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古代文字の魔導師

第1話 第1話

第1話

第1話

魔力測定器の針が、Eの刻印を指したまま微動だにしなかった。

 王都マギア学院の測定室は石造りの小さな部屋で、天井近くに嵌められた採光窓から午後の陽が差し込んでいる。その光の中に、白い粒子のような埃が漂っていた。壁に掛けられた魔力等級の表——S、A、B、C、D、そしてE——が、陽光に照らされて妙に鮮明だった。カイは測定台に両手を置いたまま、硝子管の中で凝り固まった青い液面を見つめていた。液面は最低位の目盛りにわずかに触れているだけで、他の受験者のときに見せた脈動すらない。死んだ水のようだった。

「——測定値E。前回と変わらず」

 記録官の声には抑揚がなかった。慣れている。カイ・ヴェルトの名が測定簿に載るのは、もう何度目か数えるのも億劫だという声だった。

「もう一度、お願いできませんか」

「規定は年二回です。次は秋の査定時に」

 記録官は羽根ペンを置き、次の受験者を呼んだ。カイは測定台から手を離した。指先が冷えていた。石の台が冷たかったのか、それとも自分の体温が下がっていたのか、判然としない。

 廊下に出ると、壁に背を預けて待っていた数人の同期と目が合った。その中心にいるのはエルド・カーレインだった。赤い髪を後ろに流した長身の青年で、火属性の適性値がA判定——学年首席の呼び声が高い男だ。

「終わったか、カイ」

 エルドの声に悪意はなかった。むしろ、それが余計に堪えた。嘲りならば怒りで返せる。だが憐れみには、返す言葉がない。

「ああ。終わった」

「そうか」

 エルドは短く頷き、それ以上は何も言わなかった。隣にいた同期のひとりが小声で「また E だって」と囁くのが聞こえた。カイは聞こえないふりをして、石畳の廊下を歩き出した。

 靴底が床を叩く音だけが、やけに大きく響いていた。

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 午後の実技試験場は、学院の中庭に設けられた円形の演習場だった。石の観覧席が階段状に並び、同期たちが三々五々と腰を下ろしている。演習場の中央には藁と布で作られた人形が五体、等間隔に立てられていた。

 試験官のベルク教導師が名簿を読み上げてゆく。

「——エルド・カーレイン」

 エルドが演習場に降りた。右手を掲げ、二小節の詠唱。指先に橙色の炎が凝縮し、放たれた火球が藁人形を一瞬で灰に変えた。観覧席から歓声が上がる。炎の残り香が風に乗って演習場全体に漂い、カイの鼻腔を刺した。乾いた藁が焦げる匂い。それが、自分には生み出せないものの匂いだった。

「見事。火球の収束率、密度ともに申し分ない。A評価とする」

 ベルク教導師の声が朗々と響いた。エルドは軽く一礼して観覧席に戻る。すれ違いざま、カイの方を一瞥したが、何も言わなかった。

「——カイ・ヴェルト」

 名を呼ばれ、カイは石段を降りた。観覧席が急に静かになる。嘲笑を堪えている静けさだと、カイには分かっていた。

 藁人形の前に立つ。右手を掲げる。師匠リヴェルに教わった古式の詠唱を、一語ずつ慎重に紡いだ。魔力を指先に集中させようとする。体の奥底にあるはずの魔力の流れを探る。だがいつものように、指先には何も起こらなかった。温度すら変わらない。

 三度試みた。三度とも、同じだった。

 観覧席のどこかで、誰かが吹き出した。それを皮切りに、くすくすという笑い声がさざ波のように広がってゆく。カイは掲げた右手を下ろせなかった。下ろしてしまえば、もう終わりだと認めることになる。だが震える指先には、やはり何の変化も起きなかった。風が演習場の砂を舞い上げ、カイの目を細めさせた。乾いた砂の粒が頬にあたる感触だけが、やけに鮮明だった。

「——時間です。不発。E評価」

 ベルク教導師の声は事務的だった。記録簿にペンを走らせる音が、笑い声の合間に聞こえた。

「無能の弟子は今日も無能か」

 誰の声かは分からなかった。だが、その言葉は演習場の石壁に反響して、妙にはっきりとカイの耳に届いた。

 カイは黙って石段を上がり、観覧席の最後列に腰を下ろした。拳を膝の上で握った。爪が掌に食い込む痛みだけが、今この場で自分が感じられる確かなものだった。

 実技試験が終わるまで、カイはそこを動かなかった。他の同期たちが風を、水を、土を操るのを見ていた。魔法とはかくも鮮やかなものだと、誰よりも知っていた。術式の構造を、詠唱と魔力回路の対応関係を、カイは教科書を暗唱できるほど理解している。理解しているのに、指先からは何も生まれない。

