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鎖の軍師、盤上の覇者

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明け前、楊豊(ようほう)の中軍に、本国の早馬が一通の文書を届けた。

赤蝋(せきろう)の封が割られ、副将が読み下した一句目で、楊豊は湯漬けの椀(わん)を取り落とした。陶の欠ける音が、まだ眠りから抜けきれぬ陣中に、妙に大きく響く。 「――鎖を、剥がしてやれだと」 楊豊の太い指が、文書の縁を握り潰した。「俺の捕囚を、俺に断りもなく、呼延豹(こえんひょう)の三千へ移すと、本国はそう書いてあるのか」 副将は短く頷いた。鄭遠(ていえん)の筆である、と一行目に明記されていた。文官筆頭が、一夜の間に、駒を一つ動かしたのである。 楊豊は怒りで顔を赤くしたが、その赤が、すぐに別の色に転じた。鄭遠が呼延豹に三千の捨て駒を下したのなら、その上に乗せる軍師など、共に黒水(こくすい)峡に葬るつもりにちがいない。捕囚を譲るのではない。捕囚も一緒に、谷へ放り込む算段だった。楊豊は察した途端、太い肩を震わせ、ふっと笑った。 「よかろう。連れて行け。鎖は外さんでよい」 「では、東の進言は」副将が低く問う。 「東は、東だ。あの捕囚の言うた通りに動かす。動かして、敗ける。敗けたあとで、鄭遠の喉を裂きに行くか、あの捕囚を黒水峡から拾い直すか、――それは、その時に決める」 楊豊は、足元の湯漬けの欠片を、踏んで割った。

出立は、未明の鼓(つづみ)三つで告げられた。

三千の兵は夜のうちに搔き集められたものらしく、半数が他の隊から強引に剥ぎ取られた者であった。鎧の縁が違う、矛の柄の握り方が違う、号令への応えの拍が、揃わない。呼延豹は雪の上にひとり立ち、それらの拍をひとつひとつ拾い、頭の中で揃え直していた。揃え直しながら、足元の雪を一握り掴んでは、握り潰す。古い凍傷の節が、握るたびに鈍い疼きを返した。 「将軍。荷の駄馬、二十頭しか下りてこぬ」 副将が走り寄って告げる。「兵糧は、五日分」 「五日か」呼延豹は雪を捨てた。「鄭遠どのは、谷の中で六日目を迎えるな、と書いておるわけだ」 副将は、唇を噛んだ。

慕容驍(ぼようぎょう)は、編成の最後尾にある護送の二輪車に乗せられた。乗せられた、というより、藁ごと放り込まれた、という方が近い。鎖は外されぬまま、車軸に新たに通された。手首の鉄環が、車軸の冷たい鉄に触れ、ちりっと焼くような疼きを返す。彼はそれを、瞬きで受け流した。 車の脇に、呼延豹が馬を寄せてきた。鞍の上から、何も言わずに、折りたたまれた竹紙を寄越す。昨夜、藁の上で広げた、あの地図であった。歩幅で測った数字と、鉛の濃淡。 「揺れる」呼延豹は、それだけ言った。「読めるか」 驍は応えなかった。竹紙を膝に乗せ、車輪の振動を測るように、指先を紙の縁に触れさせる。震えの幅と周期で、車の癖が分かる。馬の歩幅、雪の深さ、轍の硬さ、それらを脳裏の盤に置き換える。地図の数字は、揺れの中でもなお、明瞭に立ち上がってきた。 「読めまする」驍の応えは、ごく低かった。「将軍。この紙は、お返しせずともよろしいか」 「呉れる」呼延豹は馬腹を蹴った。

軍勢は、北辺の丘陵を南へ下った。雪は途中から雨混じりに変わり、轍は泥を呑んだ。三千の兵は、武辺一辺倒の将を信じる者と、本国に売られたと知って黙々と歩く者と、どちらでもなく、ただ寒さに耐える者とに、半ば自然に分かれた。呼延豹はその区分を読み、信じる者を中軍に、売られた者を後衛に、寒さに耐える者を先鋒に配した。先鋒は最も先に死ぬが、寒さに耐える者は死ぬ間際まで動く。それを将は知っていた。

二日目の夜、宿営の焚き火を一つ離れた場所で、呼延豹は副将に低く問うた。 「斉(せい)の総大将、蕭烈(しょうれつ)。お主、戦うたことはあるか」 「ござりませぬ。武勇の評判だけは」 「俺は、十二年前、一度だけ刃を合わせた」呼延豹は焚き火の枝を、ぱきりと折った。「あの男は、地形を読まぬ。だが、地形を覚える。一度通った谷を、二度目に通るとき、別の男のように動く」 「では、黒水峡を、蕭烈は」 「初めての谷だ。初手の蕭烈なら、俺の三千でも、半日は持たせられる」 副将は、口を開きかけて、閉じた。半日、という言葉は、生きて谷を抜ける数字ではなかった。 焚き火の枝が、一度、ぱちりと爆ぜる。呼延豹は焚き火の向こうに目をやった。護送の車の脇で、鎖の影が、藁の上に細く伸びていた。

