第2話
第2話
翌朝、カイは書庫の机に突っ伏したまま目を覚ました。
頬に紙の感触があった。昨夜開いたままの魔導書——あの黒い革表紙の一冊が、顔の下に広がっている。慌てて体を起こすと、頁に頬の跡がうっすらと残っていた。だが文字には何の変化もない。墨色の字形は昨夜と寸分違わぬ鮮明さで、頁の上に整然と並んでいた。
窓のない書庫では時刻の感覚が狂う。階段を上がって塔屋の小窓から外を覗くと、王都の屋根の向こうに朝日が昇りかけていた。学院の鐘楼が六の刻を告げる前だ。カイは顔を洗い、書庫に戻って魔導書を元の棚の奥に差し戻した。
——三行目と七行目に同じ字形。間隔は等比。
昨夜感じ取った規則性が、頭の中でまだ回っていた。意味は分からない。だが構造がある。構造があるということは、それは言語だ。言語であるならば、解読できる。理屈の上では。
階段を降りてくる足音がした。リヴェルだった。寝起きの白髪が鳥の巣のように乱れている。老人は台所で湯を沸かし、干した薬草を煮出して、何も言わずにカイの前にも椀を置いた。苦い香りが湯気とともに立ち上る。
「師匠」
「なんだ」
「あの棚の奥に、読めない本がありました。現代語でも古語でもない文字で書かれた——」
リヴェルの手が止まった。椀を口元に運ぶ途中の、わずかな停止。だがすぐに湯を啜り、何事もなかったように椀を置いた。
「見つけたか」
その三語に、驚きの色はなかった。むしろ、遅かったな、とでも言いたげな響きがあった。
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リヴェルは書架の奥からあの黒い魔導書を引き出し、机の上に広げた。朝の薄明かりの中でも、文字の墨色は鮮やかだった。
「これは古式術の教本だ。正確に言えば、現在の属性魔法が体系化される以前——おおよそ八百年前の魔導師たちが用いていた術式言語で書かれている」
「術式言語」
「今の魔法は属性ごとに詠唱式が定められている。火なら火の文法、水なら水の文法。だが古式術は違う。文字の配列そのものが術式になる。意味を持つ最小の単位——語根と呼ぶが、それを組み合わせて効果を記述する。属性の区別はない」
リヴェルの指が、頁の上の文字列を指した。
「この三文字で"力の方向"を示す。次の二文字で"変換の様態"。そしてこの一文字が"終端"だ。ひとつの文が、ひとつの術式に対応する」
カイは息を詰めて頁を見つめた。昨夜、無意識に感じ取った規則性——三行目と七行目の繰り返しは、同じ語根の反復だったのか。等比の間隔は、術式の階層構造を反映していたのだ。
「文字の並びに意味がある——文字が魔法になる、ということですか」
「そうだ。現代の詠唱が魔力を属性に変換する手順書だとすれば、古式術は魔力の振る舞いを直接記述する言語だ。より根源的で、より自由度が高い。そして——」
リヴェルは言葉を切り、カイの目を見た。
「より多くの魔力を要求する」
沈黙が落ちた。カイには、その意味が分かっていた。
「俺の魔力量では発動しない」
「試してみろ」
リヴェルが別の紙に一文を書いた。五文字の短い配列。古式術の最も単純な術式——指先に小さな光を灯すだけのもの、と師匠は言った。
カイは紙の上の文字を読み、その配列を頭の中で術式構造として組み立てた。語根の接続、力の流れ、終端処理。理解はできる。完璧に理解できる。右手を紙の上にかざし、体の奥底から魔力を引き上げようとした。
——何も起こらなかった。
指先は冷たいままだった。光はおろか、温度の変化すらない。昨日の実技試験と同じだ。頭では全てを理解しているのに、体が応えない。
「……やはり」
「落胆するな。今のお前に足りないのは理解ではない。魔力を術式に通す回路が、現代の方法では開かないだけだ」
リヴェルはそう言ったが、その声にはいつもの飄々とした軽さがなかった。カイは師匠の表情に、初めて焦燥に似たものを読み取った。
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その焦燥の正体を、カイは昼過ぎに知ることになった。
