第2話
第2話
鎖の唸りは、藁の臭いに吸い込まれて、ふっと消えた。
呼延豹(こえんひょう)の頭は、まだ下げられたままだった。古い鎧の肩当ての金具が、息のたびに小さく軋む。雪は入口の毛氈(もうせん)の隙間からしんしんと吹き込み、土間に置かれた大刀の鞘の上に、白い線を一筋なぞって積もっていく。 慕容驍(ぼようぎょう)は、応えなかった。
藁の上で半身を起こした姿勢のまま、左手首の鎖だけが、ゆっくり一度、二度、土間を擦って身じろぎをする。応える、ということが、どういう意味を持つのか――この男はそれを、十二分に承知しているはずだった。三千を預かるとは、三千の兵を死地へ率いることではない。三千の命と、すでに将軍位を半ば剥がされた呼延豹の名と、捕囚たる己の鎖の上にうっすらと載せられた、最後の一握りの「機会」とを、同時に背負うことだ。
驍はまず、男の頭頂を見、それから古い刀傷の走る額を見、頬骨を見、髭の霜を見た。そうして最後に、土間に伏せられた大刀の柄頭を見た。柄を巻いた革紐は、汗と血で黒く沈み、ところどころ擦り切れている。武人が自身で巻き直したものらしく、結び目の癖が左右で微妙に違っていた。一方は固く詰まり、もう一方はわずかに余りを残している。急ぎの陣中で、悴(かじか)んだ指で結び直したのだろうことが、その揺らぎから読み取れた。 (この男は、自分の刀を、自分で世話する) それだけのことで、驍の脳裏の盤に、新しい青墨が一筋、静かに引かれた。
呼延豹が、ようやく頭を上げた。 「答えを、急がせはせぬ」 低い声だった。「ただ、一つだけ問わせてくれ」 驍は、瞬きで応える。 「お主、何を、見ている」
問いは短く、まっすぐだった。捕囚の眼を、鎖を、剥がして、その奥に何が据わっているのかを覗き込もうとする問いであった。六年、誰にも問われなかった一語の、もう一段奥にある問い。 驍は答えなかった。代わりに、視線を呼延豹の眼に返した。
呼延豹は、しばらく沈黙し、それから己の話を始めた。 「俺は、評定で四度、罷免の動議に晒された。理由は、いつも同じだ。三度の小競り合いで武功を挙げすぎた。挙げすぎて、文官どもの兵糧見積もりを狂わせた。挙げ方が無骨で、奏聞の文に書きづらかった。――そういう理由だ」 呼延豹は理由を一つ並べるごとに、太い指を折って数えた。古い凍傷で関節が歪み、節がいびつに膨らんだ指だった。四本目を折り終えると、彼は拳をそのまま膝の上に置いた。息継ぎが長く、白い吐息が藁の上でゆらりと散った。吐息は土間の冷気に触れて一瞬だけ形を保ち、それから、捕囚の鎖の鉄環の縁にまとわりついて、ゆるやかに崩れていった。 雪が、また入口から舞い込んだ。 「四度目は、宮中の宴で、鄭遠(ていえん)どのの盃を割った。文官筆頭の盃だ。割ったのは、酔ったからではない。あの男が、戦死した俺の副将を、『損耗物』と書いた帳面を、笑って俺に見せたからだ」 呼延豹の喉が、低く鳴った。喉仏のあたりで、何かを噛み殺すような、鈍い震えがあった。 「俺は、笑い返した。笑い返してから、盃を割った。割ってから、自分の不器用さに気づいた。割らずに、あの男の喉笛を斬っておけばよかったとな」
驍は、わずかに目を細めた。 藁の繊維が左肘の下で乾いた音を立て、鎖の鉄環が一つ、また一つ、土間の凹凸を拾って小さく鳴る。捕囚の眼は瞬きを忘れ、呼延豹の唇の端で震える皺の本数まで、数えるように見ていた。盃の朱が滲む袖と、文官の喉笛と、副将の名が記された帳面――驍の脳裏で、それらは一つの細い糸で繋がり、ぴんと張られていく。糸の張りは、彼自身の手首の鎖の張りと、奇妙によく似ていた。
「明日、三千が下る。黒水(こくすい)峡の盾。退路を断つ捨て駒だ。鄭遠の筆だろう。あの男はこういう書き方が巧い。俺の名と、三千の数と、谷の名を、ただ一行で結ぶだけだ。誰の意志でもない、ただの兵法上の必然のように読める。それを、本国の楼閣で、湯漬けでも食いながら書いたのだ」 呼延豹は、土間の大刀へ目を落とした。視線の落ち方が、鞘の積もった雪をなぞるようにゆっくりで、そこに自分の三千の兵の名を一人ひとり置き直しているようにも見えた。 「俺は、戦が嫌いになった。三月前から、嫌いになった。盃を割ったあの夜から、戦の音を聞くたびに、湯漬けの匂いがする」
驍の鎖が、わずかに鳴った。