 ——知っていることと、できることは違う。

 その事実が、刃のように胸を裂いた。

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 日が落ちてから、カイは師匠リヴェルの書庫に向かった。

 学院の東棟から外に出ると、王都を吹き抜ける夜風が頬を打った。春の終わりだというのに、風はまだ冷たかった。石畳の道を抜け、学院から三筋ほど離れた路地裏の古い塔屋——師匠リヴェルの住まいであり、書庫でもある場所だ。路地に入ると街灯の魔石灯が途切れ、足元は自分の靴音だけを頼りに進むしかなかった。塔屋の壁には蔦が絡みつき、屋根の一部は苔に覆われている。学院の尖塔が月光に白く輝いているのと比べると、この建物は王都の隅に忘れ去られた遺物のようだった。

 木の扉を押すと、黴びた紙と乾いた革の匂いが出迎えた。蝋燭の灯りの下で、リヴェルは椅子に深く腰を沈め、分厚い魔導書を膝に載せていた。白髪を無造作に束ねた痩身の老人で、かつては宮廷魔導師の列に名を連ねていたとは思えぬほど、みすぼらしい風体をしている。

「また来たか」

「また来ました」

 リヴェルはそれ以上何も聞かなかった。実技試験の結果を問うこともない。この老人は、カイの日中の出来事に興味を示したことがなかった。ただ、夜ごと書庫を訪れる弟子を追い返したこともなかった。

 カイは書架の間を歩いた。天井まで届く棚に、古い魔導書がぎっしりと詰まっている。王都の古書店でも見かけないような年代物ばかりだ。背表紙の文字が擦り切れて読めないもの、革装丁が崩れかけているもの。学院の図書館にある整然とした蔵書とは対極にある、雑然とした知の堆積だった。

 カイは一冊を抜き取り、読み慣れた机に向かった。蝋燭をもう一本灯し、頁を開く。古式術の術式構造に関する論考。著者は二百年前の魔導師で、現在の属性魔法体系が確立される以前の理論が記されている。

 カイはこの時間が好きだった。魔法が使えない自分を誰も笑わない。文字を追い、術式の骨格を解きほぐし、なぜこの配列でこの効果が生まれるのかを考える。その思考の中にいるとき、カイは無能ではなかった。ただの、魔法を愛する人間だった。

 二刻ほど読み進めたところで、リヴェルが立ち上がる気配がした。

「儂は先に休む。戸締まりを忘れるな」

「はい、師匠」

 リヴェルの足音が階段を上がり、やがて消えた。書庫にはカイと蝋燭の灯りだけが残った。

 もう一冊。そう思って書架に向かったとき、棚の最奥に押し込まれるように差し挟まれた一冊が目に留まった。他の魔導書よりひと回り小さく、表紙は黒ずんだ革で覆われている。背表紙に文字はない。

 引き抜くと、予想より重かった。革の表紙は指に吸い付くような奇妙な手触りで、長い年月を経ているはずなのに劣化の兆しがなかった。金具も留め紐もない。ただ革が革を覆っているだけの、素朴で、それゆえに異質な装丁だった。頁を開く。

 ——読めなかった。

 カイは眉をひそめた。文字は刻まれている。だが、現代の共通語でも、学院で教わる古語でもない。見たことのない字形が、頁いっぱいに並んでいる。インクの色は濃い墨色で、二百年前の論考よりもはるかに古いはずなのに、滲みも褪色もしていない。まるで昨日書かれたかのように、一画一画がくっきりと刻まれていた。

 読めない。だが、奇妙なことにカイの目は文字の並びから離れなかった。意味は分からない。なのに、配列に規則がある——と、どこかで感じていた。術式構造を読み解く癖が、無意識に文字の並びを分析している。三行目と七行目に同じ字形の繰り返しがある。間隔は等比。まるで、魔力回路の分岐構造のような——。

 蝋燭の炎が揺れた。窓のない書庫で、風もないのに。炎の影が書架の背表紙の上を這い、一瞬だけ文字が浮かび上がるように見えた。カイは息を詰めて頁を見つめた。目の錯覚だと分かっていた。だが心臓が、わずかに速く打っていた。カイは頁を捲った。次の頁も、その次の頁も、同じ未知の文字で埋め尽くされていた。

 指先が、無意識に文字の輪郭をなぞっていた。

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