三日目の昼、軍勢は黒水峡の北口に着いた。

谷は、聞きしに勝る険しさだった。東岸は深い樹林、西岸は岩肌の凍て、上流から下って来る黒い水筋が、谷の底をくねりながら抜けていく。冬枯れの蔓(つる)が岩肌に縋(すが)り、一点だけ赤い実を残した山査子(さんざし)が、風に揺れていた。雪は止んでいたが、風は変わらず東から吹き、樹林の枝鳴りが、軍勢の到着を、谷全体に低く知らせた。 呼延豹は馬を降り、谷口の岩の上に立った。 「先鋒、谷口に陣。中軍、後ろ三町。後衛、北口の坂上に伏せよ。ただし、伏せるだけだ。動くな」 号令は短かった。三千の拍が、ようやく一つに揃う。

護送の二輪車は、谷口の手前で止められた。 驍は車の縁から、ゆっくりと身を起こした。鎖はまだ外されていない。手首の鉄環が、藁を擦り、車軸を擦り、外気に触れて、白い湯気を一瞬だけ噴いた。 膝の上の竹紙を、彼はそろりと開いた。

呼延豹の歩幅で測られた数字。鉛の濃淡。樹林の深さ、岩肌の向き、上流の堰の位置。その紙の上に、谷の実物が、いま、生きた色で重なってくる。東岸の樹林の影が、紙の濃淡と寸分違わずに延びていた。西岸の凍てが、紙の薄墨と同じ角度で光を弾いた。上流の堰跡は、紙の一点を、ぴたりと指していた。 驍は、紙の縁を、一度、指の腹で押さえた。 そして、ごく薄く、笑った。

それは、六年ぶりの笑いであった。

口の端の皮膚が乾いて、ひびを割く感触がした。顎の付け根の筋が、長く動いていなかったらしく、笑むこと自体に、わずかな痛みが走った。それでも、笑った。笑わずにはいられぬ盤面が、眼前に広がっていた。 谷の上流は、堰を一夜で組める。樹林の深さは、樵夫(きこり)を装う偵騎を匿(かくま)える。岩肌の凍ては、夜半に火を仕掛ければ滑落する。そして、東から吹くこの風は、火の手を、向きを変えずに、谷の中央へ運ぶ。条件は、揃いすぎていた。揃いすぎていることが、驍にはむしろ、信じがたかった。

「軍師どの」 呼延豹が、馬を寄せた。鞍の上から、驍の薄い笑みを、瞬きもせずに見ていた。 「何が、見えた」 驍は答えなかった。代わりに、車の縁から、谷口の岩を指した。「将軍。あの岩の上に、もう一度、登っていただけませぬか」 「登って、何を見ろという」 「東から吹く、風の厚さを」 呼延豹は、何も問い返さず、岩へ戻った。

副将が、車の脇に寄ってきた。鎖の捕囚に近づく者は誰もいなかったから、その足取りは、自分で自分を励ますようにぎこちなかった。 「軍師どの。三千で、十万を、止められるか」 驍は、副将の眉間を見た。眉間に、若い汗が浮いていた。 「止めませぬ」 「では」 「呑ませまする」 副将は、息を呑んだ。

夕刻、谷の南口の方角から、馬蹄の遠音が届いた。 偵騎が走り戻り、呼延豹の足元に膝をついた。 「斉の先鋒、谷の南口、約二里」 「総大将は」 「蕭烈、本陣にて、谷の地形を、地図に描かせてござります」 呼延豹の眉が、わずかに動いた。「初めての谷を、地図に描く、か。初手の癖を、変える気らしい」 偵騎は、もう一つ報告を加えた。「斉の軍勢、十万。陣幕の数は、整然と、すでに谷を呑む形に並んでござります」

呼延豹は、岩の上で、東の風に向かって息を吐いた。白い吐息は風に押し戻され、彼の顎の下で一度ほどけ、それから、谷の中央へと細く流れていった。

そのまま岩を降り、呼延豹は護送の車に近づいた。 「軍師どの。今夜、俺の幕に、来てもらう」 鎧の擦れる音が、藁の上で重く沈む。「鎖は、外す。外して、聞きたい」 驍は、まだ薄い笑みを残したまま、瞬きで応えた。 竹紙の上の指は、堰の位置から、ゆっくりと下流へ滑り、谷の中央の一点で止まった。 鎖が、低く、長く、鳴った。

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