第3話
第3話
霧の幕の向こうから、二十の蹄音が、確かに谷の喉元を叩いていた。 レイハルトの足元、樫の倒木の根方には、先ほど突き伏せた黒鋼の若い兵の死骸が、片膝を折ったまま倒れていた。咽喉から流れた血は、苔の青を潰し、根に沿って細い筋を引きながら、沢の流れへと滑り落ちてゆく。少年は折れた刃を、ふらつく指で鞘に納めようとした。だが、指先がまだ震えていて、刃の腹が革の縁を二度、三度と滑った。鉄の匂いが、自分の手首の内側にこびりついている。手の甲を口元に近づけてみて、少年は唇を噛んだ。咽喉の奥に粥のざらつきが、まだ確かに残っていた。 ロドリックは、樫の幹の上で、隊長カーランの剣先を短刀で受け流していた。老臣の動きは、半刻前に少年を背負って山道を駆けたあの背と、同じ身体のものだとは思えなかった。短刀が二度、三度、霧の白を切り、四度目で、カーランの左の二の腕に深く食い込んだ。 だが、五度目はなかった。 最後の斥候兵が、横合いから槍を突き出してきたのだ。穂先がロドリックの脇腹を、絹の上衣ごと、深く抉った。 「——ロドリック」 少年は叫んでいた。叫んだ自分の声を、自分の耳で聞いていながら、それが王子のものだとは信じられなかった。十六歳の喉から飛び出した、ただの子供の悲鳴だった。 老臣は倒木の上から落ちた。落ちながらも、短刀をもう一度、突き出していた。穂先を握ったまま、その兵の手首を、深く裂いた。槍を握った男の悲鳴と、ロドリックが苔の上に倒れる鈍い音とが、ほぼ同時に上がった。 カーランは、左腕を押さえて後ろへ跳んだ。額の古い斜め傷の上に、新しい血が一筋、流れ落ちている。男は素早く周囲を見渡し、それから、本隊の蹄音の方向へ顎をしゃくった。 「王子。本隊が来る前に、儂はこの一人を連れて退く。次に会うときは——お前の首を、刎ねる」 男の声は冷えていた。憎しみではなく、職人の声だった。カーランは、咽喉を突き伏せられた若い兵の死骸を、肩に担ぎ上げた。仲間の屍を、敵に渡さぬ作法だった。手首を裂かれた兵を引きずり、男は霧の北側へ消えた。蹄音は、そちらにはなかった。本隊は谷の入り口、村の方角からだけ、押し寄せている。
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苔の上で、ロドリックの胸が、ゆっくりと上下していた。 絹の上衣の脇腹、穂先が抉った穴から、黒い血が湧き続けている。その湧き方は、もう脈打っていなかった。少年は膝で苔を擦り、老臣の頭を自分の腿に乗せた。腿に伝わる重さは、半刻前に背負われていたときの、あの広い背の重さからは、信じられぬほど軽かった。 「殿下、お顔を、お近づけくだされ」 声は、囁きだった。少年は耳を寄せた。老臣の唇から漏れる息に、もう湿りはなかった。乾いた藁の匂いに、鉄の匂いが混じっている。 「本隊、二十騎。村の井戸の前で、伏せて討たれぬ。広い場で囲まれれば、終わりにござる」 「分かっておる。ロドリック、声を惜しめ」 「惜しんでも、もう、間に合わぬ」 老臣の指が、少年の手首を握った。皺の指は、少年の手首より、もう冷たかった。 「谷で——谷で、迎え撃ちなされ。北の樫の倒木の上ではござらぬ。村の南、礼拝堂の裏手の、あの細い谷筋。岩肌が両側から迫り、馬は二頭並べぬ。あそこで、一頭ずつに削れば、二十騎は、八騎ほどに減る」 少年の頭の中に、半刻前、土間で老臣が枝で描いた地図が、ありありと蘇った。礼拝堂——三つの石のうちの一つ。 「儂の屍は、その谷筋の入り口に、横たえなされ。儂を跨いで通る馬は、必ず脚を乱しまする。半身を斬られた屍は、馬にとっては、岩よりも厄介な障害」 「——ロドリック」 少年の喉から、声にならぬ音が漏れた。老臣は皺の奥の目を、わずかに細めた。それは、王城の謁見の間で、幼い王子が初めて剣を握ったときと、同じ目だった。 「殿下。儂は、四十年、戦場におりました。最後の戦が、儂の主の最初の戦になる——これに勝る冥利は、ござらぬ」 老臣の指が、少年の左手を、懐の書簡の上に押し当てた。 「未開封のまま。死人の手紙にしては、なりませぬぞ」 最後の息は、長くはなかった。皺の指の力が、ふっと抜けた。少年の手首の上に、もう、冷たさを伝えてくる脈は、なかった。 レイハルトは、しばらく動けなかった。 膝の上の重さが、少しずつ、地に沈んでゆくのを感じた。涙は、出なかった。代わりに、咽喉の奥に、籾の殻のざらつきが、もう一度、はっきりと戻ってきた。マルダが冷えた粥を渡したときの、あのざらつきだった。少年はその苦みを舌で確かめ、二度、奥歯で噛み砕いた。