学院に戻ると、東棟の掲示板の前に人だかりができていた。教導師の通達が貼り出されている。カイは人波の隙間から文面を読んだ。
——教導資格審査に関する通知。
内容は事務的だった。学院外で私的に弟子を取る教導師について、指導成果の査定を実施する。成果が認められない場合、師弟契約を解除する。対象者の名は記されていなかったが、学院外で弟子を取っている教導師など、リヴェルの他に誰がいるというのか。
カイは掲示板の前を離れ、学院長室のある本館に向かった。廊下を歩いていると、角を曲がったところで学院長ドルヴァンと鉢合わせた。恰幅のよい壮年の魔導師で、銀の縁取りのある紺のローブが地位を示している。
「ああ、カイ・ヴェルト」
ドルヴァンは足を止め、カイを見下ろした。その目に敵意はなかった。だが関心もなかった。事務処理の一環として、目の前の物体を確認しているような視線だった。
「あの通達は師匠のことですか」
「リヴェル教導師の件か。名指しは避けたが、察しはつくだろうな」
隠す気もないらしかった。
「師匠の教導に問題があるとは思えません」
「問題がないのなら、成果があるはずだ。ヴェルト、お前は入学から二年——魔力測定はE据え置き、実技試験は全て不発。リヴェル教導師の古式術とやらが有効な指導法であるならば、何らかの向上が見られてしかるべきだろう」
カイは言葉に詰まった。事実だからだ。
「次の秋の査定で改善が見られなければ、師弟契約は解除する。リヴェル教導師には既に通知済みだ。これは学院の規律の問題であって、個人の感情の問題ではない」
ドルヴァンはそれだけ言うと、カイの脇を通り過ぎていった。紺のローブの裾が石畳の上を擦る音が、廊下に響いて消えた。
秋の査定まで、あと五ヶ月。五ヶ月で成果を出さなければ、師匠との繋がりが断たれる。カイの足元が揺らいだ。リヴェルの書庫は、夜ごとカイを受け入れてくれる唯一の場所だった。あの黴びた紙と革の匂いの中でだけ、カイは自分が無能ではないと信じることができた。それを失う。
廊下の壁に背をつけ、目を閉じた。まぶたの裏に、今朝見た古式術の文字配列が浮かんだ。語根の接続。力の流れ。終端処理。全て理解できているのに、指先は応えない。理解と実践の間にある深淵が、今日はいつもより暗く見えた。
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その夜、カイは書庫には向かわなかった。
学院の寮の窓辺に腰かけ、王都の夜景を眺めていた。魔石灯の淡い光が街路に点々と連なり、遠くの市壁の向こうには闇が広がっている。市壁の外は原野だ。その先に森があり、山脈があり、大陸の果てがある。カイが一度も足を踏み入れたことのない、広い世界が。
寮の床が揺れたのは、夜半を過ぎた頃だった。
最初は地震かと思った。だが揺れは地面からではなく、足元の奥底から——学院の地下から突き上げてくるようだった。壁に掛けた水差しが音を立て、机の上の羽根ペンが転がり落ちた。揺れは数秒で収まったが、代わりに空気の質が変わった。カイの肌が粟立った。魔力だ。微弱だが、確かに魔力の波動が床下から這い上がってくるのを感じた。
廊下に出ると、他の寮生たちも部屋から顔を出していた。困惑した表情が並ぶ中、階段を駆け上がってきた教導師が声を張り上げた。
「全寮生、部屋に戻れ。今夜より学院地下への立入を禁ずる。これは学院長命令である」
寮生たちがざわめいた。学院地下——あそこには旧書庫と、封印された幾つかの部屋があるとだけ教わっている。一年次の学院案内でも、地下への階段の前で引き返させられた。
カイは部屋に戻り、窓辺に座り直した。足の裏にまだ、あの振動の残響が微かにあった。波動。魔力の波動だ。微弱だったが、その波形にカイは覚えがあった。
今朝、師匠が見せてくれた古式術の文字配列。あの語根が持つ力の方向性と、今しがた足元から伝わった魔力の振動は——同じ周期で脈打っていた。
偶然かもしれない。いや、おそらくは偶然だろう。だがカイの指先が、無意識に膝の上で文字の形をなぞっていた。あの黒い魔導書の、三行目の語根を。