たちの流れを遡り、崩落した区画に近づいてゆく。教導師のひとりが気づいて怒鳴った。

「寮生は避難しろ。ここは危険だ」

 カイには聞こえていた。聞こえた上で、足を止めなかった。危険なのは分かっている。だが教導師たちの封印術式が通じないのも分かっている。属性魔法の格子では、古式術の綻びは塞げない。言語が違うのだ。現代語で古語の文を書き直すことができないように、属性魔法で古式術の封印を修復することはできない。

 崩れた壁の前に立った。至近距離で見ると、文字列はより鮮明だった。墨色の光を帯びた字形が、壁の断面に三列。上の二列は整然と並んでいるが、最下段の一列が乱れている。文字の間隔が崩れ、幾つかの語根が欠落している。

 これだ。この欠落が暴走の原因だ。封印術式を構成する文字列の一部が失われたことで、術式の循環構造が破れ、封じ込められていた魔力が行き場を失って噴出している。

 カイの背後で、再び封印の光が弾ける音がした。ドルヴァンの詠唱が途切れ、教導師たちが散開する気配。もう時間がない。

 ——俺に何ができる。

 魔力測定値E。実技試験全不発。指先に光ひとつ灯せない人間に、何ができるというのか。

 だが頭は動いていた。壁の文字列を読み解く速度は、カイ自身が驚くほど速かった。上段の語根の接続から、欠落した最下段のパターンを推測できる。等比の間隔。力の方向。変換の様態。終端。リヴェルが教えてくれた基礎構造と、あの黒い魔導書で夜通し眺めた配列が、カイの中でひとつの体系として立ち上がりつつあった。理解はできる。欠落を埋める配列も、頭の中では組み上がる。

 ——ただし、俺にはそれを発動する魔力がない。

 床石が再び隆起した。足元が傾き、カイは壁に手をついた。右手の指先が、崩れた壁面の文字に触れた。

 指先が灯った。

 墨色の光が、カイの指先から滲み出していた。触れた文字が脈動し、その脈動がカイの指を伝って手首まで這い上がってくる。熱くはなかった。むしろ冷たかった。冬の朝に井戸水に手を浸したときのような、骨の芯まで透き通るような冷たさ。

 カイは自分の指先を見つめた。光っている。魔力測定値Eの自分の指先が、光っている。

 ——嘘だ。

 だが光は消えなかった。文字に触れた指先から、墨色の光が静かに、確かに溢れ出していた。壁面の古代文字がその光に呼応するように明滅し、崩れた最下段の字形の輪郭がうっすらと浮かび上がった。まるで文字のほうがカイの手を導こうとしているかのように。

 背後で、教導師の誰かが叫んだ。

「おい——あの学生、何をしている」

 カイの耳には、もうほとんど届いていなかった。指先の光は広がっている。文字列が脈打っている。体の奥底で、これまで一度も応えなかった何かが、静かに目を覚ましつつあった。

 カイは右手を壁に押し当てた。欠けた文字列に向かって、指先を伸ばす。

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