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村の中ほどの平場、礼拝堂の前。 藁葺き屋根の二棟が、既に黒い煙を吐いていた。火種は、追討の本隊ではなかった。村に潜んでいた密偵が、二十騎の到着に合わせて放ったのだろう。煙は、薪を焚く煙とは、匂いがまるで違っていた。藁が焦げる匂いの中に、獣の脂と、人の髪の焼ける匂いが、確かに混じっていた。少年の鼻腔の奥が、その匂いに焼かれた。 礼拝堂の床下から、童たちの泣き声が、漏れていた。長老の言ったとおり、婆と童は床下に伏せている。マルダは、井戸の傍らに、片膝をついていた。手には、薪を割る斧が、一挺握られていた。爪の間の黒い土の筋は、もう、新しい灰で覆われていた。 レイハルトは、ロドリックの遺骸を、礼拝堂の裏手の谷筋の入り口まで、引きずってきた。引きずりながら、二度、苔に膝をついた。一度目は息が切れて、二度目は、左手の書簡が、懐から滑り落ちかけたからだった。封蝋は、まだ冷たかった。 遺骸を、岩肌の入り口に、横たえた。老臣の言ったとおり、半身を、自らの折れた刃で——それは、出来なかった。少年はただ、両手で老臣の絹の上衣の前を開き、脇腹の傷口を、そのまま、馬から見える向きに、晒した。腸の一部が、傷口から覗いていた。馬の脚が、必ずそれを嫌う。 「ロドリック、許せ」 声は、自分の耳にも、まだ十六歳のものだった。少年は立ち上がった。膝が、もう笑わなかった。代わりに、両の踵が、苔をしっかりと噛んでいた。 村の平場で、長老が片足を引きずりながら、井戸の傍らに集まってきた。残った男たち——五人。鋤と、鎌と、木の棒。マルダの斧。それから、礼拝堂の祭壇から外したのか、長老の手には、煤けた銀の燭台が一つ。鈍い武器ですらない、ただの祭具だった。 二十騎の蹄音が、村の入り口の井戸石を、もう叩き始めていた。 レイハルトは、震える右手で、折れた佩刀を、もう一度、鞘から抜いた。一尺三寸の刃。掌の革の縫い目には、まだ、若い兵の血が乾いていた。少年は、その刃を、ゆっくりと頭の上に持ち上げた。腕は震えていた。だが、刃は、もう、揺れてはいなかった。 集まった村人の顔を、少年は一人ずつ、見渡した。長老。マルダ。鋤を握る痩せた男。鎌を握る、まだ髭の薄い若者。木の棒を握る、片目に翳のある爺。誰一人、王子の顔を、知らなかった。誰一人、自分が今、王に仕えているとは、知らなかった。 それでも、五人と一頭分の老人と一人の女と、少年の前で、武器を握っていた。
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「礼拝堂の裏、南の谷筋へ退け」 少年の声は、低かった。低かったが、十六歳の声ではなかった。 「儂と、ロドリックの遺骸が、入り口で奴らを削る。お前たちは、谷筋の半ばで、岩を落とせ。長老、岩屋の者たちを、谷の上に集めよ。マルダ、井戸の縄を切って、村の入り口に張れ。馬の脚を、絡めるためだ」 長老が、白い髭の奥で、わずかに目を見開いた。マルダの斧が、手の中で、一度、握り直された。 蹄音が、村の井戸石の手前、十五間まで迫っていた。霧の白の向こうに、黒鋼の旗の、北方覇者の鉄の紋が、ようやく、輪郭を結び始めていた。少年は折れた刃を、もう一度、握り直した。掌の汗が、革の縫い目を、深く湿らせていた。 ロドリックの遺骸を踏んで、最初の一頭が、谷筋に踏み込んでくるまで、あと、いくつ呼吸が残されているのか。少年には、もう、数えるつもりはなかった。