「だが、嫌いになったまま死ぬのは、もっと嫌だ」 呼延豹は、ふいに子供のような口調で続けた。 「俺は、武辺一辺倒で生きてきた。文を読まぬ。算を立てぬ。地は歩いた。風は嗅いだ。馬の腹も見てきた。――だが、それだけだ。それだけの男に、三千を渡して死ねという。三千は、俺の不器用に、一緒に殉じる謂(いわ)れはない」 そこで男はもう一度、頭を下げた。今度は先ほどよりも深く、額が膝の革に触れる音がした。 「だから、問うておる。お主が、何を見ているのか。盤を見ているのなら、見ているままでいい。俺の三千を、お主の見ている盤の上に、置いてくれぬか」
驍は、長く、呼延豹の頭頂を見つめていた。
それから、ゆっくりと、藁の上に這わせていた左手を持ち上げた。鎖が土間を擦る。鉄環の重みが、ずるりと手首から肘へ、肘から肩へと這い上がる。 六年の間、この鉄環は彼の手を地図に向けることを、許されぬ重さとして拒んできた。今、同じ重さが、ふいに従順な道具のように、彼の指先を陣机の縁へ運んでいく。藁の埃と、油の切れた金具の匂いが、息に混じった。手首の内側で、鉄環の縁が皮膚の古い擦過痕を一度だけ撫で、ちりっとした疼きが肘の内まで走り抜けた。呼延豹は身じろぎ一つせず、その動きを見ていた。 陣机の方へ、わずかに体を寄せた。 机の上には、昼に楊豊(ようほう)の幕舎から下げ渡された羊皮紙が、まだ広げたままになっていた。炭の駒、青墨の河筋、赤丸三つ。梁(りょう)北辺の戦線図であって、黒水峡の図ではない。だが驍の脳裏では、すでに二つの地形が音もなく重なっていた。北辺の等高線の癖と、黒水峡の地形は、よく似ていた。両方とも、谷の上流に堰を置きやすい地形である。両方とも、東岸の樹林が深く、西岸の岩肌が、夏に苔を吐き、冬に氷を抱く。
驍は、地図の上に転がっていた炭の駒を、指先でつまんだ。爪の隙間に残った炭の粉が、駒の表面と擦れて、じり、と微かな音を立てる。鎖が、また低く鳴った。 それは、宵のうちに楊豊に「東を突け」と進言した折、自ら赤丸の左翼に置いた、あの駒だった。今夜、楊豊が動かす方角を示すための駒。 驍は、それをゆっくり持ち上げ――地図の外へ置いた。 机の縁、何も書かれていない木目の上に、駒は静かに着地した。木目の節を一つ越えたところで、駒は微かに揺れて止まり、それきり動かなかった。
それから彼は、土間に目を落とし、先ほど自分が転がした砂利を拾い上げた。前夜、白の初手として置いた一粒。冷たく、まだ少し湿っている。指の腹に伝わる粒の角は、丸みを帯びながらも一点だけ尖っていて、その尖りが、ちょうど今の己の心の置き所に似ているように思えた。 驍はそれを、地図の中央、青墨の河筋が一度大きく身を捩る場所――黒水峡の入口にあたる、紙の上の小さな窪みへ、そっと置いた。
たった、それだけだった。
呼延豹は、瞬きを止めて机の上を見た。 炭の駒が、地図の外へ。砂利が、谷の入口へ。 楊豊の三度目の敗北は、もはや盤の外の出来事になっていた。捕囚軍師の眼は、今夜から、楊豊の中軍ではなく、黒水峡の三千の上に置かれた――そう、語らずに語った。
呼延豹は、深く、長く、息を吐いた。 「……俺は、文を読まぬ」 低い声だった。「だが、今のは、読めた」 男は土間の大刀を取り上げ、再び腰に佩いた。鞘の上に積もっていた白い線が、ふっと崩れて、土間に細い帯となって落ちた。それから、鎧の中から、折りたたまれた一枚の竹紙を取り出した。 「黒水峡の道筋だ。十年前、玄狼(げんろう)の偵騎を伏せた折に、自分の歩数で測った。寸尺の合わぬ箇所もあろう。だが、樹林の深さと、岩肌の向きと、上流の堰の位置だけは、間違えておらぬ」 竹紙が、地図の上に広げられた。歩幅で記された荒い数字と、鉛で塗られた濃淡が、青墨の河筋の脇に重なる。
驍はそれをじっと見た。指先の炭の粉は、震えなかった。震えなかったことに、彼自身が、誰よりも先に気づいていた。 鎖が、鳴った。今度はごく小さく、まるで合図のように。
外で、馬蹄の音が止まった。
歩哨の誰何の声、続いて梁本国の早馬の急報。三千の編成、出立の刻、黒水峡までの道程――それに、一つの追加が含まれていた。 「斉(せい)軍先鋒の総大将、蕭烈(しょうれつ)。明朝、谷の南口に着陣の見込み」 名を聞いた瞬間、驍の睫毛が、伏せたまま、ごく微かに震えた。 呼延豹は、それに気づいた。気づいて、何も問わなかった。
雪は、なお降りやまない。 土間の砂利は、谷の入口で、まだ動かない。だが、盤の上では青墨の十万が、すでに、ゆっくりと動き始めていた。